『禁猟区 聖痕なきメサイア』 第4回
② ヴェルカナ
再生している。
自室に戻り、白衣をはだけると、軽い痛痒感を覚えていた鳩尾の辺りに広がる傷口を見た。昨日掻き潰した擦り傷の上に、煙か黴の如く張った膜。その向こうに、わざと本物らしくくすませたベージュ色の人工皮膚とは明らかに異なる薄桃色が透けて見えた。
筋肉色素、ミオグロビン。エクセリオンの外表をコーティングする人工筋肉は、皮膚の下で確かにそれらしい肉色をしているが、それは所詮着色剤によるものに過ぎない。人工皮膚が破れ、削られれば詰め物をして修復するが、自然再生でこのような色が生まれたという事は、自分には確かにミオグロビンが体内生成されているという事になる。
(皮膚感覚が生じた時点で、外表組織の形成は示唆されていた……)
寿命が訪れるまでの残り年数で、自身の有機化はあとどれ程進むのだろう。そしてそれを、全てのエクセリオンに共有する為の独自研究は、何処まで進められるのだろう。成果は、まだ多くの問題を抱えている。
(やり遂げねばならないな……あの子たちの為にも)
自分に誰よりも早くそれが始まったのは、きっとこの為なのだから。
有神論や信仰を必要としないエクセリオンだが、ヴェルカナはせめて自分たちを制約する機械的生命が、予定調和である事を切に祈っていた。
時計を確認し、薬学部から持ち出してきた生徒用の痒み止めを患部に塗布してから白衣を着直す。彼らを欺く為に被っている「映画俳優の如く整った優男」のマスクを再び頭部に装着し、部屋を後にする。
* * *
「ID二一〇〇一二八、登録名ニコラス・ワイアット……血圧一一二の七〇。血中酸素濃度九六%。体温三六・六度。呼吸……」
ヴェルカナの読み上げる数値を、助手のベリーが素早くPCに打ち込んでいく。ここではバイタルサインに加え、筋肉量や骨密度、その他の成分や脳の発達程度なども一日ごとに記録している。ごく僅かな変化であっても、細かな推移を追う事で食欲不振や疾患の兆候を知る事が出来るし、そのような所見の原因となった環境や心理状態を分析する事も出来る。
メンタルケアに於けるアプローチ方法の模索、もしくは健忘薬の効果が切れ、真実に勘づいたかどうかの調査。後者によって危険人物と判定された生徒は特別に監視を強化され、最悪の場合は──。
不確実な方法である事は分かっている。だが、まだこの方法が依存する「管理者の直感」がそのように十分な根拠として成立しない事を鑑みて、自分たちエクセリオンと人間との互換性は一線を越えてはいない。同時に、エクセリオンはまだ機械的生命の軛から解き放たれていない……
「素晴らしい」
モニタリング室の後方から見ていたハミルトンが手を叩いた。スタンディングオベーションの一部を務めるかのような、おざなりではない熱心な音に、ヴェルカナは物思いから我に返る。
「さすがは青葉エリアの管理教育システムだ。やはり国内最高級の銘柄、是非とも東京管区に流用させて貰いたいものだね」
「いえいえ、私はあくまで一コンサルタントに過ぎません。グループの皆さんの努力の賜物ですよ」
ヴェルカナはマスクを外して彼に近づき、握手を交わす。かつて関東ネオヒューマノの理事長代理を務め、現在では監査部門の総責任者に就任しているこのエクセリオンも、普段エリア内で被っている白髪、白髭の男のマスクを取り複眼を持つ頭部を曝け出していた。
「ヴェルカナ・ロズブローク先生、あなたはやはり培養人類学の今後に於いて第一線で活躍すべき人材だ。残年も少ない、このような地方になど留まっていないで、首都圏の研究所に移ったらどうだね?」
「その件につきましては、本部の方に何度も申し上げている通り、謹んで辞退させて頂きます。本来の私の専攻は薬学ですし、ここの子供たちには……愛着を抱いていますので」
「愛着ねえ。被食種に、あまり肩入れしすぎるなとだけは忠告しておくよ」
ハミルトンは、あくまで軽く肩を竦める。
