『禁猟区 聖痕なきメサイア』 第58回
㉜ 杞紗
オートフィギュアが姿を現してから武器庫に逃げ込むまで、三人で通った逃走ルートを杞紗は逆走していた。棟と棟の間など本来狭い空間は通れないと分かっていながらも、一度E棟を炎上させたオートフィギュアは味を占めた──そこまで”感じられる”程高度なAIは搭載されていないはずだが──らしく、建物を大規模に損壊させながら追跡してくる。
そうでなければむしろ困るのだが、成り行きでホロ映像を動かす杞紗本人がオートフィギュアに捕捉されてしまった為に、考えていたプランは大きく狂ったと言わざるを得なかった。
誘導する分にはいいが、輸送用通路の門扉の下まで追い込むまで自分がターゲットにされている訳には行かない。そこまで行く間に、何としてでもホロ映像の方を最優先排除対象としてAIに認識して貰わねばならないのだ。
(もし、追い着かれたら……)
考えまいとしても、それは否応なく頭に浮かんだ。
光村の装備していた小型VTSに切り裂かれた傷は、自分でも痛々しいと思う外見よりもむしろ内側のダメージの方が大きかった。摂氏三百度を超える高温の刃を直接挿し込まれた傷の内側では筋肉が焦げつき、炭化した細胞が排出される事もなく骨をずきずきと痛ませている。
コントローラーの操作に失敗し、オートフィギュアの追随プログラムを操りきれなかったのも、この傷によるものだった。現在は自分も攻撃対象とされ、映像と共に走っているので大きな問題は起こっていないが、最終段階──輸送用通路へ踏み込ませる時に同様の失敗をすれば、類たちの体力的な限界を鑑みても詰みだとしかいいようがない。
──光村が途中で目を覚まし、自分や彼らに襲い掛かる事がなければ、作戦の進行にこれ程手間取る事もなかったのだろうか。
ちらりとそう思った時、オートフィギュアが武器庫を破壊し、その際に機体から落下した光村を類が身を挺して助けた様子がフラッシュバックした。あの時も、失敗すれば類は瓦礫の下敷きになるか、或いは機体に踏み潰されていただろう。彼の行動が成功したのは結果的な事で、もし彼がリスク対効果を鑑みた上で自分の安全を採っていても、自分も麗女翔も彼を責めなかったはずだ。無論、皆心を痛めて自責の念に駆られる事はあっただろうが。
だが杞紗は、如何にオブザーバーとして生み出され、人格を持って覚醒していない状態の彼であっても、仕方なく切り捨てるべき要素に含めたくはなかった。彼もれっきとした、独立した人間の一人なのだから。
(人間……か)
そうである事を、彼を救うべき理由にしている自分に思わず口元が綻ぶ。
それ程までに自分は、人間が──他人が好きになっていたのだな、と思った。
杞紗は初めてこのエリアで目覚めた時、ヴェルカナたちによって”保護”される以前の記憶を思い出し、酷く恐れた。記憶の中で杞紗は、いつも薄暗く荒廃した部屋の中に居た。服は悪臭を放つ襤褸切れ同然のシャツ一枚で、おもちゃは半ば首の切断された熊のぬいぐるみだけ。いつも分厚いカーテンが降ろされ、あたかも外界から隠されているようだった。
それでも電灯を点ける事が許されなかったのは、電気代の節約の為だった。外に出る事は許されなかったし、恐らくそうでなくても自分が誰かに積極的に関わって貰えるなどという事は期待していなかっただろう。あまりにも汚く、反吐が出る程の臭いを垂れ流していたのだから。それでも玄関を訪れる”人”の姿を覚えていたという事は、きっと狭いアパートか何処かに住んでいたのだろうと思う。
「キサ・ブラッシュテールちゃん。君の両親は、君に対して育児放棄を行っていたようだ」
ヴェルカナに説明を受けながら、杞紗はその事を理解した。
当時の杞紗にとって、自分ではない人間とはたった三人だけだった。両親と、時折家を訪ねて来る黒服の男。その男はスーツの上からも分かる程筋肉質で、スキンヘッドには明らかに縫合痕と分かる傷があった。彼は両親に対して暴言を吐き、母の方が泣き出すまで何事か恫喝した。
「それでも、彼らが自分たちでは殆ど食べずになけなしの食べ物を全て君に与え続けていたのは、十歳の誕生日まで何とか生きて貰わなければならなかったからだ。彼らが出せる月々の掛け金で受け取れる最高の金額を得る為には、時が熟すのを待たなければならなかった」
