『禁猟区 聖痕なきメサイア』 第33回
「だから、光村少年を解放した」
「は……?」
咄嗟に、相手が何を言ったのか分からなかった。
「奴を”人間”として生かしてやる。ロズブローク先生、あなたの言う『生かさず殺さずの状態』から解放してやったんだよ。そして、彼には現在侵入者を狩るべく動いて貰っている」
何を言っているのだ、と本気で思った。
だが、彼の言った意味を処理出来た瞬間、ヴェルカナは点滴のパイプラインを蹴り倒して立ち上がっていた。振り上げるのを堪えていた拳が脊髄反射にも似た速度で閃き、白髭の鼻面を殴り飛ばしていた。
彼の頭部から剝落したマスクが、からからと音を立てて床に転がった。接着不全だったこちらの左腕の人工皮膚も、弛んでだらりと手首に下がる。だが、構ってはいられなかった。
ヴェルカナは腰を抜かした彼を睨みつけ、震える声を吐き出した。
「それが、あんたの目的だったのか。番犬……本当はとうに行われていたはずの人工発芽に、あんたが拘り続けていた理由が分かりましたよ。オブザーバーの電脳化研究が進んだら、あんたは商品を仕入れる際の人頭狩りに同じ被食種を使うつもりだったんですね」
「おいおい、私を何処まで色眼鏡で見ているんだ」
「真剣に目下の危機を憂えている、ですって? あんたがしたいのは、侵入者討伐を大義名分にした実技試験だろう!」
「そういうあんたの目的も聴かせて貰いたいね、先生」
ハミルトンは仮面が剝落した瞬間から、暴力的な本性を覆い隠す仮面も外れつつあるようだった。素早く立ち上がると、こちらの目を潰さんばかりに真っ直ぐ睇視してくる。
「あんたに、思い上がりがないとは機械的生命に誓って言い切れるかね? 騒動が始まってからの君の不可解な行動を、我々が察知していないとでも思ったか? あんたは自分の研究成果を守ろうと、このエリアの崩壊も視野に入れた上で躍起になっていた。いざとなったら、自分だけ逃げ出すつもりだったか? もしくは得意芸の友情作戦で、自分は人間の味方だと奴に訴えるのか?」
「あなた──」
「無意識同調!」
彼が、こちらの言葉を遮って叫んだ。
「完全有機化を果たした個体の存在を前提としたこの研究を、自らに次段階の有機化兆候が表れてから始めたのは何故だ? 自分たちこそが新人類として完成された存在であると世に喧伝し、人間電脳化研究に伴う思考制御によって被食種をより厳正に管理しようという野心の表れではないのか?」
ご教示願おうか、と彼は言った。
その余裕のある口ぶりに、ヴェルカナは叫び出したい衝動を堪える。彼は都合の良い部分だけを受け取っているようでいて、実際にはヴェルカナが学会の者たちと同じ考えなのだと曲解しているようだった。散々、こちらが被食種に情を移している、と揶揄しておきながら、と苦々しく内心で独りごつ。
言うだけ言ってしまっても構わないだろうか、と考えた。このエクセリオンの会長との関係性を考えるに、話してしまっても特に問題は起こらないはずだ。
彼の嗜虐志向は、一切が表向きには大義名分の下に成り立っている。ならば、これを告げる事で彼の動きが封じられるのであれば。そう思い、ヴェルカナは葛藤の末に言った。
「エクセリオンが食人後の存在となって尚、知能を維持して生きていく為です」
「ほう?」
彼は床からマスクを拾い上げ、顔に嵌め直す。その片眉が、器用にぴくりと持ち上げられた。
「食人最中の私たちは、それなくして知能を維持する事が出来ず、またそのスパンも十五年単位です。機械的生命は、人工的に発生した私たちが自然界の食物連鎖に参加する為に……自滅しないよう、捕食種は被食種よりも少なく在らねばならないという条件に基づいて、このような設計思想に我々を導いたのだと思います。しかし、旧時代の最上位存在であった人間が人口爆発を起こして尚地球規模の自浄作用に淘汰される事がなかったように、全てを喰らう必要がなければ……猿人より上位種の新人がより栄えたように、食人後世代は食人前のエクセリオンに勝る知能と繁栄を約束されるでしょう」
「面白い。それで?」
「十五年のスパンで発生するエクセリオンの”退行”は、従来の人工知能が持たないはずの深層意識、アイデンティティの所在が掻き消される事で起こります。身体の完全有機化を果たし、メインプログラムのみが残ったエクセリオン、ウィキに思考ネットワークを介して常時接続状態を保つ事が出来れば、肉体の安定と共に我々の短い寿命も克服出来る。
