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『禁猟区 聖痕なきメサイア』 第29回

  ⑮ 類


 麗女翔のコピーした、ヴェルカナ先生のUSBのデータを持って部屋を出ると、僕たちは自室に戻る手間も惜しく職員用の予備コンピューター室に向かった。イレギュラーに備えてノードの変装をしていたのが幸いに働き、廊下で何度か職員と擦れ違いながらも怪しまれる事はなかった。

 僕たちは、裏方の職員たちの動きが妙に慌ただしくなっている事に気付いた。僕の部屋を訪ねて来たベリーはヴェルカナ先生が姿を消したとも言っていたが、その事も何かに関係しているのだろうか、と思った。

「やっぱり、部屋に戻ってからの方がいいんじゃないかな……?」

 杞紗は心配そうに口にしたが、僕は(かぶり)を振った。

「さっき、換気口に何かスキャンみたいな事をやっているノードが居た。何が起こったのか分からないけど、ノードの姿で隠密行動(スニーキング)をしているところをあいつらに見られたら(かえ)ってマズい。来た時と同じように通気管を使って戻るのは、危ないかもしれないよ」

「何かトラブってんのは、ここの連中も同じって訳か……そうなると増々、ヴェルカナ先生が隠そうとしたこのデータが気になるな。いや、『隠そうとした』っていうより、守ろうとした?」

 麗女翔は独りごちてから、やや唇を噛んだ。彼としては、杞紗が怯えている以上すぐに彼女と共に引き返したいと思っているに違いない。だが、次々と予想外を提示してくる状況に苛立っている事もありありと分かった。

 彼は首を振ると、努めて杞紗を安心させようと振舞った。

「大丈夫、もし何かあったら俺が守ってやる。いつもみたいにな」

「……ありがとう、麗女翔君」

 杞紗はやっと少々強張りを解き、行く手を見据えた。

 目的の部屋に着くと、僕はいつもの如く一台のディスプレイを選んでパスワードクラックを行い、麗女翔のUSBを挿し込んだ。ヴェルカナ先生のまとめていた二つのフォルダのうち、まず「フォルダⅠ」の方を開く。

 そこには、幾つかのPDFファイルが収められていた。予想していたといえば予想していた通りの展開ではある。

「何の書類?」

「実験レポート……というか、書きかけの学術論文かな? 題名は『無意識同調による有機器官の並列化に伴う擬似ゲノムコンパイラ及び種痘性ナノマシン併用療法』……だって」

 僕は、閊えそうになりながらも読み上げる。麗女翔と杞紗も興味津々といった様子で覗き込んできたが、ざっと目を通した瞬間うっと呻き声を上げた。液晶画面に映った細かい文字を読むのはただでさえ目が痛くなる事だが、訳の分からない単語が羅列されるともっと頭が痛くなりそうだ。

「ウィキに並列化(パラレライズ)……神経的なハードウェア、ミーム感染? 哲学かな?」

「どちらかといえば、心理学かも?」

 ヴェルカナ先生の専門である薬学や培人学とは大分違いすぎるではないか、と思ったが、署名欄には確かに「Verkana Lodbrok」とあった。読むだけなら一分も掛からないので、一応いちばん下までスクロールする。

 まだ断片的な記述から全てを読み解く事は難しかったが、二人にも読んだ事を確認し、ファイルを閉じる。次のものを開くと、今度は何やら観察日記のような経過報告が日順にまとめられていた。


『昨年六月の皮膚片剝落とその再生を受け、以下に観察記録をつける』


「人工皮膚の代謝、未知の感覚発生……認識パターンと被食種の各種脳波との照合を行った結果、感覚ニューロンに一致あり……痛痒感と推測。感覚質(クオリア)の発現を前提に観察を続行……」

「類、これってまさか」

 麗女翔が、目を見開きながら言った。

「ノードの有機化(オーガナイズ)の段階を記録したものじゃないのか? 有り得ないだろ、パターンのデータ集積で育てられる視聴覚ならまだしも、刺激を司る感覚神経が未分化のあいつらに、感覚質(クオリア)なんて……」

「誰の? 誰が、オーガニックに進化しているの?」と杞紗。

「決まっているだろ、ヴェルカナ先生だ。彼は自分に、ノードがAR以降ずっと目指してきた有機化の兆候が表れた事を知った。それで、そのデータを基に独自の研究を始めたんだ」

「それが、さっきの無意識同調っていう……?」

 僕は、先程閉じたファイルの文章を脳裏で見返した。ヴェルカナ先生自身が有機化を次の段階に進めていた、という前提で、先程理解出来なかった部分を再解釈しようとする。

 やがて、僕は理解(エウレカ)に至った。

「ヴェルカナ先生は、自分のメインプログラムがオーガニック向けに変節を始めている事を知った。そして、いずれ完全有機化(フルオーガナイズ)したノードの第一号は自分になるんじゃないかって考えたんだ。それを、全ノードが思考ネットワークへアクセス出来るナノマシンを介して共有されれば」

