『禁猟区 聖痕なきメサイア』 第9回
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ID二〇八〇〇〇四、登録名サナ・エヴァンス──佐奈が俺の中で要注意人物となったのは、俺たちが十七歳だった三月末、つまり一つ上の先輩たちの「卒業」、集団出荷が済んで間もない頃だった。
後に変化する事となる俺個人の主観を交えずに説明するならば、彼女との関係としては単に隣の部屋の生徒、というだけだ。隣とはいっても、風紀の為に当然男子と女子では部屋のある寮棟は分離されており、男子寮の西端にあった俺の部屋と、女子寮の東端にあった佐奈の部屋は非常階段を隔てただけの位置関係だった為、実質的には隣室、という意味で、窓を互いに開けば挨拶出来る距離だった。
俺も彼女も早起きで、窓を開けるとしばしば顔が合った。起床後は朝のバイタルチェックを受けるまで自室での待機を強いられるのだが、それを待つまでの間、彼女は窓越しに頻繫に俺に話し掛けてきた。おざなりに話に付き合っていた俺だが、それでも意識せずとも彼女については色々な事を知った。
大崎市出身で、機械弄りが趣味。柑橘類と西洋茶が好きで、許せないものは出涸らしの紅茶と焼売にトッピングされたグリンピース。動物は飼うより眺める派で、特に猫をこよなく愛している。
俺は毎朝、窓を開けて彼女と話す時間が楽しくなかったと言えば嘘になるが、何年もの間彼女に対して特別な気持ちを抱いていた訳ではなかった。……否、この時はまだ自身の人間性を自覚していなかったので、ややもすると気付いていなかっただけかもしれない。そうでなければ、あの決定的瞬間だけであっさりと彼女を受け入れ、気持ちが”特別”に変化する訳がないから。
全く、運命はどう転がるのか分かったものではない。
俺が彼女を意識し始めたのは、監視対象に定めてすぐの頃だった。
その夜は、春分を過ぎて間もない、まだ袖丈の覚束ない少し寒い夜だった。密かに発信機を忍ばせておいた佐奈が、日付が変わった頃に部屋から起き出し、屋上へと彷徨い出た事を知った俺はすぐに彼女を追った。彼女の記憶が戻っているのかいないのか、確かめねばならなかった。
「夜遊びは規則違反だよ、サナ」
フェンスに指を通し、凭れ掛かるように佇む佐奈の背に、俺は声を掛けた。入院着のようにも見えるナイトガウンの白が、ぼんやりとした月光の中で彼女の体のラインを淡く浮かべている。何故か、普段集団生活を送る中で彼女に接する時よりもほっそりとして見えた。
これが満天の星の下での出来事であれば、何かロマンチックな物語の一場面にも見えただろう。だが、実際には大都市仙台の街灯りと、旧時代に大量投棄された宇宙ゴミのせいで星は一つも見えなかった。
「……ナハトもしてるじゃん、夜遊び」
佐奈は振り返ると、ややとろりとした目で俺を見てきた。
「不良男子」
俺は刹那、彼女が「被食種」と言ったのかと思い、動揺した。俺が夜な夜な追い駆けて来た理由に勘づいているのか、その事で俺を裏切り者と揶揄、或いはやんわりと糾弾しているのか。やはりこの場での対処が必要なのか。
そのような事を考える程、俺は何故か、屋上に上がって来た時点で落ち着きをなくしていた。
「眠れなかったんだよ。そしたら、外から君が部屋を出る音が聞こえて……非常階段を登っているみたいだったし。突発的な夢遊病とかで、跳び下りられたりしたら大変だからさ」
「ふうん……足音には気を付けたつもりだったけどな。裸足だったし、自分じゃ全然聞こえなかったんだけど。ナハト、耳いいんだね」
やや、訝しむようにも聞こえる台詞だった。
「で、結局何してたんだよ? まだ涼しいんだし、風邪引くよ」
「ナハト、心配してくれるんだ。ありがと」
「………」
微笑み掛けられ、俺は揶われているのではないかと思う。はぐらかそうとするところを鑑みて、やはり言えないような事をしようとしていたのではないか。このままでは埒が明かないと思い、俺は切り込む事にした。
「夜逃げでもするつもりだったのか?」
わざと、冗談めかすような軽い調子で。それで過剰に反応するようであれば、佐奈は黒で確定という事になる。こちらの目が全く笑っていない事に、気付くようであればそれでも構わない、と俺は思っていた。
果たして彼女は──分かりやすい反応を返さなかった。
やや神妙な顔で、俯きつつ足元に伸びる自分の影を見下ろしている。俺が焦れてきた頃、彼女は「ねえ、ナハト」と静かな声で言った。
「私と一緒に逃げない?」
「逃げる?」
自分から言った言葉にも拘わらず、俺はどきりとして鸚鵡返しした。警戒心を強めながら、今度は真面目に問う。
「逃げるって、何からさ?」
