『禁猟区 聖痕なきメサイア』 第30回
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「謎解きは後だ、まず整理しよう」
麗女翔は、僕と杞紗にそれ以上を見せまいとするかの如く、キーボードの前から僕たちを押し退けつつPDFビューアのタブを閉じた。しかし彼の手もまた震え、マウスのクリックすらも覚束ない。
汗に含まれるイオンを伝媒にホログラム投影用ナノマシンを操って汗腺を塞いでいる僕たちの顔から、顔貌をノードに偽装する為のクリームが融け落ちるような事はなかった。しかし僕たちは皆、自分の顔も残り二人の顔も蒼白になっている事はありありと感じ取っていた。
「十年前──俺たちがここに”入荷”された年だけど、恐らく年度としては前の年だろうな──まで、ここでは監視者と呼ばれる存在がエリアシステムの一環として登用されていた。子供たちの記憶が戻っていないか、先生たちよりも近くで観察するスパイの役割を背負った人間だ。実験的なこの取り組みのオブザーバー第一号となったのが、鷹嘴那覇人っていう少年だった」
「もしこんな事が起こらなければ、今頃全国で同じようにオブザーバーが生み出されて使われていた……って事ね」
杞紗が、掠れ声で呟いた。彼女の怯え方は僕や麗女翔の比ではなく、椅子に掴まっていなければ今にも頽れてしまいそうだった。
「そう、あくまでまだ実験段階だったんだ。だから、グループに報告する為の極秘文書には符丁名で書かれていた。ゲニウス・ロキって」
僕が言うと、麗女翔は無理矢理笑おうとしたようだった。
「地霊、天才児たちの見守り役か。相変わらず悪ふざけが効いているなあ、ノードたちの言葉の使い方は」
「その那覇人が、自分たち世代の集団出荷当日に反旗を翻した。事後報告になっているけど、彼の最後の監視対象だったサナ・エヴァンスって女の子が彼を……籠絡して二重スパイに引き入れた」
僕は、書いてあった通りに読んだだけだ、という事を示すべく、”籠絡”という部分をわざと強調した。麗女翔と杞紗は、何もかも分かっている、というように大きく肯いた。
「きっと、サナさんと出逢えた彼こそが本当の彼……」杞紗が言った。
「ああ。彼女は”運命の女”を装って彼を丸め込んだんでも、それで因果応報を受けた訳でもない。最後の記録者──『Blitz Hamilton』って書いてあるけど、このノードにとっては理解出来ない絆が彼らにはあったんだ。ただ、結果がちょっとだけ上手く行かなかっただけで」
麗女翔の言葉を聴きながら、僕は彼らの事を、何だか今の自分たちのようだ、と思った。作戦準備の為に行っていた事も、脱出を行う際の具体的な方法も、彼らの作戦は僕たちと驚く程似通っていた。
それが、安心すべき事なのか、失望すべき事なのか、僕たちは三人で顔を見合わせたがどうしても結論を出す事が出来なかった。記録を読む限り、那覇人たちの作戦は成功したと言っても過言ではなかった。だが、最後の最後に彼を待っていたのは悲劇だった。
それが大勢の仲間たちを裏切り、時には死に追いやりすらした彼自身の報いだったとは、僕はどうしても思いたくなかった。
けれど、そう思えば思う程、彼の行動とその結末は僕たちの作戦が行き着く先を暗示しているようで、暗澹たる気分が誘われた。
「……自業自得であるはずがない」
僕たち皆の気持ちを代弁したのは、やはり麗女翔だった。
「運営側も、彼の同年代の生徒たちが集団出荷される時、一緒に彼までも処分しようと画策していたんだ。それでエリアにとっても大惨事になったっていうなら、自業自得なのはむしろ連中の方だよ」
「それで、彼に代わって次のオブザーバーになるべき存在だったのが、本名で書かれた二人目の少年──光村だった。だけど、ナハト・インシデントと呼ばれるこの事件が引き起こされたせいで、システムへの人間の登用は続行出来なくなった。それで光村少年は今でも眠り続けている……知能と肉体の成長を凍結されて、このエリアの何処かで」
僕がまとめると、場に沈黙の帳が降りた。
幾分か落ち着きを取り戻した杞紗が、「あの……」と遠慮がちに挙手した。
「光村君の最後の記録に、『屋外地下の空きブースをエニグマより分割』って書かれていたでしょ? それで、何となくだけど納得出来る事があったの」
「何だい、それは?」
「私がCG作りの為に、類君にこの施設の構造をスキャンして貰った時……そんな部屋の存在は見つけられなかった。それって、光村君の体が保存されたその部屋、エニグマの管理下にないって事だよね」
私たちがおかしいと思わなかったのも当然、と、彼女は零した。
恐らく、これはヴェルカナ先生も今まで知らなかった一件なのだろう。彼が製造されたのも十年前で、厳密にはアクティベートから二ヶ月間は食人学習で後天的知能を育成されていた。ぎりぎりのところで、彼もまたナハト・インシデントには立ち会っていないのだ。
当時を知る者たちによって封印されていたと思しきこのデータを、何故ヴェルカナ先生が持ち出したのかは分からない。しかし、彼は何らかの事情で過去に起こった悲劇を知り、詳細を調べようとしたのだ。その結果、彼は何かとんでもない事を察して研究データと共に雲隠れしようとした──?