次段階(ネクストステージ)の有機化が、全てのノードたちに共有される」

 麗女翔は、「なるほどな」と呟いた。

「昔、こんなアニメがあったんだ。人工知能を搭載されたロボットが複数あって、それは人間がどれを使ってタスクをこなしても完了後は並列化され、差異が生じないようになっていた。しかし、中の一台に与えられた天然オイルがごく微妙な電位差を個体間に発生させてしまった。その”個体差”が並列化で共有され、全ての個体が個性を持つようになった……」

「もし、基準となったノードの個体──論文の呼び方に倣えば『ウィキ』か──が完全有機化を果たし、擬似遺伝子ではない染色体を持った上で、プログラムされた存在であるという点だけが残っていれば」

 僕は、事実ウィキの”完全有機化”という言葉には、その点のみで語弊があるだろうと思った。真の意味での次世代(ネクストステージ)は、染色体とプログラムを同時に持った存在が有性生殖を行い、後者が完全に消滅した時だ。

「だけど、問題はノードのメインプログラムが極めて包括的で、無意識って言葉自体がかなり意義的(セマンティック)に解釈可能な事だった」

「評論家みたいな喋り方をするな、類よ。でも、分かるぞ。ノードの存在理由(レーゾンデートル)プログラムには、身体構造のみならず心理的な作用も含まれる。誤って、もしくは作為的にその部分が共有されたら、心の中が他人にだだ漏れだ」

「ノードの活動は、全部ネットワーク上にログが残るんだもんね。私たちは心の中で思った事なんて何処にも残らないから、旧時代じゃ精神の自由が尊重されて侵される事がなかった」

 杞紗は言い、「ぞっとする」というかの如く自らを抱くようにした。

「だけど、ノードは複雑な思考でも結局は電脳の処理結果。0と1で記述しようと思えば出来ちゃう」

「ヴェルカナ先生は、理論だけを立ててから悪用を恐れた。勿論、有機化が個人で進んだなんてノード社会の将来にも関わる大事件だし、報告を怠る訳には行かない。それを基に、自分で研究をしているって事もね。学会が彼を『貴重なサンプル』とか言って工場で解体したり、なんて事にならないように」

「それで、自分でデータを持ちながらも本当に重要な部分だけは別な所に隠そうとしたって訳か。それが、派遣元って偽っていた事で、生徒の研修の為に出入り出来るようになっていた偽県立病院のコンピューター内だった」

 麗女翔がまとめ、僕たちは一応の納得が行った。しかし、そうなると病院から消えていたノードたちはヴェルカナ先生の協力者だったのか、もしくは今発生しているらしいトラブルの一環として意図的に消されたのか──。

「でも、その隠しデータがまた持ち出されたのはどういう訳だ? 私室のPCを使っていたんだから、やったのはヴェルカナ先生以外に有り得ないだろうけど……その上こっちにあったデータまで、まさに今から持ち出しますよ、みたいにUSBに移し替えていたなんて」

「その鍵が、こっちのフォルダにあるんじゃないかな」

 麗女翔はマウスを動かし、PDFを閉じて「フォルダⅡ」の方を開いた。

 そちらには、作成者の名前に「Liza Chanel」と書かれた『人工栽培に関する経過報告』なるファイルに加えて、僕が最初のハッキングで見つけたようなエリア運営の記録が一部分だけ収められていた。

「更新日時が十年前の三月になっているな。作成者は……リザ? 今の青葉エリアには居ないノードみたいだけど」

「人工栽培って、どういう事かな。私たち商品(プロダクト)の”教育(カルティベート)”とは違う意味……みたいだけど」

「でも、これも人間の成長記録(ポートフォリオ)みたいだね」

 僕たちは再び書類を読み始める。まず目に入ってきたのは、「鷹嘴那覇人」「八剱光村」という人名らしい単語だった。それぞれの登録名は「ナハト・シュナベル」「フォス・アーベント」となっている。

 何の気なしに、僕たちはそこまで脳内処理した。しかし、その後にざっと目を通した時、僕は俄かには表白し難い違和感を覚える。内容がどうこうという以前に、一目で分かる他の記録との違い。

 最初にその正体を探り当てたのは、杞紗だった。

「何でこの人たち、本名で記録が書いてあるの……?」

「えっ? ……ああっ!?」

 麗女翔が、何故気付かなかった、というように自分の頭を(はた)く。大きな声を出したら、近くのノードが寄って来てしまうかもしれない、と彼の口を塞ぐ余裕は、僕にもなかった。

 エリアに連れて来られる際、僕たちは本名を剝奪される。本名をもじった冗談のような登録名は付けられるが、これはエリア以前の”本当の記憶”を思い出すトリガーを極力排除しようという意図に基づく処置だ。ノードたちにとっても、管理に用いるIDと学校で生徒を呼名する為の便宜上の「登録名」があればいいので、わざわざ記録媒体に本名が残されるという事はない。

 僕たちは顔を見合わせ、改めて記録文書に向き直った。ここに何か、ヴェルカナ先生に謎めいた行動を取らせた何かが隠されている。

 内容を読み進めるうちに、僕たちは自然に姿勢を正していた。一秒でページ全体を吸収する頭に依存せず、ゆっくりと咀嚼し消化するように文字列を追っていくと、浮かび上がってきたのは身の毛も弥立(よだ)つような過去の出来事だった。

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