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『禁猟区 聖痕なきメサイア』 第65回

  ㊲ 那覇人の戯曲(ナハトムジーク)(過去)


 弾切れになった銃を放り捨ててHMEを取り出す白髭に視線をやる暇もなく、私は倒れ込んだ相棒に駆け寄った。右腕全体を使って彼の上体を起こし、既に感覚を喪失しつつある左手で傷口を押さえる。

 指の隙間から止め処なく彼の動脈血が溢れるのが、あたかも生命が流れ出ていくかのように思われて怖かった。

「那覇人! しっかりして! 目を開けてよ、死んじゃ嫌だ!」

 私は、無我夢中で叫んだ。最早、何故ハミルトンがわざわざ実弾を持っていたのかも、何故同族であるノードを容赦なく破壊したのかについても、思考を巡らす余裕はなかった。

「佐奈……逃げて……」

 那覇人が、ぼんやりと目を開いて言った。

「今回は、失敗だ……せめて、佐奈だけでも……」

「嫌だよ那覇人……一緒に行こうよ。作戦の前、家族を助けようって言ったのは那覇人だったじゃない……それなのに……!」

「だけどさ、俺……今まで大勢の仲間を、死に追いやってしまっていた。よく考えたら、これが……俺の償い、だったのかもな……」

「違う、そんなの絶対に違う! それなら、一緒に生きてくれた方が」

「勘違いしないでくれよ、佐奈……俺の償いって、ただ死ぬ事じゃないよ……これだけ多くの皆が、自由になる事が出来た……俺が、やっと誰かを救えた、んだ。奪ってしまった命を……誰かの命が代わりになる、なんて、思っちゃいけないけど……俺が生きていて良かったって……思ってくれる人が居るなら……」

 那覇人はそこまで言うと、激しく咳き込んだ。口から血の塊が溢れる。

 私はおろおろとするばかりだった。だが、その時苦しそうに戦慄(わなな)いていた彼の口元が、ふっと笑みの形に変わった。

「最後に佐奈が逃げてくれたら、俺は少なくとも……君の命を救えた事になる。君が当人なんだから、それをいちばん分かってくれると思う……俺、佐奈にそう思って欲しいよ……処分されるより、ずっといいって」

 彼の顔がぼやけては、融け落ちるように流れていく。涙だった。

 泣いているのは、長い間そう出来なかった私だった。

「俺……俺が生まれてきて、佐奈は幸せだった……のかな……俺は、佐奈を幸せに出来て、幸せだったって……言っていいのかな……?」

「幸せだったよ、私」

 逡巡する事なく、私は言った。

「ずっと独りで、怖くて、(つら)かったけど……オブザーバーだった那覇人がちゃんと人間だったって知れて、分かり合えて、家族になれて……これからもっと幸せになるんだよ。だから、一緒に行こうよ!」

 嗚咽と共に、熱い涙が喉に流れ込む。ひたすらに、彼の傷を押さえ続けた。

「困らせないでくれよ、佐奈……俺はきっと、君の心に残り続けるんだろうな……記憶媒体も、ドライブも要らない……オーガニックの特権だ。エリアシステムの一パーツに過ぎなかった俺の事を、君はこんなに想ってくれている……生きているって、何て嬉しいんだろう……」

「那覇人……っ」

「行って、佐奈。君を助けたっていう、最後の存在理由(レーゾンデートル)を俺に……」

 彼が、血に塗れた自分の手で私の左手を包んできた。鉛弾を喰らい、神経が断裂したらしく麻痺していく手に、彼の温かさがやけに染みた。

 私は、流れるのをやめた彼の血液から手を離した。

「分かった……分かったよ、那覇人。今まで、ありがとう」

 立ち上がると、外壁に視線を向けた。跳ね飛んだ仲間たちの血液が打ちつけて(まだら)になった装飾を素早く見回し、足掛かりに出来そうなものを見定めると、それに向かって駆け出す。

 放心状態に陥っていたコールブランドが、我に返ったらしく(ほとん)ど脊髄反射のような動きで追って来た。しかし、その時既に私は彼の手の届かない場所に居た。外壁の上まで攀じ登ると、私は祝福の垂れ幕を敷地内に落とした。


          *   *   *


 壁を越えて最初に目に入ったのは、エリアに近づく者を威嚇するかのように張り巡らされた有刺鉄線だった。

 それを見ていると、囲いの中で過ごしてきた日々が走馬灯の如く浮かんでは消え始める。恐ろしかった事も、楽しかった事も、あたかも誰かが、ここを”卒業”出来て良かったでしょう、と、式日の後に恩着せがましく言ってくるように。

 私はそれらを振り払うかのように、握り込んだ左拳を渾身の力で有刺鉄線に叩きつけた。

 感覚を失いかけた拳に鋭い痛みが走り、流血が未だに混沌とした感情の靄を霧散させていく。涙が頰を伝ったが、それは痛みのせいではない。

 彼の、本当の存在理由(レーゾンデートル)となったもの。彼が、本当に守りたかったもの。

 私はそれを持って、今ここに立っているのだ、と思った。

 振り返り、有刺鉄線に背を向ける。

 丘の向こうに摩天楼を臨む広大無辺の晒し野の、仲間たちが待っているであろう方角を見据える。

 私は涙を拭う。歩き出す。歩を刻む。風を浴びる。また涙が流れる。熱いものが込み上げてくる。風を吸い込む。それを胸の底に落とす。足を進める。下唇を噛み締める。微かに血の味がする。口を引き結ぶ。脳裏で彼が笑う。

 一歩ごとに、彼の笑顔が浮かんでは消える。


          *   *   *


 そして、私は夜ごと眠り、彼の夢を見た。

 夢の中で彼と話し、私はまた泣いた。


          *   *   *


 いつか、ここに戻ってくると誓った。

 何度も誓い、それは目の前の極限状態を打開する為に何度も過去のものとなって生活の中に消えていった。壊死した左腕を切断し、機関手(ジンギスカン)を繋いだ時にも。そこに、彼と完成させられなかった原理(ドグマ)、勇気の証を載せた時にも。スラムでの生活は、覚悟していた事とはいえ苛烈を極めるものだった。

 彼は去り、時は去り、過去は去り、仲間たちもそれぞれの道へと去り、不可逆的な別れも何度も去り、千を超える夜が去り、また朝が来て、それも去って行く。私もまた、独り征野へと去って行く。

 道の終わりを目指す。

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