「学校から、先生たちから。この青葉エリア……牧場から。ロボットたちの社会から……それとも、被食種っていう私たちの運命からって、言い換えてもいいのかもしれない」
佐奈は、指を折りながら言った。
「ナハトが言ってるのは、そういう事でしょ?」
「………!」
俺は、驚愕が表情に出ないよう懸命に堪えた。覚悟していたとはいえ、面と向かって打ち明けられては動揺するなという方が無理な話だった。
ここまではっきり掴んでいるとは、思っていなかった。これは明日いちばんにコールブランドに報告せねばならないかもしれない。ここは俺も賛成であると伝え、彼女の味方となった振りをして情報を集めるべきだろうか。彼女は今夜、下見をするつもりだったのか。もう彼女が計画を立てているのだとすれば、他に協力している生徒は居るのか。
「俺は──」
「だけど、ナハトはきっと、そう簡単に返事はしてくれないよね」
佐奈の続けた台詞が、俺の思考を遮った。
「だってナハト、繋がっているんでしょう? 上のノードたちと」
何という事だろうか。彼女は、俺が生まれてこの方ひた隠しにし続けていた秘密をいとも容易く看破してきた。それも、俺の裏切りを断罪するようにではなく、ごく自然に、穏やかに。
そしてその声には、憐れむような響きすら感じられた。
「そうだとしたら」俺は、言葉を選びながら言う。「そうだとしたら、何なんだ?」
「隠さなくたっていいんだよ。私、ほんとの事言うとね、ずっと前から知っていたんだ。エリアの事も、私たち生徒が本当は家畜なんだって事も。十八歳になったら出荷される事も、先輩たちがどうなったのかもね。それにナハトが……私たちとは、違うって事も」
「いつからだ?」
「猟友会に撃たれて捕まって、ここのベッドで目を覚ました時からずっと。薬、効かなかったんだね。ナハトの事だって、ちょっと見てたらすぐに分かった。確信したのは、大分後になってからだったけど」
佐奈の口調は、何処までも優しげなままだった。
──何故だ。
俺は、不測の事態を認めたくないという逃避願望に抗い、思考を続ける。
たとえ佐奈が薬が効きにくい体質だったとしても、覚醒してすぐに人食いであるあの人面マスクたちに取り囲まれていればパニックを起こして然るべきだ。抵抗して再度鎮圧の措置を取られるか、そうでなくてもバイタルサインにも動揺を示す挙動が表れたはず。奇跡的に一時を乗り越えても、十年以上も──それこそ来年度には自分たちが出荷されるという時になるまで、プレッシャーに耐え続けられる訳がない。俺にすら気付かれる事なく。
それとも彼女は、最初の瞬間に全てを受容したというのか。いずれ自分が屠殺される事を分かっていて、一切を諦めていたのか。
俺がオブザーバーであると知りながら、毎朝窓越しに笑顔を向けていたのか。
俺が敵である事を分かった上で、今彼女は何と口にした?
(一緒に逃げない? だと……?)
彼女の台詞が脳に浸透してくるに連れ、自分でも何故それ程に、と思う程の怒りが込み上げてきた。騙されていたのが自分だったという屈辱感、そして俺という存在が全否定されたかのような反発だった。
「そこまで知られていたら」
俺は、ポケットに手を突っ込みながら低く言った。
「残念だけど、君を生かしておく訳には行かない。健忘薬も効かないなら、ここで口を封じるしかなくなるよ」
探り当てたものを取り出し、佐奈にもよく見えるように顔の前に持ってくる。それはマイクロジェットを使用した、皮膚組織で直接シリンジの中身を拡散させる無針注射器だった。
塩化カリウム溶液二十ミリリットル。=致死量。
「やむを得ない時にはこれを使うといいよ」
佐奈や俺のクラス担任にして、俺の報告担当であるリザ先生に渡された、いわば最終兵器だった。職員たちと、例外的に俺にのみ使用の許された携帯端末HME──ホログラムメッセージエクスチェンジャー──で連絡すれば、亡骸は夜間のうちにオペレーターが回収してくれる。
成人を間近に控え、体格でも筋肉量でも明らかに差が出来た佐奈と俺。隙を突いて一瞬で組み伏せ、動きを封じればすぐに決着が着く。
彼女が抵抗を見せれば、俺は即座に動くつもりだった。
しかし、彼女は俺が「口を封じる」という決定打を放っても尚、穏やかな態度を崩そうとはしなかった。
「ナハト、駄目。あなたの手は汚させない」
「俺の手はとっくに汚れているんだよ。今更、何だっていうんだ」
「あなたが苦しむ事になる。死んだ私よりもずっと」
佐奈は言ってから、「いえ」と自ら訂正を加えた。
「あなたは、もう苦しんでいるんでしょう?」
「侮辱するな!」
俺は声を抑えつつも、恫喝するように鋭く怒鳴りつけた。
「俺はもう何人も、この方法で罠に掛けてきた。中には死んだ奴も居る。だが、それが何だ? あいつらも君も、友達だなんて思った事はない!」