「マツリハが何か、凄い事を企んでいる……?」
僕は、思わず独りごちた。昨日から今日にかけて、先生の周囲で起こった事といえば、マツリハが視察にやって来た事くらいだ。だが、エリアを統べるグループのCEOである彼が、先生の次段階の有機化が始まったとされる最初の日付以前にここを直接訪問してきた事がないのを鑑みるに、彼が直接先生に会って何か重大な話をしたという蓋然性はある。
だがそれに、オブザーバーの件はどう関わるのだろうか。
(推測を立てるには、まだ重要なピースが足りない……)
情報の整理は済んだ。だが、状況の整理は未だ完全とはいえない。
施設内が現在慌ただしいのは、一体何のせいだろう? ヴェルカナ先生はデータ移行中のPCを放置して何処かに行ったようだが、ならば彼が姿を消してからそれ程時間は経っていないはずだ。職員たちがやたらと騒ぎ立てるのはおかしいし、目下の騒ぎに於いて先生の不在は”原因”ではなく”結果”なのか。
「……少なくとも、ヴェルカナ先生が俺たちの行動に勘づいて罠を張っていた、って訳じゃなさそうだな」
袋小路に入りかけた皆の思考を引っ張り上げるように、麗女翔がやや声のトーンを変えて言った。
「Theoriaの初期化は、USBにデータを移した後で元の端末に証拠が残らないようにする為。パスワードの変更は、端末を起動して初期化したって事がバレないように採った措置だろうな。……以上で終わり。見ちまったものは仕方がないけど、忘れる事にしよう。ヴェルカナ先生が何をしていようと、それはエリア側の問題であって俺たちの作戦には関わらない」
「そう……だね」
釈然としないものはあったが、今何よりも優先させるべきは僕たち自身の作戦だった。歯切れ悪くも肯いた時、杞紗が「それなんだけど」と小さく言った。
「その……記録通りなら、光村君って子、まだ施設に居るって事……だよね?」
「そうだろうけど……あっ」
僕は、彼女の言わんとする事を理解した。
杞紗は両手の指を胸の前で組み、まだ見ぬ彼に想いを馳せるように続けた。
「エニグマの管理から切り離された部屋が、十年後の今になっても再統合されていない……って事は、彼はまだ生きているんだと思う。それなら、彼だって……私たちの家族、だよね? 置いて行けない……よね?」
「………」
僕も麗女翔も、息を詰めて考え込んだ。
僕たちの中で、自分たちが罠に嵌められようとしていた訳ではなかったと納得しながらも、何やらもやもやと蟠っていた消化不良。それを、杞紗の言葉は的確に指摘した。見てしまった状況を放置する事は出来ない──それは、単なる知的好奇心ではなかった。
「きっと十年前、那覇人さんとサナさんも同じ事を思っていたはず……二人は最終的に、彼を連れ出す事は出来なかったみたいだけど、絶対に……」
「……そうだよな。俺たちの計画は、具体的な手段は違うとはいえ、殆どかつての彼らの作戦をなぞる形で実行されるだろう。その時、エリアシステムの終焉と共に光村少年の生命維持プロトコルは完了される」
麗女翔は重々しく言った。
「誰かが、連れ出してあげなきゃいけないよな」
「決まりだ」
僕は、PCをシャットダウンしながら手を打った。
「エニグマをハッキングする武器は見つかった。その前に、光村少年が囚われている部屋を見つけ出して彼を連れ出す準備をする。彼はまだ、自分自身の事も世界の事も初期設定以上の知覚が出来ていない。自我を芽生えさせて、僕たちが味方だって事を教えるんだ」




