『禁猟区 聖痕なきメサイア』 第21回
⑩ 類
偽県立病院で手に入れたTheoria DT 1126を麗女翔の用意したギフトボックスに入れ、丁寧にラッピングし直して施設に持ち帰ると、道中で誰からも怪しまれる事はなかった。
帰るや否や、僕たちはすぐに麗女翔と杞紗の記憶を再生した体育倉庫──鍵が掛かる上監視カメラもないので、今や大掛かりな作業を行う際には半ば自然に集まる秘密基地のような場所になっていた──に移動し、初期化されていたシステムをチェックした。幸い、肝腎のエミュレータはあらかじめ内蔵されているソフトだったのでアンインストールされている事はなかった。
ただ、これを使用しても問題はないのかという事に、僕たちは揃って躊躇いの念を抱かざるを得なかった。
「何か、危ない気がするんだよね……」
杞紗が、普段通りのか細い声で呟いた。
「初期化されていたのに、その後でわざわざ起動してパスワードを変更した痕跡があったなんて。何かの罠とかじゃ……?」
「誰を嵌める為の? 俺たちは、まだ疑われている訳じゃないんだぞ」
麗女翔はそう口にする事で、杞紗だけでなく自分をもまた安心させたいと思っているようだった。
「表面上、先生たちがそう振舞っているって可能性は? アルミホイル事件の時だって、私たちが『悪ガキ三人組』だって理由で、本当に先生たちが納得したのかどうかも分からない」
「少なくとも、端末のシステムコンポーネントやバージョンは一通り見たけど、パスワード変更以外に初期化後弄ったところは見られなかったじゃないか」
「別端末でCPUをスキャンして、表示だけ変更するプログラムを書き加えたのかもしれない」
「……そこまで疑ったら、何処までも疑えちまうよ」
「まあまあ、二人とも」
僕は、麗女翔と同様自分の不安を押し殺しながら言った。
「理論上、Theoriaのエミュレータならエニグマのメインプログラムを書き換えられちゃうんだ。僕たちがそれを実行した時には、運営側としてはもう遅い。こっちの動きに気付いている誰かが居るなら、僕たちが違反行動を取るかどうか見極めようとする以前にエミュレータを使えなくするだろう?」
「その対策が、採られていなかったって事は……」
「やっぱりこの件は、僕たちの動きとは無関係だって事で結論づけた方がいいんじゃないかな」
麗女翔も杞紗も、ぐっと黙り込んだ。
僕たちはPCを再度箱に収め、器械運動の授業で使う跳び箱の中に隠す(さすがに生徒の私室に持ち込んだら隠せない)と、ひとまず僕の部屋に移動して再度話し合いを行う事にした。
* * *
話し合おう、とは言ったものの、部屋に入っても僕たちに出来た事は、ただ浮かない顔を突きつけている事だけだった。思考実験だけでは限界がある、という事は僕も麗女翔も杞紗も分かっており、だからこそ建設的な議論をしようにも平行線を辿るのは目に見えていた。
「……畢竟するに」
麗女翔は、狙っているのかいないのか、妙にしかつめらしい顔で言った。
「偽病院全てのコンピューターの初期化なんて事を、”誰がしたか”が分からなければ”何の意図で”も推測しようがない」
「もう一回、病院に行ってみようか? 防犯カメラの記録映像をチェックすれば、少なくとも誰がうろついていたのかは分かるよ」
僕は提案するが、杞紗が「でも」と伏せ目がちに開口した。
「街中の警備、厳しかったよ。何回も同じ生徒が同じ場所を歩いていたら怪しまれるかもしれないし、それこそ病院のカメラだって……」
彼女は言いながら、自分で気付く事があったらしく不意に口を噤んだ。僕と麗女翔は「どうしたの?」と先を促す。
「えっとね……私、見つかるリスクについて考えてたけど、そしたら病院に誰も居なかった事を思い出して……幾ら何でも、あそこまでもぬけの殻っていうのはおかしいよね……?」
「そういえばそうだったな、Theoriaの初期化の件が衝撃的すぎて、すっかり失念しちまってたけど」麗女翔が唸った。
ここ二時間足らずのうちに、急に謎を次々と投げ渡されてしまった。エニグマに挑むつもりで行ったTheoria確保が、”謎”に挑む事になってしまった、とノード的な冗句が浮かぶが、そのような事を言っている場合ではない。
偽病院で偽医者に扮していた警備のノードたちは、一体何処に消えたのか? 彼らが自分たちの意思で姿を消したのなら、彼らは院内のコンピューターが初期化されていた事に関与しているのか? ならば何故──。
僕が、無言で頭を回し始めた時だった。
不意に、コンコン、と扉をノックする音が聞こえた。
「ルイ君、開けていいかな? ベリーだよ」
ヴェルカナ先生ですか? と僕が尋ねるよりも先に、扉の向こうでノックした人物が言った。ヴェルカナ先生の助手、ベリー──彼が名乗るよりも数秒早く声で気付いた僕は、素早く机上にノートPCを開き、授業の課題用のウィンドウで画面を埋め尽くす。麗女翔と杞紗に素早く「静かに」のジェスチャーをすると、問答無用でベッドの中に押し込み、羽根布団を被せた。
厚みがあるので、ぱっと見ただけでは誰かが寝ているとは気付かない。
僕は内心の動揺を抑え、何食わぬ顔で「どうぞ」と応じた。失礼します、と律儀に断りながら、ベリーが扉を開けた。ヴェルカナ先生を伴わず彼だけが部屋を訪ねて来る事は殆どないので、僕は少々以外に思った。
「休みの日なのに、部屋で自主勉強?」
「午前中は、レナートたちと街に出ましたよ。でも、帰ってだらけるのも……ね」
「殊勝な心掛けだね。だけど、疲れた時はちゃんと休むのも大事だよ」
ベリーは言うと、「それはそうとして」と両手を打った。
「ヴェルカナ先生を見なかった? 今日は物理薬剤学Aの補修があるんだけど、何か時間になっても来ないらしくってさ」
「来ていない?」
「あの子たち、拗ねてたよ。わざわざお休みの日にまで教室に出ているのに、先生がバックレてどうするんだ、って」
「忘れている……訳はないですよね?」
ノードである彼らにそのような事は絶対にないのだが、僕は一応言う。皮肉や心理戦を意図した訳ではなかった。
「ないと思うけど、念の為僕からも連絡してみたんだ。でも、携帯の電源が切られているみたいで、繋がらなくてさ。派遣元で急に会議があったとか、業務的な事だったらこっちにも伝えてから行くだろうし」
携帯──正確にはHMEという内線機器だが──が繋がらない?