「……そう? 本当に?」
佐奈の顔が、そこで初めて泣きそうな色を見せた。
「だったらどうして、学校で仲良くする皆を見て……あんなに、寂しそうな顔をしているの?」
「俺は……寂しくなんか……」
佐奈に言われ、胸郭の内側から針で刺されるような痛みが走る。
寂しくなんかない。そう言おうとした。だが、喉からは潰れたような音が漏れるだけで、声は出てこなかった。
「私は来年の今頃、皆を連れてここから逃げようと思ってる」佐奈の言葉は、決して夢物語ではない、強い決意を孕んでいた。「まず『卒業』する同世代の皆から。そしたら下の子たちも、順番に逃がす」
彼女は歩み寄って来ると、注射器を掴んだ俺の手を自分の両手で取った。
「勿論、ナハトも一緒にだよ」
「俺は……オブザーバーなんだぞ。そんな事、する訳がないだろ。あいつらみたいな無知じゃない、エリアの真実を知る人間だ。先生たちから逃げる必要なんて、俺の何処にあるっていうんだ」
「だって、ナハトも皆と一緒に集団出荷されちゃうよ」
佐奈は断定口調で言い切った。
思わず絶句する。そんな事はあるはずがない、と言うつもりだった。
だが、そこで俺は初めて気が付く。ごく当たり前の事に──エリアでは、十八歳を超えた人間は管理されないという事に。どれだけ個人差があるとはいえ、少年の面影があからさまに見られなくなるのはせいぜい二十歳が限界だろう。そして、その年齢こそが、人間に於ける流動性知能の発達限界を示している。
俺は無根拠に、自分は永遠にここでオブザーバーとしての役目を果たし続けるものと信じていた。しかし、現状維持の為だけに投資が振り向けられるのは、どう考えても無駄だ。誕生した時に成長促進されたとはいえ、俺の精神年齢と体は既に佐奈たちと同い歳。下級生たちの目もある、佐奈たちの出荷が終わって尚、俺がエリアに居続ける事は許されない。
だからといって、使い捨てのように命を奪われるなどと。
あるはずが……あっていいはずがない。人間の心を解さない俺が、これ程明らかな事実を理性でない感情で否定していた。
佐奈は続ける。
「私の仕掛けは、もう大分進んでいる。管理官のノードたちが話している事も、全部知っているよ。ナハトの事だって、それで裏が取れたんだもん。上の連中が、あなたを来年の今頃には処分するって言っている事も。代わりのオブザーバーが、もう生まれて培養液中で眠っている事もね」
「誰なんだ、それは……?」
「八剱光村。登録名はフォス・アーベント。もう、ティーチングマシンによる無意識領域での学習は始まっている」
俺を追い込む為に咄嗟に考えられた嘘だとは、思えなかった。俺は注射器を取り落とすと、体の奥深くから込み上げてくる悪寒を必死に抑え込もうとする。しかし、薄いガウンの生地越しに、両腕の肌は容赦なく粟立った。
これは、死に対する恐怖心だろうか。俺はこれまでそれを感じた事はなかったし、自分がそれを感じる事があるなど、想像した事すらなかった。
体幹から、全身を顫動が揺らして腐らせていくような気がした。
俺はこれを、今まで多くの生徒たちに味わわせていたのだろうか──。
「一緒に逃げようよ」
佐奈が、不意に俺の頭に両腕を回しながら言ってきた。名前を呼ばれる。それは同じ発音でありながら、不思議と登録名のナハト(Nacht)ではない「那覇人」であるように思われた。
「さ……な?」
俺も、彼女の名を呼ぶ。俺の方もまた、サナ(Sana)ではなく本名の「佐奈」のつもりでその音を口にしていた。
「知ってた。最初からずっと、那覇人が本当は敵だったって事は。私たちの友達を……家族も同然の子供たちを二人、間接的に殺した事も分かっていた。だけど、嫌いになんてなれなくってさ」
「それって、同情?」
言いかけて、嗚咽が漏れた。
「同情なんか要らない。結局俺と君じゃ、同じ人間でも立場が違うんだ。解放されたいなんて……」
言葉が続かなくなる。抱き締める佐奈の体温が温かい。
「私は那覇人の事、昔からずっと、ちゃんと友達だって思っていたよ。那覇人がそう思っていないんだったら、今更だけど……改めて言うから。那覇人、私と友達になって。同情で誘っているんじゃないの。友達として、家族として、私たちと一緒に来て欲しいの」
彼女の囁きが、耳朶をくすぐった。
俺にはもう、何も言う事はなかった。
今まで感じた事のないような不思議な感覚──歓喜とも困惑とも、悲哀ともつかない感情が、いつしか腐り落ちていたと思われた体の内側で再生し、温かく満たしていくのに身を委ねていた。
俺はこの時、生まれた時から何処かに置き去りにしていたものを取り戻した。
俺は、本当の意味で”人間”になったのだ。