『禁猟区 聖痕なきメサイア』 第19回
⑨ NACHT MUSIK(過去)
監視すべき生徒たちの一人、ではない特別な見方をするようになってから、俺は佐奈がつくづく頭のいい女の子である事を思い知った。
いや、頭がいい、知能指数が高いという点では、ここの生徒たちは皆同じだ。ただ佐奈の場合は、人間の知能レベルに対していえるその範囲を遥かに凌駕するようなものだった。
彼女は計算と記憶の分野で特にその実力を発揮し、エリアで教育される生徒の多くが持っている映像記憶能力は勿論の事、物心ついた時からの記憶は途切れた事がないとの事だった。唯一覚えていない事柄は自身の誕生日だけで、一応ここに来てからノードたちに教えられたものの、あまり信用していないようだった。
後天性サヴァン症候群。
彼女は、自分の事をそう述べた。
「思いっ切り頭打つと、馬鹿になるか天才になるか分かれるみたい」
サヴァン症候群、知能指数が一般的な平均よりも低いながら、記憶や芸術などある特定の分野に対してのみ超人的な才能を発揮する疾患。知能が絡んでくる為多くの場合が先天性だが、後天性は事故などで頭部に強いダメージを負った結果生じるものなので、厳密には精神疾患ではないし、全体的な知能も常人に比べて劣るというような事もない。
佐奈は自身の後天性について、人頭狩りに遭った際ノードに頭を撃たれた事が原因ではないか、と推測していた。
「健忘薬が効かなかったのは体質的な問題。だけどそれで目が覚めた時、一瞬自分がおかしくなったのかって思った。自分に何が起こっているのか、本気で分からなかったんだもの」
彼女にそれが発現したのは、青葉エリアに連れて来られて最初に覚醒した時だったそうだ。彼女は自分の視界を四一〇×二七三センチのキャンバスと捉え、比を基に視界に映ったもの全てを寸分の狂いもなく描き取った。絵が上手かった訳ではなく、目測で角度や対象物の大きさを計算した結果が、常識的に有り得ないレベルで正確だったのだという。
当初、彼女はその為重度の数唱障害に悩まされた。一方で、視覚情報に含まれる見えない数字を意識し、考える間もなく計算している事は、ノードが自分を監視する為に枕頭に置くディスプレイに”視覚化される”バイタルサインを、自分がどのような動きをすれば操れるのかを掴む事にも繋がった。
佐奈は呼吸や思考の操作で、平常心や予期せぬトラブルの際乱れなければ却って怪しい脈拍などを偽装し、俺に直接監視されるまで周囲を欺き続けていたのだ。
……否、彼女が操っていたのは人間の生理現象であり、本能だった。彼女は自分自身をも騙し、コントロールしていたのだ。
「だけど、辛い時は本当に辛かった。ここで目を覚ます前、私、猟友会に撃たれて脳味噌の一部を貫通されたんだよ? 本当に奇跡的に動脈を傷つけなくて、弾も抜けたから緊急手術で助かったみたい。痛かったし、撃たれた時は死ぬんじゃないかって怖かった。それを、忘れてしまう事が出来ない体になったんだから」
彼女は、初めて「偽らない自分」のバイタルを見せても大丈夫な相手に俺がなった為、今まで文字通り噫にも出さなかった本当の気持ちをゆっくりと吐露した。しまいには、血圧が高ぶる程に涙を流しながら。
「襲撃を受けたのは六歳の時。ハンターに襲われた私を庇って、近所の大人が撃たれた。その時、流れ弾が当たってしまったの。あいつらにとって子供は収穫肉にする為に育成するべきものなんだから、狩肉にする為に狙って実弾で撃つなんて、するはずがないでしょ?
