『禁猟区 聖痕なきメサイア』 第39回
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侵入者が電気設備をダウンさせたという裏F棟に入った時、僕たちが真っ先に感じたのは嗅覚への刺激だった。
石油のような──実際には化石燃料は二十一世紀後半に枯渇したらしいので、実習で嗅いだ事があるのはあくまでサンプルだったが──刺激臭と、金属の焼けるような鈍い血の如き臭い。
もしもまた侵入者が戻って来た時、ノードの外見のままで居たら襲われて殺害されるかもしれない。どうせこの棟の監視設備は機能していないのだ、と思い、僕たちは意を決して顔面のクリームを落とした。汗腺で押し留められていた汗が一斉に吹き出し、顔に焼けるような熱さを感じる。
制服の上から着用していた給食着を脱ぎ、顔を拭った。痛みを覚える程の熱気は霧消したが、その分漂う刺激臭によって、今度は目にひりつきを感じた。
その根源は、少し歩くとすぐに判明した。
「校長先生……」
それを見て、杞紗がそっと目を伏せた。
焼け焦げたノードの残骸だった。叩き壊された時に漏れ出した血液に、金属同士がぶつかり合って零れた些細な火花が引火したのだろう。人工皮膚や人工筋肉は焼き尽くされて跡形もないが、内部の骨格構造だけはまだ原形を留めている。しかしそれも激しい燃焼で酸化し、一見炭化した本物の人骨のようだった。
侵入者は、棟のシステムをダウンさせながら、スプリンクラーに干渉してそれを動かしたらしい。残骸は、散布された大量の消火器の粉末に塗れていた。
傍に、憤怒の形相で固定されたマスクが落ちていた。火勢を免れたらしいそのマスクの持ち主と、僕たちは直接顔を合わせた事はない。それでも、顔写真と個体の存在だけは、生徒たちにも公開されていた。
「コールブランド校長、本当に破壊されていたんだな……これは、運営側も必死になる訳だ。ベリーがヴェルカナ先生を探していたのも、そういう事なんだろう。先生は培人学部の主任研究員なんだから」
麗女翔の言葉に僕は肯き、数秒後ふとある事に気付いた。
お馴染みの映像記憶能力を用い、何通りかの日時を思い起こす。
まず、偽県立病院にあった初期化されたPCの設定画面で見たOSのインストール日。Theoriaシリーズはシステムファイルを削除するとOSの一部も消える為、初期化後に再インストールをする必要がある。つまり、その日時より数分程度前の時間帯が、ヴェルカナ先生がそこに隠していた「無意識同調」の研究記録をUSBに回収した時刻となる。
二一〇一年二月十二日、九時七分。当然ながら、僕たちの外出以前の事だ。
次に、ヴェルカナ先生が作成した、「Ⅰ」「Ⅱ」と番号の振られた二つのフォルダの更新日時。フォルダの更新日時が変更されるのは、中にあるファイルが編集された時か、ファイルの追加・削除が行われた時。僕たちが閲覧した幾つかの日付はいずれも今日以前になっていたので、今回の場合前者ではない。
二一〇一年二月十二日、九時五十一分と五十三分。「Ⅱ」にまとめられていた那覇人関連のファイルはいずれも同時四十八分となっており、施設内の別な端末から一括でコピー&ペーストされたものだと思われる。つまり、その後の編集はない。
僕の仮説だが、ヴェルカナ先生は昨日の時点でマツリハにナハト・インシデントに関する情報を閲覧する許可を得ていた。その後、侵入者出現から事件の経過を追うに連れ、マツリハが何かオブザーバーに関する新たな試みを企てていた事、そしてシステムへの干渉方法から、このタイミングで現れた侵入者の正体に察しがついた。もしもその干渉によってエニグマを乗っ取られ、エリアシステムが破壊されれば、自分の無意識同調のデータ──ノード社会の将来を見据えた貴重な研究記録も水泡に帰してしまう。そう考え、分割データの隠し場所であった偽県立病院の各端末からそれらを避難させた。
そこまではいい。だが……
(先生が那覇人関連のファイルをコピーして、自室でフォルダにまとめるまで五分しか経っていない。それより先に他のデータの移行を行っているから、実際にはデータのコピーから部屋に戻るまではもっと短かった)
となると、那覇人の記録が保存されていた部屋とヴェルカナ先生の自室はそう離れておらず、前者も先程僕たちの居た、男子寮から直接繋がっていた棟にあると考えるべきだろう。
同時に、僕は杞紗の作った施設の3DCG構造図を脳裏に呼び起こす。確かに、先程の棟には「予備バイタル測定室」「予備手術準備室」という用途不明の部屋が二つあった。これらがオブザーバー計画の凍結と共に封印された部屋であり、どちらかに那覇人や光村少年に関わる記録を保存したコンピューターがあった、と考えれば辻褄は合った。
そう考えた時、時系列に──ヴェルカナ先生が事件の経過を追って侵入者の正体に気付き、病院へ向かったという僕の推測に矛盾が生じるのだ。
病院まで、施設から徒歩で二十分程度掛かる。つまり、病院のPC初期化の時刻から遡り、八時五十七分──データ転送や施設内の移動時間も含め、大体八時四十五分前後には先生は破壊されたコールブランドを見ていなければならない。
一方、先生とベリーが僕たち生徒の朝のバイタルチェックを終え、データを上に回すのが大体午前八時半頃。その時点では少なくとも、目下の異常は発生していなかったはずだ。その時点で異常が確認されていれば、先生とベリーは別行動を取る事もなく、また対応に当たる為、今日先生の補講を受ける予定だった生徒たちにも「やむを得ない都合により今日は中止」と連絡が行っていたはず。僕たち三人の帰校後、先生の行方を尋ねてきたベリーからは本気で困惑しているような様子が窺えたし、そもそも僕たちにそのような無意味な事を問う必要もない。
八時半から四十五分までの間に、侵入者が輸送用通路を突破し、その事が運営に知られ、この棟の電気設備が落とされた後にコールブランドが出、破壊された……という一連の流れが起こったとしたら、あまりにも短時間すぎるといえよう。その上、ヴェルカナ先生は自室でのデータ移行作業中に退室している。イレギュラーの発生はこの時点であったと考えた方が自然だ。
(ヴェルカナ先生は、侵入者騒動が発生する以前からデータを持ち出そうとしていたのか? 何の為に? わざわざ病院のPCを初期化までして、あそこに居るべきだったノードたちは忽然と消えていて……)
「類?」
不意に、麗女翔に声を掛けられた。「どうしたんだよ、急に?」
「えっ? ……あ、ああ」
僕は、はっと我に返る。思考に、完全に没入してしまっていた。
「ごめん、ぼんやりしていた」
謝りながらも、僕はまだ完全には頭を切り替えられないでいる。侵入者の出現という紛れもない事件が進行中であると聞かされながら、実際に起こっている事が何なのか、まだ全体像が掴めていないようだった。
何故、急にこんな複雑な事態になったのか?
一体幾つの思惑が、現在このエリアで渦巻いているのか?
「しっかりしてくれよ、類。俺たちは今……待てよ?」
僕が考えていると、そこで麗女翔もまた何かに気付いたように声色を変えた。
「コールブランドは死んだ……ヴェルカナ先生は行方不明。じゃあ、今このエリアの指揮は誰が執っているんだ?」