我々はコミュニティを持ち、決して孤立的ではないにも拘わらず進化を単一の個体内で行います。しかし、この事と自然界の法則との摺り合わせを機械的生命が司っているのかは定かではない。エクセリオンが工学的に発生してから、まだたかだか半世紀しか経っていないのですから。しかし、たとえ従来の生物と同じだとしても、それでは遅すぎるのです。今回のようにエリアシステムを脅かす者の存在に、極めて低い生活水準で生きる人間たちの限界。少子高齢化も進む一方ですし。
あなたの言った『人工発芽』は、付け焼き刃であってこの問題の根本的解決にはなり得ません。時代を固定する事で生き延びるよりも、我々にはより未来の形を追求する義務があるのです」
白髭がどれだけ、自分の言葉を理解──適切に処理しているのかは不明だった。それでも、ヴェルカナは話す事をやめなかった。
「私の擬似ゲノムコンパイラと種痘性ナノマシンは、次世代のエクセリオン製造に於ける初期工程で核に組み込んでおきます。ウィキを中核とし、各電脳のネットワークそのものを普遍的かつ古態的な最深層意識と定めるのです。会長はこれを、ユング心理学の集合無意識に喩えていました」
「興味深くはあるが、超科学だな」
「心理学です。旧人類は精神的なものを特別化しすぎたけれど、高度情報化した存在である我々にとっては、精神も心理もまたナノ顕微鏡で存在を目視出来る電子だ。無意識同調が実用化されれば、エクセリオンは四肢を動かすように体の一部であるそれをウィキへとアクセスさせられる」
「………」
彼は、また髭を揉み扱きながら沈黙した。やがて、
「そこまでを、ケチ臭く隠したりせずに学会で発表していれば、誰かが何かを誤解する事もなかっただろうに」
と呟いた。それは、学友の不正を教師に報告した生徒に向かって当人が「友達を売ったのか」と詰め寄るような、こちらに非がないにも拘わらず問答無用で”悪”を自覚させるような嫌な言い方だった。
「噂が広がり、蝶の羽搏きの如く侵入者を招き入れる事もなかった」
「あなたのように、成果を恣意的に解釈して正反対の結果を生み出す者が存在するからです。道具に罪はない、それを使う人間にこそ罪があるのだとは、あなたが冒瀆した旧時代の被食種ですら発していた言葉ですよ」
「……先生。残念な事だが」白髭は、そこでやや憐れむような顔を見せた。「私は先生が思っているよりも、馬鹿ではないという事だよ」
「………?」
ヴェルカナは、彼が今度は何を言い出すのか、と身構える。
「表層的な思惟を共有する訳には行かない。それに、義体の完全有機化を経てもまだプログラミングされた存在という点で、ウィキとやらは次世代の完成形ではないのだろう? エクセリオンの寿命は、今更言うまでもないが肉体ではなくプログラムの寿命なのだから」
「ええ。ですから、存在理由をそれ以上自己修正させるような処理や演算は、ウィキは行ってはならない事になっています」
「つまりは……ウィキとなる完全有機化したエクセリオンは、今の段階ではあんたがそうなる可能性の最も高い候補者は、生命活動の一切を停止させられねばならないという事だろう。侵入者にやられたように物理的に破壊されるのではなく、サブプログラムに機能停止処理を書き込んで」
ヴェルカナは、ぐっと顎を引いた。長い間、誰もがそうではないかと勘づきながらも目を逸らしていた事だった。自分が、ベリーにすら箝口令を出してまとめ上げてきた理論だった。
恐る恐る、白髭の反応を窺った。しかし、彼のフィードバックは依然憐れみを帯びたままで、それでいて何処か滑稽そうだった。
「自己犠牲精神は底なしか。私には、到底真似出来んプロ意識だな」
「……お褒めの言葉と取って宜しいですか?」
「せめて、全てを実行してから後悔しない事だ。食人後のつもりが”後の祭り”でしたなんて、洒落にもならないからな」
「エクセリオン味のある諧謔を言っている場合ではありませんよ」
必死に冷却を進めていたヴェルカナの苛立ちが再び沸点を目指し始めた時、白髭は両手を突き出しながら「まあ待て」といなしてきた。
「ロズブローク先生、あんたは間違いなく天才科学者だ。そして私は、しがない管理職の凡夫。けれど、あんたが天才故に見えていない根本的なものは、案外そんな奴だからこそ見えたりするものさ」
「根本? 何が言いたいのです?」
「専門的知識に凝り固まっていない部外者だからこそ、斬新な発想が出来る。どんな現場でも、そうじゃないかね?」
元理事長代理の眼窩が、獲物を狙う猛禽の如く鋭く細められた。




