『禁猟区 聖痕なきメサイア』 第35回
⑲ NACHT MUSIK(過去)
俺の仮説が本当だとしたら、俺は佐奈の同志として──否、友達として、その事実を共有されていなければならなかった。興味本位などではなく、そうする事によって彼女が背負っていたものを、もう少しくらいは俺にも背負う事が出来るのではないかという思いだった。
それはもう、贖罪のつもりでも自惚れでもなかった。俺の中で、画一化された意味を超越してしまっていた。
リザ先生に光村少年を見せられた翌日、俺は再び佐奈の部屋を訪れた。いつも通り作戦についての話し合いに入る前に、単刀直入に尋ねた。
「佐奈。光村は、君の子供なんだろう?」
左顧右眄する事なく、気持ちが揺れる前に一気に言い切った。
「彼の”培養”が行われていた部屋は、オブザーバーの俺にすら出入りが許されていない場所だった。君は『上の連中が話しているのを聞いた』って言っていたけど、そもそも奴らがそんな機密レベルの高い事柄について、君が仕掛けをする為に忍び込んだ程度の場所で立ち話をするはずがない」
彼女がはぐらかすつもりなら、そうはさせまいと思っていた。そうして彼女は、何処までも一人で背負い続けてしまうのだ。それでは俺が、何の為に彼女に”人間”にして貰ったのか分からないではないか。
俺が光村少年を見、佐奈の面影を感じた事は、何の根拠もない直感に過ぎない。第六感と呼ぶにしてもあまりに非科学的で、分析の余地もない。だが、科学的な閃きの始まりは常に根拠のない霊的直感だ。
エリアを管理するノードたちは、恐らく佐奈の事を、単に比い稀な幸運で手に入った上質な品と見ているだろう。彼女の記憶・計算に関する能力が常人を遥かに超えている事と、彼女が脳の一部に損傷を負った事との関連に気付いているノードはまず居ないはずだ。脳波はオシロスコープを用いて可視化出来るし、知能も特殊なテストで測定しようと思えば出来る。しかし、その結果として表れるものは所詮は”検査の結果”であり、脳自体のスペックを”知能”と呼び完全に数値化する事は不可能だといえる。
一八八七年に英国で最初の例が報告されてから既に二世紀が経った今でも、サヴァン症候群の構造自体は明らかにされていなかった。原因に関しても未だに全てが仮説の域を出ず、それは後天性ともあれば尚更の事だった。彼女が人頭狩りに遭う以前の記憶を取り戻している事にすら気付けていないノードたちが、彼女を「流動性知能が異常成長した天才」の遺伝子を持っている子供なのだと判断している可能性は十分に有り得る。
そうなると、高い知能を持つ人間を人工発芽させるのに、これ以上「母親」として適した個体は居ない、と彼らは当然考えただろう。定期健診や集団検診などの結果を書き換え、治療を装って彼女に手術治療を持ち掛け、生殖細胞を摘出しようと試みていたとすれば。
俺のオブザーバーとしての役割に早い段階で気付いていたという佐奈は、彼らが自分の体に何をしようとしているのかを悟った。下手に拒めば、却って疑われる事になるかもしれない。健忘薬が効きにくい体質だったとはいえ、彼女は頭部を撃たれた際に手術の為の麻酔を受けている。自分がそこまで危険度の高くない手術を受ける事に問題はない、と判断し、そのまま抵抗せず甘んじた──。
「……やっぱりバレちゃったか、那覇人には」
佐奈が躊躇うような表情を見せたのは、ほんの一瞬だった。
「私情だって思われるんじゃないかって考えていたの。それに那覇人が、光村の事をどう思うか分からなかったから……勘違いしないでね、別に那覇人が彼の事を恨んでいるだろう、とか、本当の事を知ったら彼を良く思わないんじゃないか、とか、そういう事じゃないのよ。ただ、戸惑うと思ったから」
「俺が? 戸惑う?」
どういう事か、と尋ねようとすると、彼女は「順番に話すから」と遮った。
「二年くらい前だったかな、胃に若年性癌と思われる腫瘍があって、まだそうとも良性腫瘍とも判断がつかないけど簡単な手術で取れるから不安の芽は育つ前に摘んでおくか、って持ち掛けられた。専門の精密検査をした訳でもないのにいきなり手術を提案されて、何かおかしいなとは思ったの。その頃、私がいつも目を通していた運営記録の中に、次期オブザーバーの培養を検討すべし、みたいな関ネオ(関東ネオヒューマノ)からの指示が書かれていて、すぐに先生たちが私のDNAを継いだ子供を作ろうとしているんだって気付いた。
変な抵抗を見せて警戒されるよりはマシだと思ったから、騙された振りをして手術を受けた。だけどやっぱり、家畜を交配してブランド品種を作ろうとしているみたいで、気持ちが悪かったし怖かった。出来る限りあいつらの計画を挫折させられないかって頭を捻ってもみたけど……その後の記録で光村が生まれたって知った時、何だか凄く大切に思えて」
「顔も、分からなかったのに?」
「何処かで、私の血を分けた子供の心臓が動いているんだって思うだけで」
「母性本能か……俺には、よく分からない」
「これは、経験しないと分からない事だと思うよ。というか、知らなきゃ感じられない事だと思う。女性なら、生まれる直前まで自分に子供が出来ていた事に気付かなかった、なんて有り得ないしね。そういう意味じゃ、私のも厳密にはちょっと違うのかな。自分の子供だって思った瞬間に愛情が生じるっていう点じゃ、父性の方が近いのかもしれない。けど、それが何であっても私は……知ってしまったら、もう我慢出来なかった」
佐奈の湛えた微笑みが、その時俺には宗教画の聖母のように見えた。