私、両親が”本当に”居ない子供だったみたい。ここで育てられている皆が『保護された』っていう理由付けをされる為の、あいつらに作り出された記憶じゃなくってね。誕生日が分からないっていうのも、きっとその事に関係しているんだと思う。本当に小さい頃は当然こんな記憶力もなかったし、幼児期健忘を思い出せっていうのも無理だけど……多分、独りぼっちだったんだろうな。だから、他の皆と会えた時、自分の状況が分かっていたにも拘わらず、嬉しくて、嬉しくて……毎朝お話しする那覇人の立場に気付いても、それは変わらなくって……」
「……そ、それで」
俺は、個別性を持って誰かの涙に接した事は初めてだった。佐奈の辛さが自分の事のように感じられ、今まで感じた事のない痛みに戸惑った。しかし、それで戸惑う事が出来る事に、不思議な安心感があった。
「……それだけ。ちょっと、精神が神経的になっちゃって……」
佐奈は、自分がさもおかしな冗談を口にしたかのように笑い、笑いながら涙で頰を濡らし続けていた。
* * *
頼れる人が誰も居なかった事が、記憶を消す事が出来なかった彼女の靭い精神力を育んだ。
そう考える事は、あまりにも皮肉で、彼女の本質を見ようとしない解釈であるように思えた。孤独に少しずつ慣れて、何も感じなくなっていく事を、果たして忍耐などと気安く呼べるだろうか?
共同作戦の立案に着手する前、俺はまず彼女に謝った。
怖かっただろう。友達は大勢居ながらも、偽る事のない心のままに接する事は出来ない。本当の彼女は、いつも独りぼっちだったのだ。俺はオブザーバーで、彼女の前で同じく自分を偽っており、その偽装に彼女は気付いていながらも気付かない振りを何年間も続けていた。
それで居ながら、彼女は俺を本当の友達だと言い、憐れみさえした。
「いいんだよ、那覇人」
頭を下げて謝罪した俺に、彼女は優しすぎる笑みで応じてきた。
「私たちはもう友達同士、変な引け目や罪悪感は忘れよう。『共犯者』って言った方が運命共同体みたいでロマンチックだけど、私たちは何も間違った事をしようとしている訳じゃないもんね。上下関係も遠慮も要らない。作戦を成功させる為には、私の計算能力以上に、那覇人の持っているここのシステムについての知識が必要になるんだから」
「佐奈は、一人でどんな作戦を立てていたの?」
俺は、最初に彼女と情報共有を行った。
彼女の作戦概要とは、計算や細部を排して大まかに述べれば実に単純明快なものだった。
まず、集団出荷の実行と同時に自分たちと同年代の生徒たちを、搬出の為に開放された「輸送用通路」を通ってエリアの外へ送り出す。盗賊などへの対策の為、集団出荷の日にはエリア外周に近づいて良いのは食肉処理を行う屠畜業者たちのみとなっている。出た先で待ち構えている彼らの包囲網さえ突破すれば、スラムに逃げ込む事はそれ程難しくない。
無論、この為には事前に同期生たちにエリアと本当の日本の実態、こちらで立てた作戦について説明を行い、彼らにも屠畜業者への対抗策を実行出来るよう図っておかねばならない。彼らが動いている間、佐奈自身はここの全システムを支配下に置いてセキュリティを停止させ、下級生たちを逃がす。同時にここに居るノードを全個体故障させる。
それは拍子抜けする程に直截的だった。だが、口にするだけなら極めて簡単なこの作戦に、オブザーバーとしての俺の知識が必要になるとするならばどうだろう。これは単なる脱走ではない、革命に等しい行動なのだ。
「エリアシステムの掌握とノードたちの機能停止には、同じプログラムを使う。無限増殖するコンピューターウイルスをね」
佐奈の台詞には、その単語が持つ禍々しい印象はなく、落とし穴を掘る子供のような無邪気さを感じさせるものがあった。
「それは、もう設計しているのか?」
「一応はね。でもまだ試作品だから、もう少し実験をしてみる必要があるかな。プロシージャ名は『ドグマ』。なかなか面白いでしょ?」
「か、科学用語……?」
俺は、やや恥じ入りながら尋ねた。
「セントラルドグマなら、遺伝子情報の伝達の流れに関する原則だけど」
「あー……那覇人、神学の方は専門外だったか」
「スピリチュアルな事は、ノードには必要なかったんだ。疑う余地なく彼らを縛っている機械的生命だけが実態なく認められるもので」
言い訳すると、佐奈はくすりと笑った。