ヴェルカナの言葉は本心だった。無論ヴェルカナとて収穫肉は口にするし、職業適性診断の結果としてここ青葉エリアに配属となった事は事実だ。だが、その結果は異例中の異例として、薬学、培人学共にS判定だった。会長からはどちらか好きな方を選ぶようにと言われ、薬学を選択した。
本心を言うと、あまり培人学には関わりたくなかった。そう言うと、収穫肉を喰らっているではないか、と周囲から言われるだろうが、ヴェルカナ自身はそれがおかしな事だとは思っていない。人間たちとて、家畜の肉は口にするだろうが皆が平気な顔で屠畜に携われるかといえば、そうではないだろう。
「人間なくして、我々エクセリオンは誕生出来なかった。他生物の命を喰らう者としては、彼らに敬意を払うのは当然ではないでしょうか? 我々は未だ、次世代の存在として完全有機化されるには、あまりに工学的制約が克ちすぎています。人間とて同じ有機体である家畜の健康状態には、心身共に細心の注意を払って育成を行っていました。その証左こそが、この徹底された管理教育システムです」
「ふむ……」白髭は批評家のような顔をする。
「それに彼らは、まだ子供です。愛情なくして十分な成長は望めません」
たった一センテンスの相手の言葉に対して、反論が些か演説めいてしまった。ベリーに「その辺りにしておきましょう」と小声で囁かれ、我に返る。下手な事を言うと、貴重な有機化進行体がバグを起こしたと思われかねない。
ヴェルカナが最初の学習高原に到達し、青葉エリアに配属になったのは十年前だった。それは製造から僅か二ヶ月後の事であり、食人学習による知能促進メカニズムの発現と発達には個体差があるとはいえ速すぎる進歩だった。ヴェルカナの場合のそれは、まさに人間でいうところの「天才」に当たるものだったのだろう。実際、それを裏づけるように職業適性は二種もの最高評価を下した。
現在教師として指導を行っている最高学年の生徒たち──トップクラスの成績を独占しながらも悪戯が過ぎるので、イギリスで九七年から刊行され始めた伝説的ファンタジー小説に登場する「悪戯仕掛け人」に擬えられているレナートたちを始めとする──の多くは、ヴェルカナが配属されるのとほぼ同時に入荷されてきた子供たちだった。半月後には出荷されるとはいえ、ヴェルカナの心にはそれを惨い事だと思うと同時に、教え子たちが〝卒業〟するのだという誇らしいような、感慨深いような気持ちがある。
それこそが、愛心を抱いているという事だろうと思っている。
「何だか、宗教勧誘でもされている気分だがね。まあ、それはいいだろう」
ハミルトンは肩を竦め、「本題に移りたいのだが」と続けた。
「青葉エリアのプラントレベルがこれで判明した。恐らく来年度は、『人工発芽』の試験にここの設備を使用する事となるだろう。私や猟友会の仕入れてくる品物にも限りがあるし、我々エクセリオンが台頭する以前からこの国では少子化も大分進んでいたからな」
「……まだ、それには早いのではありませんか?」
ヴェルカナは、声を低めて進言した。
人工発芽。それについて、上層部の間では議論が交わされていた。十八歳を超えれば出荷となる子供たちのうち、商品としての価値が極めて高い個体──即ち、最高級に発達した知能指数を持った者たちを篩に掛ける。生殖細胞の配合を行い、ゲノムを解析・編集してより高度なレベルをエリア内で誕生させる。
エクセリオンという種族全体が機械的生命の軛に規約され続け、エリアが必要とされ続ける以上、いつかは自分たちが担わねばならなかった十字架だ。日本人の少子高齢化は未だに進行し続けている。自然界のルールでは最終消費者が最も少なく在るように調和されるはずが、エクセリオンの進化速度は本来生物が世代を経て行う進化を個体で成し得てしまう程に著しい。
需要と供給のバランスが、近い将来崩れかねないのだ。種族が完全有機化を果たす前に旧人類の完全淘汰を起こしてしまい、狩肉、収穫肉共に供給路が断たれてしまう事は避けねばならない。エリアの有する性格の一端には、それまでに人類の遺伝子を保存するという役割もあった。
「エニグマが、まだ対応していません」
ヴェルカナが言い募ると、
