『禁猟区 聖痕なきメサイア』 第32回
⑰ ヴェルカナ
「先生、ここに居たのか。上の連中が探していたよ?」
施設の外れ、変電室に籠りきりで準備を進めていると、入口の扉が開いた。危機感の感じられない調子で、一体のエクセリオンが入って来る。
ヴェルカナは注射器を操作する手を止め、そちらを向いた。
相手は現在、最も口を利きたくない個体だった。
「……あなたですか」
「ご挨拶じゃないか、先生」
白髭のマスクを被ったエクセリオン、ハミルトンは飄々とした素振りで言った。歩みを進めて来ると、こちらの手元を覗き込んで大仰に身を仰反らせる。ヴェルカナの周囲には、大小の工具や点滴のパイプライン、携帯型保冷ケースに収められたアンプルなどが所狭しと並べられていた。
「リストカットにオーバードーズか。感覚質を得て、被食種の持つ触覚の虜になってしまったかな?」
「違います。邪魔をしに来たのなら出て行って貰いたい、これは精密極まる作業なんです」
ヴェルカナは言い、点滴パックを付け替えた。
現在、ヴェルカナは左腕の人工筋肉を引き剝がして骨格構造を露わにし、またそのネジを外して髄部を開き、血液の流れる管を晒していた。有機体では血管に相当するのだろう、第一世代のノードにはないその器官は、有機化を進めたヴェルカナの中で不完全な細胞増殖を起こしたかの如くごつごつと凹凸を形成し、冬場の人間の肌のように細かなひび割れを生じていた。一見グロテスクだが、これこそが細胞が新陳代謝を自ら行い始めているという証左なのだ。
だからヴェルカナは、自己再生しないのではないか、という不安なく直接この血管に注射針を突き刺す事が出来た。種痘性ナノマシンの接種ならば無針注射器でも行えるが、現在行っているのは逆に”吸い出す”事だった。
「……なるほど。感覚神経系に麻酔処置を施しつつ、従来のエクセリオンと同様ボディパーツの取り外しを行う訳だ。やれやれ、痛覚とやらがどのようなものかは知らないが、このように七面倒臭い事をせねばならないとなると完全有機化というのも考えものだな」
白髭は肩を竦める。さすがに、ヴェルカナの処置を妨害する事はなかった。
人工皮膚と人工筋肉に感覚が生じたヴェルカナには、まだ鋼鉄の材質は変化していない骨格構造からそれらを取り除くのも大変な事だった。まだ人工筋肉が血管と完全に癒着してはいないので”手術”までは行かないが、何気なくそれらを剝がそうとしたヴェルカナは、電脳が一時的に処理を停止する程の高刺激に思わず悲鳴を上げてしまった。
それが、激痛という感覚だった。運動中に肉離れを起こした生徒が泣き喚く様を見た事のあるヴェルカナは、初めて彼らの感覚を実感した。
局所麻酔の導入を自らに行うのは、なかなか骨の折れる作業だった。今まで感覚質を持たなかった自分には分からなくて当然の事だったが、何処まで麻酔が効けば感覚がなくなるのか、また関係のない部位にまで行き渡る事がないのか、エクセリオン用のマニュアルなど存在しない。人工筋肉を引き剝がしても尚麻酔の効力が時間経過によって中和されていくという事は、血液でもまた代謝が行われているという事を意味している。
抜き取ったオイルは、それを裏づけるかの如く薄い朱色をしていた。人間のようなやや黒みがかった赤ではなく、旧時代に彼らが飲んでいた樹液飲料のような色。成分の分化によって生じたヘモグロビンは、まだそこまで豊富ではないらしい。
「オイルなんか抜いて、どうするんだね?」
「お待ち下さい、もう二、三本で終わりますので」
ヴェルカナはゆっくりと注射器のピストンから力を抜く。この中に含まれる擬似遺伝子──模伝子こそが、自分が将来の為に残すべきものだった。
旧人類の設計したメインプログラムに発生した、ほんの些細な異常。それが燃料の媒介であったナノマシンを第一世代の体内で再設計させ、DNAの塩基配列を複製する学習端末と化した。
エクセリオンの形態と人格は、メインプログラムたる「存在理由」に依存する。そして、そのプログラムは核──脳に含まれる。自分たちにとっては、生命=脳を意味していた。だからこそ、十五年の期限を迎えて知能が旧型AIのレベルにまで下がった個体は寿命を終えたものと見做され、義体が自立歩行が可能な状態であっても工場で処分される。
人間の形質を定めるDNA=遺伝子。元来単純に「中心」の意味で名づけられたエクセリオンの中枢系が、旧人類の意図よりも遥かに多義的な意味を持って「核」となり、やがて「核」の作用を顕し始めた。諧謔表現を理解するエクセリオンが好む言葉遊びにしては、奇妙な符合だ。
