『禁猟区 聖痕なきメサイア』 第25回
⑬ NACHT MUSIK(現在)
ノックをしたが、返事はなかった。私は電子ロックに機関手を翳し、ドグマウイルスを送信しようとしたが、すぐに考え直して左腕を下げた。まだオーガニックな右手の指で、エリア時代に記憶していた番号を打ち込む。決定ボタンを押すと、施錠は難なく解除された。それで私は、この部屋が十年前のあの時から時間を止めたままなのだという事を悟った。
十年前にも出入りした、オブザーバーの発達状況をチェックする部屋。外から商品の子供を捕まえて来るのではなく、エリア内で優秀な遺伝子を交配し、人工発芽させるという試みは私たち以降、何処でも行われてはいない。その為、専用の装置を備えたこの部屋は最早過去の遺物として封印されたようだ。
ナハト・インシデント、エリア至上最悪の醜聞。
記録自体が黒歴史に相当するものなのだ、当然あれ以降配属されたノードたちにこの部屋の詳細が語られるはずも、立ち入りを許されたはずもなかっただろう。
対コールブランド戦からは、更なるノードたちと遭遇する事もなくここまで来る事が出来た。それでも、先の戦闘時点で体は既に限界を訴えていた。それがここに入った途端、嘘のように肉体の痛みを溶かしていくのが分かった。
監視対象である商品から、一緒に脱出しようと持ち掛けられたオブザーバーにとって、担当の管理官への報告に使われたこの部屋は極度の緊張状態を強いられる場所だった。この部屋で愉快な思い出が育まれるはずもなく、負の感情は熟成され瘴気と化していてもおかしくはない。
ただ、私の感覚質はこの部屋を憩うべき場所だと知覚していた。それは恐らく、ここが私の愛しき人が過ごしたという認識のせいかもしれない。向こうでは私たちを認識する事もなかった”二人目”の少年、光村が。
私の担任だったリザ先生も、既にそこには居なかった。ただ、私たちの残した記録──否、記憶だけは、確かにサイバー空間に残っているはず。
(ニューラルネットワーク……全く、分野の違う何もかもを取り混ぜて扱っちまうからややこしくなるんだよな)
ここにあるのはやはり”記録”だ。記憶ではない。
私は胸の底で頭を擡げた感傷的な気持ちを振り払い、病床にも似たカーテン付きのベッドに近づく。身体検査や報告が行われたこの枕頭には、リザ先生がせっせと経過報告を記録していたPCが置かれていた。
幸い、十年が経った今でもそれは問題なく起動出来た。
『オブザーバー 鷹嘴那覇人(符丁名ゲニウス・ロキ)』
その名前に始まる一連の報告は、確かにこのエリアに生きた一人の少年の成長記録には違いない。だがこうして見返せば、やはりそれは家畜の管理にも似た書き方に思えた。
やがて、もう忘れようとしていた名前が見つかった。
『ID二〇八〇〇〇四、登録名サナ・エヴァンス』
──違う。この少女の本当の名は、外国語ではない日本人名の「佐奈」だった。
那覇人と佐奈。二つの名前はもう並ぶ事はないのだ、と思うと、懐かしさの麻酔ではごまかしきれない鈍痛が、胸の奥に異物が紛れ込んだかのように走った。もっと二人で、一緒に居たかった。
私を始めとする多くの子供たちが、”被食種”ではない人間として生きる事が出来たのは相棒のお陰だった。理想とは程遠い形だったとはいえ、あれで救われた者たちが居た以上、計画はある意味では成功したと言って良かったのだ。それなのに、その立役者である相棒が、やっと手に入れた私たちの世界に居ない──。
感傷に浸るな、と何度目かの自己暗示を掛け、私は記録を読み続ける。
『二〇九〇年三月二十日、オブザーバーの観察によりサナ・エヴァンスを重点的監視対象に決定。発信機を使用の上、個人接触を開始とする。バイタルサインの変動から推測される蓋然反抗危険率は十パーセント前後で推移の為、職員による観察強化は行わず、オブザーバーによるモニタリングのみを実施』
エリアに囚われてからの十年間、極めて緻密な計算により生体情報を欺き続け、それがごく僅かながら綻びた瞬間だった。或いは、その時点で自分たちの間に、自覚し得ない程些細な”絆”が生じていたからこそ気付いたのかもしれない。私は幼かった彼女に、心の中で「頑張ったね」と囁いた。
自分たちがエリアからの脱出という目的を共有するようになってからは、登録名サナ・エヴァンスに関連する記述には、偽りの報告による「異常なし」が続く。接触記録は「よくぞここまで」と思う程に徹底して嘘八百が並べられていたが、時折友達の誕生会や年中行事などの記録もあった。
──地獄の季節。屠殺され、食われるのを待つだけの日々。皆が知らないでいる真実を、自分だけは知っているという状況。真実を知っているという嘘が露見しないよう、人間としての本能を抑圧せねばならなかった事。心の底から、逃げ出したいと祈り続けていた。
