『禁猟区 聖痕なきメサイア』 第3回
* * *
食堂で日替わり定食を注文して席に着くと、同じメニューの並ぶお盆を持った男子生徒と女子生徒が声を掛けてきた。
「おはよう」
彼らは、ルイ、と続けた。しかしそれが、青葉エリアに登録されたID二〇九二〇一七、ルイ・アウストリス(Louis)ではなく、本名の類(Rui)である事は僕にも分かっている。
「おはよう、麗女翔、杞紗」
僕の返す挨拶に含まれた名前もまた、二人の登録されているレナート・パリンジェネシス(Renato)、キサ・ブラッシュテール(Kissa)ではない本名を意図したものだった。三人で思い出した本当の名前を明かし合った時は、ノードに備わった諧謔のセンスは本物だった、と感心半分、恐れ半分の気持ちと共に、自分たちの名前が元々外国語にも通ずる響きを持っていた事に幸運を感じたものだ。先生たちの前で本名で呼び合っても、疑われる事はない。
「今日は二人とも、取ってる授業は午前中だけって言ってたっけ」
「ああ、類は午後三時までだから、それ以降は落ち合えるな」
麗女翔が、指先で赤褐色の癖毛を弄びながら言う。拘束時間中に着用する白っぽい灰色の制服は僕も他の生徒たちも変わらないが、麗女翔の髪色は他に同様の生徒も居らず、彼のトレードマークとなっている。杞紗の方は、セミロングの女子生徒が多いここでは珍しくショートボブだった。
麗女翔は周囲に先生が誰も居ない事を確認し、それでも用心深くこちらに顔を寄せて囁いてきた。
「出来れば『輸送用通路』を下見したいところだったけど、今日はちょっと無理そうだな。とんでもないお偉いさんが来るんで警備はいつもよりガッチガチ、裏の方に行くのは、今日はやめとく方がいい」
「……また盗み聞き?」
僕は、最早やや呆れの域に至りながら応じる。三人で”作戦”を立て始めてからというもの、麗女翔の行動力は僕を遥かに上回っている。
彼は特に、通信傍受に対して優れた能力を有していた。元々履修していた授業も情報通信技術の身体障がい者支援現場への導入に関する内容が多く、中でも特に聾啞者とのコミュニケーションに力を入れていた。
「俺って人と喋るの好きじゃん?」
それは彼が言うと、イコール「自慢出来る程社交的じゃん?」という意味になるのだが、突き詰めると彼が生粋のやんちゃ坊主である事と根は同じだった。ラジオを自作して施設内でのみ使用出来るローカルネットワーク外から情報を得ようとする事も──彼のこの行為が看過されていたのは、エリアで接続出来るネットに出回っている情報全てが偽装であり、それが「グローバルネットワークに載った情報」だと伝えられていたからだった──、僕が真実を告げ、彼や杞紗と共に”作戦”を立案する以前から行っていた悪戯だ。
インターネット(SNS)の過度な使用は、僕たちの発達上宜しくないという漠然とした、かつありふれた理由で制限されていた。それでも学習の一環としてネットを使用する以上、このような運営側からの偽装は必須だった。麗女翔は密かにラジオを組み立ててはバレて先生たちに注意される、という事を度々繰り返していたが、もしあの頃の時点で彼の手が偽装ネットワークの外まで及んでいたら、と考えるとぞっとする。彼はノードたちから危険人物と見做され、引き取り手が現れたなどと理由を付けられて早期出荷されていたのではないだろうか、と。
真実を知ってからというもの、彼は今度こそ細心の注意を払い、本当のエリア外の電波を拾う事に成功した。手製ラジオでは限界があるが、仙台のニュースはまず入手出来る。これは、僕たちにとって大きな武器だった。
クラッキングを趣味としていた僕自身も、成績は平均的ながら静かで大人しく、正真正銘の「いい子」である杞紗まで巻き込んで問題児扱いされている事を麗女翔だけのせいには出来ない。他のエリアでどうなのかは知る由もないが、ここ青葉児童養護学校には学年ごとに一定数の”悪戯っ子”が存在するのだ。
それは、人為的に知能を高められた僕たち生徒が必然的に有する能力であり、突出した能力を持て余すからこそ試したくなる、野心というのは些か大袈裟に過ぎる宿命──開き直った言い方をすれば不可抗力だった。
それはさておき──。
僕は、小さく息を吐いてから麗女翔に尋ねる。
