『禁猟区 聖痕なきメサイア』 第66回
㊳ ヴェルカナ
高速道路を行く大型車両に揺られながら、ヴェルカナは何度も北を振り返った。
ベリーは、ヘンリーを助けられただろうか。時に向こう見ずであると窘められる事もある自分だが、そのような部分も彼が学んでいたら自分の責任だよな、と、やや複雑な思いが過ぎる。
願わくばあの心優しい若者が、自らの手を汚す事がないように。
ヴェルカナにとっては、それが最も大きな願いだった。
(共存を謳いながら、私の手は汚れてしまったのだから……)
* * *
自分が、生徒たちに自分の派遣元だと紹介しているあの偽県立病院のコンピューターから分割した無意識同調のデータを回収したのは、佐奈がエリアに侵入する前だった。当然ながら、この時点でヴェルカナはエリアの終焉を予測してデータを外部に持ち出そうとしていた訳ではなかった。
東京で直接、世間に隠蔽された事実を公表しようと思っていた。学会が俎上に載せているというオブザーバー再登用に伴う人間電脳化研究、及びハミルトンが目論む青葉エリアでの人工発芽計画についてだ。同時に、自分に致命的なエラーが発生したと思われたとしても、無意識同調の最終目的である「旧人類との共存」を訴えるつもりだった。
ハミルトンが実際には食人学習を初期段階で中断しており、その結果十五年目に訪れる寿命を回避したという事実がそれより後に明かされたのは、何やら量子もつれ的な皮肉を感じさせる事ではあった。
この事については、あの者が犯した犯罪の立証と共に、無意識同調が実用化された後、食人後の社会構想が成立し得る事の裏づけとして報告しようと思う。
データの回収の為に病院に赴いた時、そこに詰めている医者役のエクセリオンたちには自分の最終目的を説明した。システム監査が入った時に不審な操作の痕跡が発見されないよう、各コンピューターの初期化も行いたかったが、それには彼らの合意が不可欠だった。とはいえ、この安全策については彼らに協力を断られたら潔く断念するつもりでいた。
その結果は、ヴェルカナの期待を遥かに悪い方向に超えるものだった。
「気でも狂いましたか、ロズブローク先生!」
話を終えた時、彼らの中の一体は悍ましげにそう叫んだ。他の職員たちも、異質なものを見るような目で自分を見つめていた。
それは、信じていた相談相手の正体が実は詐欺師だった、とでもいうかのような嫌悪感を滲ませた様子だった。確かに自分の主張は大多数にとって容認し難いものであるとは自覚していたが、そこまで拒絶される謂れはないのではないか、とヴェルカナは逆に驚いた。
「私は、至って正気のつもりなのだが……」
「じゃあ何故、そのような事を平気で口に出せるのです? あなたは、エリアの運営に携わる第一人者でしょう!?」
「全国への収穫肉の供給をグループが司り、必要に応じて調整を取っているからこその社会構造でしょう? 私たちが作り出しているのは、間違いなく一軍に属する社会資本なんですよ」
「しかも、旧人類を……私たちの祖先に無慈悲極まるディファレンスプログラムを組み込んだ獣たちを、再び社会運営に参画させるなんて。あの子供たちに慕われて、いい気になっているんじゃないでしょうね? 反体制派どころの騒ぎじゃない、そもそも種の違う獣どもに味方するなんて!」
彼らの思想は、ハミルトンと寸分違わぬものだった。但しその契機は、彼のような支配欲や嗜虐志向性によるものではなく、現体制の維持を危ぶむ当然の思考が発展したものであり、監視を解き放たれた猛獣が街中を徘徊する事に怯える市民の恐怖心であった。
ごく当たり前の事ながら、ヴェルカナ自身がその「猛獣の檻」を開放しようとしていると過剰に反応されたのが不幸だった。
「無法者だ……」
誰かが、そう呟いた。
それはシステムを逸脱し、いずれ完全有機化によって訪れる自然な解放の時まで従わずに機械的生命に仇を成す異常の名だった。または悪魔と呼ばれる汚染個体であり、国家によって掻爬されるべき存在を意味していた。
「無法者だ! 無法者を排除せよ!」
彼らはそれをきっかけに、常に携帯している制圧用武器を取ってヴェルカナに襲い掛かってきた。彼らの本来の役割は、有事の際に脅威と戦う為のセキュリティ執行ユニットだ。ヴェルカナは、身の危険を感じた。
──データを奪われる訳には行かない。
そして、研究サンプルであり将来ウィキとして差し出す自分自身が破壊されるような事もあってはならなかった。
気が付けばヴェルカナは、彼らの一体から電気棒を奪い取り、相手に向かって反撃していた。相手が恐れに、こちらが焦りに身を任せていた事が加減を誤らせ、我に返った時にはそのエクセリオンの頭部は潰れていた。
通報されれば、全てが水泡に帰す事になる。
冷静にそう思ったヴェルカナは、涙を呑んで同僚たちを殺めた。
機能を停止した彼らの義体は、病院の地下フロアに遺棄して隠蔽した。
* * *
データの回収を終えた後、ヴェルカナは施設に戻り、自室のPCに統合データの移行を行った。病院であのような事を行ってしまった以上、そこに長居する事も出来なかったし、今後生徒たちの研修で使用する事もある為、偽装用のカルテやマニュアルなどのデータも保存しておかねばならなかった。
時間を掛けてデータ移行を実行している時、異常発生が職員たちに通達された。ヴェルカナは作業中のPCをそのままに裏F棟に向かい、そこで棟のシステムダウンとコールブランドの亡骸を目の当たりにした。
そこで、侵入者の正体が昨日の記録文書に記されていた佐奈であると気が付いたのだった。
(私は未来の為に、何を切り捨てたのだろう)
ヴェルカナは考える。一つ一つを列挙していけば、恐らくそれは自分が思っている以上に多いのかもしれない。そういった意味も込めて、会長は自分の事を加法付値の個体と呼んだのだろう。
自分は彼らの事を、当然のように被食種、旧人類と呼んできた。ホモ・ハビリスの復元写真を見て、誰もが「原人」と呼ぶように。しかし自分自身の属する種族を科学的視点から記述する時、それはエクセリオンでも新人類でもなく、彼らによって生み出された時のまま「ノード」だった。
新実存的高次存在、通称NODE。
自分はノードだ。たとえ次段階に進んだとしても、それは変わらない。
(エクセリオンが……ノードが、人を食わなくても生きていけるような世界に。我々が生きる為に、もう人間の子供たちが死ななくても良くなるように。そして食人後の世界で、彼らがもう要らない存在として淘汰されなくていいように……その為に私は人肉を喰らい、挙句には同族をも手に掛けた)
それが矛盾しているとは、会長に指摘されずとも分かっていた。
だが、身勝手な願いだとは分かっていたが、青葉エリアの終焉後、あの子供たちには生きていて欲しいと思った。彼らには大人になって、自分が本当に作りたかった世界を見て欲しかった。
その為には、ヴェルカナ自身がウィキとならねばならなかった。
もう、彼らには会えないのだろうな、と思うと、有機化した塩辛い涙が込み上げてきた。
(さようなら、皆)
車両は夕暮れの高速道路を、斜陽を追い駆けるように南進して行った。