気の弱そうな若者のマスクに、恐らく演技ではないだろう困惑を浮かべながら言うベリーの様子に、僕も本心から首を捻った。エリアの中に、電波が使えない部屋があるとは考えにくい。施設の全貌は杞紗のCGで僕たちも掴んでいたが、少なくともその中では確認出来なかった。
という事は、意図的に電源を切っているのか。理由は、通知音が鳴って迷惑する会議の席などでないのなら、誰かから連絡されるのを拒んでいるから。そうだとすれば一体何の為か?
「気になりますね。夕方のバイタル測定も担任の先生にして欲しいですし、探すのをお手伝いしましょうか?」
「ああ、それは大丈夫だよ。裏は職員以外立ち入り禁止だし」
ベリーは慌てたように両手首を振った。
「そんな場所に『悪ガキ三人組』を連れ込んだら、何するか分からないと?」
「あー、それはね……あはは」
ごまかすように後頭部を掻く彼に、僕は微笑してみせた。
「冗談ですよ。意図的に規則違反をさせたりしたら、ベリーさんが怒られちゃいますよね。先生が見つかったら、僕も心配していたってお伝え下さい」
「ああ、そうするよ。じゃあ、午後からも楽しんで」
彼は僕の言葉に分かりやすい安堵を滲ませ、慣れないようなぎこちなさで頭を下げてから後ろ手に扉を閉めて去って行った。
足音が遠ざかるのを待ち、僕はふうっと息を吐き出す。
刹那、僕が身を隠させていた麗女翔が跳ね起きて僕に飛び掛かってきた。
「お前は俺を殺す気か! 死ぬかと思ったぞ!」
「ごめん、窒息しかけた? 条件が揃えば、布団の中でも死に至る事はあるっていうから」
「そういう事じゃなく!」
彼は顔を真っ赤にし、布団の陰からプレーリードッグの如く目だけを覗かせている杞紗の方に視線を送った。自分の体を忙しなく触っているのは、先程まで彼女と密着状態になっていたからだろう。杞紗の方はというと、
「ベリーさん、行った?」
と不必要に言いながらなかなか出てこないが、僅かに見える頰骨から鼻の辺りまでが麗女翔と同じくらい真っ赤になっていた。窒息ではないが、まさに”慙死”しそうになっているに違いない。
「ま、まあ、役得だったと思って笑って許せ」
僕は引き攣った笑みを浮かべながら、話を逸らすように、とはいえ半分以上は真面目な意図で彼に問うた。
「それよりさ、今の話聴いてた?」
「舐めるな、俺の自制心は鉄壁だ。どんな状況でも、すべき事はする」
麗女翔は頰を張って上昇した体温を払うと、杞紗に手招きをした。彼女はまだ心を整えていたようだったが、素直に這い出してきた。
「先生が派遣元だと偽っていた病院で、職員たちの失踪と全てのPC端末の初期化……そして、先生当人が何処に居るのか分からず連絡も取れない。これは単なる偶然なのか?」
麗女翔の呟きに、僕は「やっぱりそう思う?」と聞いた。
「僕たちが調べていたっていうのもあるけど、よりによって何でこのタイミングでっては思うよね。勿論、本当に派遣元って訳じゃないからそこまで先生があの偽病院を知悉していたとは思わない。けど、そういう設定にするからには説得力を持たせなきゃならない……僕が研修を受けていた時は、ヴェルカナ先生はここの教職員じゃなくて”医者”としてあそこに居た」
「業務の振りをするには、実際にPCも使わなきゃだよね」
杞紗が付け加える。僕たちは互いの顔を見ると、誰からともなく肯き合った。
病院詰めの警備員たちの名前が分からず、それ以外でTheoria DT 1126を使えた者といえばヴェルカナ先生しか居ない。僕たちにとって、この先の調査の手掛かりは彼しかないと言って良かった。
「よし、と。これで新しい目標が出来たな。当面探るべきは……」
麗女翔は呟き、部屋の隅に目をやった。
そこに置かれたバッグの中には、病院への潜入に使った給食着やナノマシン入りクリームがまだ入ったままだった。