彼らも辛かった事だろう、とヴェルカナが言うのを聴き、杞紗はそれまで自分に何が行なわれていたのかをはっきりと悟った。隣人が飛び込んで来るまでの間、何故父親が自分の首をあれ程苦しく絞め続けたのかについても。
両親が自分に対して行っていた事は、あの最後の瞬間以前からずっと”虐待”だったとヴェルカナは言った。それでも、外の世界を知らない杞紗にとって、自分たちの飢えを堪えながらもいつも日に三度の食べ物を与えてくれる両親は唯一無二の味方であった。彼らを恫喝する黒服の男が共通の”敵”で、両親はその脅威から自分を守ってくれる頼るべき存在なのだと。
全てを理解した時、杞紗は信じていた彼らに裏切られた。そして、それまで知っていた”人間”全てが”敵”だった事を知った。
杞紗は根本的に、人間を信じられなくなった。ヴェルカナたち教師も、何故か自分を構ってくる麗女翔も、呆れ気味ながらも彼に着いて歩く類も──当時は彼らの事をレナート・パリンジェネシス、ルイ・アウストリスという名前の米連移民の末裔なのだと思っていた──、いつ化けの皮が剝がれて獣性を滲み出させるのかと不安で仕方がなかった。
あまりにも自分に協調性がないので、これは良くないと思ったらしく二回目の記憶の改竄が行われた。曰く、身辺調査を進めるうちに杞紗の親戚が見つかった。父親が両親と仲違いをして仙台に逃げ、母と知り合ったらしいが、実家は東京・浅草にあって由緒正しい銘菓だった。
経営者である祖母は、母親が米連上陸時に移民と日本人女性の間に生まれた混血であり、四半混血として日本人の血を引いていた。本当に幼い頃、一時的に彼女と父親の和解があり、両親は言葉を覚え始めたばかりの自分を連れて浅草の実家に帰省する事もあった。そこで食べた和菓子の味を思い出せないか、と問われ、薬の為に杞紗は追加されたその設定を思い出した。
結局父親がまた大きな”やらかし”を行い、多額の負債を負う羽目になった為再び絶縁してしまったが、人間は皆信用出来ないものではないのだよ、とヴェルカナに諭され、杞紗の人間恐怖症は幾分か程度を改善した。
全く、よくぞここまで嘘八百の詰め込みを、と今では思う。
ヴェルカナのあの研究データを見た後では、彼もここまで徹底して生徒たちの尊厳を踏み躙る事には良心の呵責を感じていたには違いない、と思う。杞紗にとって、一昨日類によって真実が暴かれるまで、これらの「ありもしない記憶」は紛れもなく本物だった。それに踊らされ、心理的傾向までをコントロールされていた事には嫌悪感を覚えずにはいられない。
けれど、自分がそのように「ありもしない記憶」で長い間苦しんでいた人間恐怖症から救われたのは、エリアシステムによる偽りの過去の上塗りでは決してなかったと思う。
(だってそうじゃなかったら……麗女翔君たちの事、友達だなんて絶対に思えなかったはずだもん)
そうだ、と杞紗は確信している。
元々自分は、ヴェルカナたち職員をも信用出来ていなかったのだ。それが、悲惨すぎる”思い出”と同質のものを思い出し、諭されるだけでいとも容易く改善されたのだとは思わない。きっと自分は、麗女翔たちから関わって貰ううちに、心の中でまた人を好きになりたいという思いが芽生えていたのだ。それでも先行してしまう恐怖心が去る為に、もう一度人を好きになってもいいのだという許しを、誰かから与えて貰いたかった。
今でも、少しだけ怖いと思う事がある。
類がエリアの正体を知り、優しい担任教諭にして主治医のヴェルカナを始め、信頼していた者たちが自分たち家畜の管理官だという事を知った時の恐れは、偽りの記憶の中、両親が自分の命を金に換えようとしていた事実が明らかになった時の衝撃に通ずるものがあった。記憶を再生され、そのような「不幸な過去」を否定されて尚同じような裏切りが襲い掛かった事で、思えば自分はまた人間不信に陥ってもおかしくはなかった。
そうならなかったのは、麗女翔と類は何があっても自分を裏切る事はないという絶対の信頼があったからだった。どのような現実を見せつけられても、それだけは決して変わる事がないだろうと思う程の。
(私は、私のこの気持ちを大切にしたい)
──だから、光村という一人の人間が生きていた事を、大切な誰かの命が失われた理由にはしたくない。
杞紗は、地面を強く蹴って施設裏に飛び出した。