私も相棒も、全てを知ってからはきっとそうだっただろう。だが、そのような日々の中でふと現れる友人との、家族との時間は、あるはずのない懐郷を誘われる程に狂おしく愛おしい。
戻れない思い出が蘇り、私は胸の底から湧き上がってくる熱い感情の奔流を必死に宥めた。呑み込まれてなるものか、と自らに言い聞かせる。
長い「異常なし」は一年程続き、いよいよ集団出荷までの予定を含めた記録が見え始める。最後まで疑念が完全に払拭され、監視強化を解かれる事がなかったのは、自分たちが一緒に居る理由をノードたちに疑われないようにする為だった。後になってコールブランドたちは、私たちの関係を本当の”相棒”だったのだ、と認識したのだろうか。今更ざまあみろよ、と嘲る気持ちにはなれない。
それ以上を読めば耐えられなくなりそうなので、私は目を通すのをやめた。
この記録には、誰かによって報告された訳ではないオブザーバー誕生の瞬間や、人工子宮での育成過程に於ける発達状況までが書かれていた。ならば、第二号である光村にも似たような記録があるはずだ。
待っていろよ、と呟きながら、私はフォルダを片端から開いていく。中には更新日時が今朝の早い時刻になっているものも見つかり、幾つか誰かに開かれたような形跡のあるファイルが気になったが、余計な事を考えている暇はないので意識の外へ追い出した。
それは間もなく見つかった。十八年、否、実年齢分の十三年間の記録がまとめられた先程の報告に比べると、一年と少し程度の期間しかないその容量は微々たるものといえたが、確かに「人間の成長記録」として存在していた。
『オブザーバー 八剱光村(符丁名未設定)』
私は、彼の出生にまつわる部分は敢えて見ないようにした。既に分かりきっている事だ、それを視覚情報として再認識する事で、感情が度を越えておかしな方向に向かってしまうような気がしたのだ。そのせいでこの作戦行動にも支障を来してしまったら本末転倒というものだ。
見ないようにスクロールし、日ごとのバイタルサインや心身の発達度合い、無意識領域での学習記録など退屈な報告を順に追っていく。それは、どの部分を採っても先程の記録に比べて淡白すぎた。
若干の数値や文章が変わっただけの、テンプレートを使用したような記録が何ヶ月も続いたが、やがて最後の一日の記録に辿り着いた。それは私たちが自由を掴み、同時に私が──。
(あれから、二日後か)
『三月九日。オブザーバー鷹嘴那覇人の反逆行為を受け、次期同ポジション、八剱光村の覚醒を中止。並びにティーチングマシンと投薬処置による無意識学習も中止とする。その後の処理については、グループの命令を待つ為一時保留。屋外地下の空きブースをエニグマより分割、生命維持設備を移動の後、独立して再稼働。培養液中にて栄養補給管理を行う』
以降、どのファイルを探っても彼が処分されたという記述はなかった。この部屋が保存されていた事から鑑みるに、彼はまだ延命処置を続けられているのだろう。念の為上位システムにアクセスし、施設の図面を見たが、私が在学中にCGを作って記憶していたそれと”見比べて”みると、裏手の倉庫の一つに唯一存在した地下ブースが現在の図面からは消えていた。そこの設備システムがエニグマから切り離されたと書いてあったが、やはり再統合はされていないらしい。
彼は、光村はまだ生きている。
きっと、自分たちが逃げ出した事の対応で、次期オブザーバーとなるはずだった光村に関する処置が遅れたのだろう。マツリハは管理責任を果たす為に、一切を揉み消すのではなく現状のまま維持するようにと指示を出し、それが十年経った今でも続行されている。光村の記録の末尾には、具体的な保存方法がかなり大雑把にではあるが追記されていた。
──あった。私が探していた、決定的な情報。
しかし、やはり実際の様子を見るまではどのようにして回収を行えばいいのか、目途が立たない。どれ程慎重に管理されてきたかも分からないし、培養液を介した栄養摂取でどれだけ筋肉や骨格が形成されるのかも、思考実験のみで判断する訳には行かない。
一旦外に出て、記録された座標を訪れて詳細を調べよう。救出方法については、実際の状況を見て策を練ればいい。
私はPCをシャットダウンし、部屋を後にした。廊下に出、入口にオートロックが掛かった瞬間、それまで彼らへの愛おしさや精神的な痛みで封じ込められていた拒絶反応の苦痛がぶり返し、ぎしぎしと全身を苛んだ。
彼が生きていて良かった、と、私は密かに安堵していた。
しかしそれは、同時に自分が「彼は死んでいるかもしれない」と心の何処かで思っていたという事でもあった。それに気付いた事が、ショックだった。