「彼を、ここの奴らの道具にする訳には行かないって思った。ここを脱出する”皆”っていうのは、彼も含めての事にしよう、って」
「………」
俺は、何と言えばいいのか分からなくなった。彼女の顔に、絶望とは程遠い穏やかな色が浮かんでいたからだ。
見惚れるのとは違う理由で、俺はその顔をまじまじと見つめてしまった。
彼女がもし、義理や責任感で光村を助けようとし、それで苦しんでいるのだとしたら、俺は自分の手で彼の息の根を止める事も覚悟していた。そう思いながらも、あの見ているだけで心が温かくなるような彼の生命の萌芽を意図的に枯死などさせたくない、という思いも捨てきれなかった。
だが、彼女から感じられたのはそれと同じくらいに温かな優しさだった。
「システムとして生み出された那覇人に生きる権利があるように、光村にも同じ権利がある。まだ自分という存在すら認知出来ていなくて、それすらも許されないっていうなら──私が光を与えてあげたい」
「佐奈……」
「助けたいの。……たとえ、エゴだって言われたとしても」
強い意志を内包したその声に、俺はそこにどう言葉を重ねていいのか分からなかった。それでも、話し続けないと彼女を抱き締めてしまいそうだった。
「……父親の方は、誰か分かる?」
俺の質問は、やや会話の連続性から外れたようなものだった。
しかし、佐奈はその問いを待っていたと言わんばかりに、今までで最も幸せそうな表情を浮かべた。腰掛けたベッドから身を乗り出すようにし、俺の顔を真正面から見つめてくる。
囁くような心地良い声が、形のいい唇から三音を紡ぎ出した。
「那覇人」
「あ……ああ……」
俺の口からも、溜め息のような声が漏れ出した。
俺は、自然に彼女の口にした事を受け容れていた。
(そうか……だから、そうだったのか)
何故、俺が光村少年を見てあれ程温かい気持ちになったのか。
何故、彼に自分の面影を感じ取ったのか。
何故、彼の母親だという佐奈の告白を受け容れられたのか。
何故、自分が命を奪われた後の為に”代用品”となるべく誕生させられた彼の存在を、すぐに消し去ってしまいたいなどと思わなかったのか。否、そう思う事が出来なかったのか。
(父性は、自分の子だと認めた時に生じる……それは社会的な繋がりでも、血に由来するものでもいい)
「私、那覇人で良かった」
佐奈は言った。
「愛の結晶──っていうのはちょっと違うけど、この気持ちを共有出来る人が那覇人でさ。那覇人以外じゃ、駄目だった」
「どうして? 秘密を知っている俺が、彼を恨まずに済むから?」
上手く言葉が出せなかった。ややもすると、彼女には素っ気ない言葉に聞こえたかもしれない。が、彼女は
「ふふっ、那覇人ってやっぱりツンデレだ」
揶うように頰を緩めただけだった。
「違うよ。違うけど……私にも分かんないんだ、そんなの」
「何だよ、それ──」
「強いて言うなら……那覇人だから、かな」
彼女は、他に表白すべき言葉を持っていない、というようにさりげなく言った。しかし、俺にとってその彼女の言葉は、彼女との関わりの中で自ら徐々に解き放っていった柵からの最後の救済だった。
ふと、目の前が明るくなったような気がした。
自我の発現、知能の発達、思春期、人格形成期。人間の発達過程のうち、自ら獲得しなかった事で形成を誤ったもの、獲得すら許されなかったものばかりが俺を俺たらしめていた。俺は生まれながらにして大人以上の知能を持ち、肉体も五歳児だった為に自らを人間ではないと思っていたが、その時点では己自身を知る事の前提が成立していなかった。存在意義の証明方法すら失っていた。
監視者、エリアシステムの一パーツ。生徒たちとは本当の意味で関係を築けていなかったし、リザ先生を始めとするノードたちに求められているのは、昨日再確認した通り「結果を出している俺」であって「俺」ではない。それは、自らオブザーバーという属性から逸脱したら絶対的価値を喪失するというところまで、自分の存在の命題を限定していたという事だった。自分が存在するという事実そのものには、本来何の意味も質量もないのだと。
だが、佐奈は理由も分からずに俺を受け容れてくれた。
分からないのに、俺を、俺だから良かったと言ってくれた。
無条件に、俺は”何者か”を背負わない俺としてこの世界に居ていいのだ、と、存在そのものを認められたように思った。
(当たり前の事なのかもしれないけれど、気付く事が出来なかった)
俺はやっと、自分に自信を持てた。
「佐奈!」
──ああ、いけない。
必死に自制していたつもりが、遂に理性の箍が外れてしまった。俺は無我夢中で彼女の背に両腕を回すと、ベッドに倒れ込んでいた。
十四年間、使い道を忘れたように動かなかった涙腺が、最近何故これ程脆くなったのだろう、と思った。彼女の制服を汚してしまうと悪いな、と辛うじて思い、俺は肩越しに声を殺し泣いた。
そういえば、最初に彼女と仲良くなった時にも泣いたのだった。
(俺、佐奈の前で泣いてばっかりだな)
「泣けるうちは大丈夫だよ、那覇人」
佐奈が、俺の髪を優しく梳いてきた。微かに甘い香りがする。
「……どさくさに紛れて押し倒しちゃうなんて、やっぱり不良男子。それで、私と同じ人間」
「ちょくちょくノードみたいなギャグ言うの、やめてくれよな……」
俺は、泣きながら笑った。
「助けよう、俺たちの家族を──絶対に、俺たちの手で」
彼女の体温が、僅かに上がった気がした。触れ合う頭が微かに肯く。
その日は確か、作戦会議どころではなかった気がする。




