『禁猟区 聖痕なきメサイア』 第38回
㉒ 類
予備コンピューター室を出た時、いつの間にか廊下が騒がしくなっていた。職員たちが素早く情報を共有し合う大声や、声帯の人工筋肉が破損したのではないかと思われる程の歪んだ悲鳴。大勢の足音が忙しなく駆け過ぎて行ったかと思えば、ガラガラと何かが崩れ落ちる音も響く。
裏に忍び込んでから、心なしか職員たちの様子に落ち着きがなかったな、と思っていた僕たちだったが、そこで異常は決定的になった。
「何これ、どうしたの……?」
杞紗が掠れ声で呟き、先程見せた気丈さをまた落としてしまったかのように麗女翔の白衣の袖を掴んだ。麗女翔は彼女を後ろ手に庇いつつ、また一団のノードが駆けて行った方向に進み出そうとした。
が、その瞬間、そちらから駆け戻って来た職員の一人にぶつかってしまった。人工筋肉の外装を纏っているとはいえ、体内に鋼鉄のインプラントを入れているノードの体格はやはり重量感があり、真面にぶつかった麗女翔は跳ね返って床に尻餅を撞いてしまう。
「あ、申し訳ない!」
ぶつかったノードは手を伸ばし、彼を引っ張り上げようとした。しかし、今の僕たちはノードに化けているとはいえそれは顔面に彼らの被るマスクを模したホログラムを表示させているだけだ。バイオセンサーの搭載された相手に体温や脈拍を感知されては、変装している事が露見してしまう。
「いえいえ、お気になさらず」
麗女翔は自分で手を突き、立ち上がった。「こちらこそすみません」
「何があったんですか? 皆さん、大分混乱されているようですが……」
僕が尋ねると、相手はマスク上の人工皮膚に怪訝な表情を浮かべた。
「何って、侵入者の件に決まっているだろう?」
「侵入者……!?」
声が裏返らないようにするので、精一杯だった。麗女翔も杞紗も、絶句したようにホロの上から口を押さえる。
ノードの仮面がそこで、はっきり狐疑を形成した。
「何時間も前から、ずっとその騒ぎで持ち切りじゃないか。犠牲者も出ているようだからヘンリーさんたちが対応している、職員たちは身の安全の確保に努め、くれぐれも軽挙妄動は慎むように、って」
「あれ、そうだったんですか?」麗女翔は、すかさずお得意の芝居を打った。「実は俺たち、さっきまでずっとPC室に閉じ籠って研究資料のフォルダ分けをしていたもので……HME、ちゃんとBCCで送られたんですか?」
「当たり前じゃないか」
「そうだったのか、参ったなあ……ネットだの何だのと色々開いてて、混線していたのかも。教えてくれてありがとうございます。で、状況は?」
素早く真剣な声色に変える。主導権は完全に、麗女翔の方にあった。
僕と杞紗は、彼の役者ぶりに改めて舌を巻いた。
「まず、輸送用通路の警備員が、それからコールブランド施設長がやられた。裏F棟の電気設備も全滅、オペレーティングルームに直接備えられた非常用電源から辛うじて必要最低限の復旧はされているけど、最初に監視カメラで追跡出来なくなったのは痛いな。奴も慎重らしくて、その後他の棟で監視映像に捉えられたっていう話は聞かないな」
職員はすらすらと説明してから、「でも……」と一瞬閊えた。そこから先の事を言おうにも、あまりにも否定したくて口に出来ない、でも言わねばならない、という風に、僕には受け止められた。
「急に、D棟で殺戮が始まったらしい。向こうに居たエクセリオンたちは、尋常じゃない速度で殺されている。それまでは比較的慎重に、システムのハッキングを中心に行動していたのに」
腋窩を、汗がつーっと滑り落ちていったのが分かった。
ここの経営総責任者であり、「青葉児童養護学校」の校長だったコールブランドが最初の方に破壊された。それだけでも驚天動地に値するというのに、剰えそれがノードたちを無差別に殺戮し始めた……?