「で、誰が来るの?」
「驚くなよ、何と全国のエリアを統括するマツリハ興業グループの会長だ。経営陣は勿論の事、コールブランドまで出て来てお出迎え。こんな事、少なくとも俺が捕まってからは一度もなかった」
僕は、唾液をごくりと嚥下しつつ肯く。ここにやって来た順番は、僕たちの中では麗女翔が最古参だった。
「まあ、仕方ないか。それに、まだ脱出経路を確認しても……」
「だけど、そろそろ見通しは立っていないとな。他の皆だって」
麗女翔が言うと、杞紗が口を小さく動かした。僕と麗女翔は、彼女の口元に耳を寄せる。杞紗はいつも何かに怯えているようで、鈴虫の音のような高音に上擦った、微かな声で話す。
僕たちは、彼女のそのような様子について、ノードたちが与えた偽りの記憶によるショックが原因ではないかと推測している。それについて、知り合った当初は僕たちも知ろうとしたものの彼女はトラウマに対する刺激に非常に敏感で、それに触れる度何度も過呼吸などを起こしてしまった。だから僕と麗女翔は、以降は傷に寄り添うというよりも”居場所”としての友達という立ち位置で彼女に接している。元々は社交的な麗女翔が杞紗を可愛がって世話を焼こうとし、僕は彼と一緒に行動する事が多かった為に彼女に認識された。最初こそ警戒されていた(ややもするとウザがられていた?)が、今では確かに心を開いてくれている。
彼女は僕たちが耳を傾けると、こちらの鼓膜に配慮してか増々声のボリュームを下げて言った。
「類君の解析、どれくらい進んだの?」
「出来るとこまでは、全部やったって感じかな」僕は、昨晩日付が変わる頃まで行っていた作業の結果を思い出し、苦々しい気持ちで答えた。「エニグマの最下層にあるデータにアクセスするのに、僕たちに支給されているNNEC PC - 99 NOTEじゃない特殊な企業向けコンピューターが必要らしい」
「それは無理だな。代案は?」
「簡単に言うなあ、麗女翔は……一応、考えてはみたけど」
僕たちが一年二ヶ月を掛けて準備を進めてきた”作戦”に於いて、最後の鍵となる要素こそが、二世紀も昔にナチス・ドイツが使用した、当時解読不能といわれた暗号化装置の名を持つシステムだった。
E.N.I.G.M.A. (Element Network Integrative Generalized Mother Asset:構成ネットワーク統合概括母体)。施設を中心に、エリアの管理機構を統括してあらゆるデータを集積した基盤システム。
AR後、全国的なエリア体制の構築を急ピッチで進めるべく用意されたこれは、現在のマツリハ興業の前身である関東ネオヒューマノコンツェルンが管理業務を委託され、新世界連合が組織として完全に新陳代謝されてからも刷新される事なく採用され続けている。ノード社会の根幹を支えるエリアを、更に支えていると言っても過言ではないこのシステムの名が「謎」を意味する暗号機のアクロニムなのは、果たして偶然か、それともノードの諧謔センスの一環か──。
ともあれ僕たちの”作戦”を成功させる為には、脱出ルートの確保やセキュリティの機能停止を始め、このエニグマを掌握する事は絶対条件だった。最重要システムであるだけに機密性は極めて高く、僕たち最上級学年の卒業──”出荷”まで残り半月に迫った準備期間の殆どは昨夜までの最下層へのアクセスに費やされていた。
しかし、最後の最後で躓いた。
「エニグマの最下層は、ノード専用のコンピュータ言語で構成されていた。旧時代までの情報工学しか教えられない僕たちには、まず手に負えない。……僕たちのノートPC、それが無理でもせめて先生たちの端末でアクセスするには、メインフレーム上のプログラムをデバッグする必要がある」
「よし、何が要る?」
「対応しているエミュレータだけど、これが人間時代の旧型PC・Theoriaシリーズに内蔵されている事が分かった」
「Theoria……私、何処かでそれ見たような……」
杞紗の言葉に、僕は大きく肯いた。
「エリア内の街じゃ、僕たちを欺く為に旧時代の機器を使っている。それで、僕が偽国家試験に受かって内定貰った県立病院、ヴェルカナ先生が派遣元だって言っている医局にあったんだ、Theoria DT 1126が」