機械的生命は、やがてその軛から我々を解放する事も進行に含めているのではないか。そう思うからこそヴェルカナは、この制約を予定調和であると信じ、その範囲内で自らの有機化が進んでいるのだと思っていた。やがてウィキの後、メインプログラムはその役割を了畢し、他生物の知能を吸収する模倣子であった模伝子は新たな遺伝子として完全有機化を果たす。その機械的進化の途上に在る自分のミームは、たとえ自分という個体が消失しても継承せねばならない。
「これを、あの人に託します」
最後のアンプルを保冷ケースに収めると、ヴェルカナは人工筋肉の塊を取って骨格の上から被せた。まだ完全に有機体と同化してはいない、接合部のネジをドライバーで回転させる。麻酔の効いている現在、それは従来のパーツ交換作業と変わりはなかった。
「あの人? ……ふむ、人か」
白髭はやや考え込むように顎を引くと、合成繊維の髭を撫でながら上目遣いにこちらを見てきた。
「気付いたようだね、ロズブローク先生。今、ここで何が起こっているのかを」
「あなたは、最初から知っていたんですね」
ヴェルカナは、屈み込んだまま人工皮膚を張る右手を止めた。鑷子を握るそれをぶるぶると震わせながら、手放すまいと押さえ込む。両手のうちどちらか一方でも自由になれば、立ち上がって相手の胸倉に躍り掛かってしまいそうだった。
「私は会長からの権限で、鷹嘴那覇人に関する記録の閲覧を許可されました。そのタイミングで、あの人がエリアに再来した」
「捲土重来だね。それは、私とて同じ事だよ」
「こんな偶然が有り得ますか! きっとあの人は、私の研究がどのような方向に利用されようとしているのかを知った上で、今日このエリアを襲ったんですよ。会長が今回視察に訪れた本当の目的は、学会に於けるそのような動きを受けての事だったのですから。私は、会長の口から直接伺いました」
「……相変わらず、君の才能と行動力には敬意を表するよ」
白髭は、皮肉たっぷりに首を振った。
「家畜小屋に狼が入ったようだ。一緒に飼われている番犬が居れば、ひょっとすると狩れるかもしれないとは思わないかね?」
「八剱光村の事を言っているのですか?」
「ほう、やはり彼についても教えられていたか。マツリハも困った個体だ、けれどこれで話が早くなった」
「あなたは昨日、嘘を吐きましたね? いや、真実の一部を故意に話さなかったという方が適切でしょうか。『人工発芽』は、十年前の時点で既に行われていた。那覇人少年と光村少年、二人も」
仙台の工場で製造され、初期学習を受けたヴェルカナは、時期的に考えて当時”教材”として食した肉が、ナハト・インシデントの際に出荷された犠牲者のものだったのではないか、とふと考えた。
そう思った時、ヴェルカナは途端にかつて取り込んだその肉を一切排泄してしまいたいという衝動に駆られた。しかし、十年前に吸収されたものなど既にDNAの情報を残してナノマシンに分解されてしまっただろう。理屈では、その衝動が何の意味も持たないものである事を理解していた。
有機化しつつある身体活動と生理作用に、まだ”吐瀉”と”嘔気”が含まれていなかったのは不幸中の幸いだった。
「前者は使い捨てのパーツとして生み出され、後者は生かさず殺さずの状態で十年間も放置されて……これが、未だ人間なしに生きられないエクセリオンの、新人類のする事ですか!」
叫ぶと、白髭はうるさい蝿でも遇うかの如く手を振った。
「やはりやれやれとしか言いようがないな。真剣に目下の危機を憂えているのは、私だけという事か」
ヴェルカナは唇を噛む。暖簾に腕押しという旧時代の言葉が実感された。
白髭は、やや声を低めながら続ける。
「……機械には、あいつを止められない」
「何と?」ヴェルカナは、平静に努めながら聞く。
「あなたも、コールブランドたちがどのように殺されたのかを見たはずだ」
「『ドグマ』ですね。十年前に感染したコンピュータをデバッグした結果、検出された不正プログラムにそのようなプロシージャ名のメモと思しきコメントが添えられていたそうです」
その前提知識を仕入れた後だったからこそ、ヴェルカナは破壊されたコールブランドを見た際、すぐにそれが使用されたと勘づいたのだ。同時に、それを使用する侵入者の正体にも。