(いや……それなら、無差別って訳でもないのか)
その侵入者とやらの目的は、エリアシステムの破壊なのだろうか。もしそうだとすれば、相手はノードではないという事になる。では、僕たち商品を助けに来た人間なのだろうか。だが、セキュリティレベルの高いここのシステムに対し、僕のようにハッキングを使いこなすとは──。
「具体的には、どのような干渉を?」
麗女翔が、意識的に話を継続させるように問うた。
「……ウイルスバスターとUTM(Unified Threat Management:統合脅威管理システム)の記録だと、何らかの電波による干渉が行われた痕跡がある、らしい。強力なコンピューターウイルスが送信されたみたいで、最初の警備員たちは核のプロテクトが全開になっていたそうだよ」
「………!?」
まさか、と声を出したいところを、僕は喉元に手をやって押し殺した。麗女翔、杞紗も息を止めたように黙り込み、僕の方をちらりと窺っている。二人が何を考えているのかは、僕もそうなのでよく分かった。
──これは、偶然か。
いや、偶然かといえば、ヴェルカナ先生が今になって過去の一大事件の記録を調べ始めた事も、そのタイミングでこのような騒ぎが起こっている事にもそうだと言う事が出来る。
昨日から視察に訪れているというマツリハが、ヴェルカナ先生に何かを教えたのではないだろうか。今更そのような事を会長がしたのだとすれば、当然関東ではそれに関連した動きがあるという事だ。それを、かつて事件の当事者だった者たちが知ったのだとすれば。
(ノードのコアにまで干渉するハッキング能力……しかも、ウイルスで。こんな偶然があるはずがない)
「そういえば警察の方も、仙台市内でノー……エクセリオンを標的にした連続通り魔事件が起こっているって言ってた。段々、現場が青葉エリアの方に近づいてきているって……」
杞紗が、小さく手を挙げながら呟く。
職員のノードは「ともかく」と言いつつ僕たちの横を抜けた。
「出来るだけD棟周辺からは離れるように。それと、手が空いていたら商品の安全確保に尽力するようにって、上から言われたよ」
「分かりました。ありがとうございます」
僕たちが頭を下げると、彼は現れた時と同じく速足で去って行った。
「殺戮……まあ、エリアを潰すつもりなら最後にはここのノードたちを皆殺しにしなきゃならない、って事なんだろうな」
麗女翔は低く呟いてから、慌てたように僕と杞紗に両手首を振った。
「ああ、別に連中に情けを掛けたいとか、そういう事は思っちゃいねえよ。けど、何だかそれじゃあ……その人が、手をつけられないような怒りに支配されているみたいで悲しいと思わないか? 記録、読んだだろ。確かにあの人は、笑う事が出来た人間だったのに」
「でも、光村少年の事は……」
僕は言いかけ、思い直して口を噤んだ。
「先を急ごう。僕たちの考えている通りなら、侵入者の目的は彼の救出だ。だけどそれは、さっき僕たちも考えていた事だろ」
──もしも、こちらから侵入者に対してアプローチ出来るのなら。
光村少年の所に行けば、きっと会えるように思った。僕は、ヴェルカナ先生の事を伝えなければならない、と考えていたが、それは麗女翔と杞紗も同じようだった。彼の研究資料を読んだ僕たちは、彼がノードと人間の住む日本の将来について願っていた本当の事、そして彼に今起きている事を知った。
あの研究成果で、今を生きている僕たちが救われる事になるとは思わない。が、あれは確かに希望に繋がるかもしれないデータだった。
勿論、僕たち自身がそれを採って無条件に先生を許す事は出来なかった。彼の作り出した健忘薬により、多くの子供たちが家畜に堕とされた。彼らは惨たらしく命を奪われ、収穫肉として精製され、ヴェルカナ先生にも例外なく”教材”として食われてしまった。
その気持ちはきっと、那覇人とて同じだったのだ──。
顔も知らない、彼の”相棒”だった少女の名前を、僕たちは必死に意識の深層へと押し込もうとした。現在の僕たちと同じ事をしようとして、悲惨な末路を辿った彼らの事が──紛れもない過去の”現実”が、僕たちに、やがて訪れる未来を暗示しているような気にさせてしまいそうだった。