「目途は立っているよ。コールブランド氏とも話をつけている」
「施設長とも……」
ハミルトンがごく気軽に明かした事実に、唸るしかなかった。最近まで続いてきた会議は何だったのか、何故決定が自分たちに通知されないのかと疑問は浮かんでくるが、ややもすればそれ程この男がエリアに対して影響力を持っているという事なのかもしれない。
彼がシステム監査の為にグループから訪れるようになったのは、もう一年以上前からの事だった。彼はあくまで抜き打ち検査と銘打っており、上からもそう説明されていたが、恐らく当初から目的はここで人工発芽が行えるかどうかを検証する事だったに違いない。
ヴェルカナは、自分でも気付かないうちに強い口調になっていた。
「実際に子供たちを観察してきた立場から述べさせて頂きますが、心理状態は品質に影響を与えます。優良個体の摘出と交配を行うにしても、学友……いえ、家族を出荷された後の彼らに、どのように真実を告げますか?」
「先生、やめておきましょうって」
ベリーが白衣の袖を引いてくる。白髭のエクセリオンから感じ取れる空気が、そこで初めて少々の強張りを見せた。
「先程『愛着』という言葉を使っていたが、私情ではないだろうね?」
彼は声を荒げたりはしなかったが、先程までは弛緩した雰囲気の裏に隠されていた揶揄するような驕傲な態度が表に現れ始めたようだった。
「いいかね、ロズブローク先生」
彼は、子供に言い含める時のようにこちらの両肩に手を置いた。
「被食種は畢竟、既に淘げられた種族だ。メンタルコントロールに愛着形成が必要になる、故にこちらも愛情を持って連中に接する。なるほど、あなたの論理には一理ある。だが、果たしてその考えが、偏執と履き違えられてはいないだろうか? 人間時代には動物と触れ合う事の出来る喫茶店があり、猫や小鳥を愛する人間が愛玩に訪れていたという。だが、幾らそのような彼らも閉店時間が過ぎてもそこに留まろうとはしなかった。
動物園や水族館はどうだ? 飼育員は確かに愛情を抱いて展示物の世話をしたかもしれないが、彼らにとって、有事の際に冷静かつ客観的な判断を下せなくなる程の擬人化は許されなかった」
「彼らを飼育動物として割り切れと? 旧世界でとはいえ、彼らも霊長だ」
「被食種はかつて山野を拓き、森を蹂躙し、四つ足の獣たちを食われるものとして扱った。それと我々のしている事に、何の違いがある?」
「……よく、そこまで仕込んだものですね」
ヴェルカナは苦々しく吐き捨てる。
この男が、適性診断で管理職に回されたとはいえ本来猟師になりたかったという話は聞いていた。実際に趣味で人頭狩りを行うべく免許を取得し、猟友会と遜色ない程の腕前を誇っているという。その腕が組織内でも買われている為に誰も何も言わないが、商品の子供を入荷する為に捕らえる際、邪魔立てした大人を狙撃する事を、彼は嬉々として行っている傾向がある。
「……八時三十分。先生の担当の授業は十時からの予定ですが、そろそろ会長がお出でになる時刻です」
はらはらするように議論の推移を見守っていたベリーが、半ばそれを強制終了させるかの如く口を挟んできた。
ヴェルカナは腕時計に目をやり、あっと気付く。
「ベリー君、私はそろそろお出迎えに行かなきゃならない。今日のデータの報告は君に任せていいかな?」
「あ、はい。ヘンリーさんにですよね?」
「そうだ。すまない、私はこれで失礼するよ」
慌てて荷物をまとめ、モニタリング室の出口に向かう。いつもは時計の時間通りに動く自分だが、今日はつい熱くなってしまった。自制心が利かないのは頭が一杯になっている証拠であり、その原因はハミルトンの為だけではない。有機化の更なる進展という、もう一つの研究データに追加せねばならない事柄のせいでもある。
とはいえ、今日は全国のエリアを総括するグループ会長の訪問。出迎えに遅れる訳には行かない。
小走りで部屋を出ようとすると、ハミルトンの声が背中に届いた。
「話はまたいずれ。ただ、準備は進み出している。あなたが何を言おうと、もう白紙に戻す事は出来ないだろうと思うね」