「信じる信じないは別として、そういうものがヒトの心の拠り所になるっていう事は覚えとかなきゃね。……ドグマっていうのは、宗教上の教義、個人原理、もしくは独断。神様って、全能者っていう意味じゃないと思う。皆それぞれに信じていて、誰もが自分の信じる神様を本物だって思いたい。
ノードたちは、種族としての知能が人間よりも高いから自分たちは人間を支配するべき存在なんだって立ち上がった。だけど、それだけが全部じゃないでしょ。信仰って呼べるくらい大事なものは、彼らの思う最高だけじゃない」
「俺たちの原理が、彼らを打ち負かす……か」
不合理を愛する人間と、統計と演算で一切を判断した古い時代のAI。人間らしく合理的でない感情に従いながら、宗教を持たないノード。人間は旧時代、支配者という意味と全能者という意味で、「神」の語を使い分けていただろうか。自然界のヒエラルキーのうち、人間の存在していた支配階級に伸し上がったノードたちは、別に自分たちを神の模倣だとは考えなかったはず──。
「アナロギア・エンティス」
今まで考えもしなかった事に思いを巡らせ、頭痛を覚えそうになっていると、佐奈がぽつりと呟いた。彼女は既に、俺の部屋に持ち込んだ彼女の授業用ノートPCを机上で立ち上げていた。
「えっ?」
「存在の類比。神様も、那覇人の言った機械的生命も、ありとあらゆる存在はあくまで『存在する』っていう事だけが共通して言える事。在り方は違うの。少なくとも誰も、支配の強制を正当化する為に、神様や信仰を言い訳に使う事なんて出来やしないのよ」
ドグマの由来は、俺が合流するまで独りで積み上げてきた彼女の反抗の意志を顕著に反映したもののようだった。俺は分かったような、分からないような気持ちだったが、それ以上考える事はやめた。
佐奈が、理屈で考えなくてもいいんだよ、と言ってくれているように思った。
「ほら、ちょっとした実験」
彼女は声色を変えると、画面を俺に見せてきた。
そこに映っているものを見、俺は少々驚きながら彼女の顔を見る。
「98 NOTEじゃ、本物のクラウドにはアクセス出来ないんじゃなかったっけ?」
「エリア内で、偽装用のローカルネットワークが使われてるからね。Wi - Fiにもパスワード掛かってるみたいだし。グローバルネットワークに繋げちゃったら、外部とも連絡出来ちゃうからね。これは、エミュレータでこっちのOSを書き換えて職員が使っているPCと繋げるようにしたの」
「大丈夫なの? 登録されていないIPアドレスが見つかったら……」
「ちゃんと偽装してるから心配要らないよ。まあ、上をハッキングした時は大変だったけどね。暗号化アルゴリズムが最強のAESを使っていたから」
佐奈は歌うように言い、キーボードを叩く。
「AESの鍵長は二五六ビットで、旧時代は世界最強っていわれていたの。大分古い情報になるけど、世界中でICT産業が急成長の時期を迎えていた二〇二〇年代の時点でも、世界最速コンピューターを使っても解読に数百兆年掛かるっていわれていたくらい」
「それを、君は……」俺は呆然と呟くだけだった。
「エリアで教育された商品の頭脳に加えて、私は後天性サヴァン症候群。誰も作った事のないクラックツールは、最強を超える最強だった。数年間頑張ったら、あとは簡単。でも、最強最強って連呼しながら張り合うの、ちょっと恥ずかしいんだよね。小学生がカブトムシ戦わせているみたいで」
あっけらかんと笑う彼女に、俺は「あのさ」と確認する。
「佐奈は、こんな事を何年も前からやっていたの?」
「ここに来てからずっと。私が唯一出来なかった事といえば、那覇人を振り向かせる事かな」
悪戯っぽく言われ、思わずどぎまぎした。彼女によって人間性を解放されていた俺は、人間の雄性としての本能を思春期の如く自覚するようになっていた。同時に、オブザーバーやら規則やら作戦やらを措くにしても、非常階段越しの隣室の窓からという”お忍び”的に自室に女子生徒を招いているという状況を強く再認識させられて動悸がしてきた。
──俺は、思いの外ヘタレだったのか。
一方の佐奈はそんな事に気付いた素振りも見せず、PCの操作を続ける。やがて準備が整うと、俺が彼女に頼まれて検査室からこっそりと失敬してきた小型カメラをキーボードの隣に置いた。
カメラ上部には、作動している事を示す赤ランプが点灯していた。佐奈は、PCのマイクに口元を寄せた。