『禁猟区 聖痕なきメサイア』 第17回
⑦ ヘンリー
暇だな、と思っていると、欠伸が零れ出した。
オペレーティングルームでの業務は、忙しい時と暇な時の落差が激しい。朝夕と生徒たちの就寝時刻、ヴェルカナたち教員が記録してくる子供たちのバイタルデータの入力と日誌記入に多くの時間が割かれるが、日中は各所に設置された監視カメラの映像を眺めながら異常がないかをチェックするだけだ。
欠伸をするのは、眠気や退屈、疲労などが起きて脳の働きが鈍ってきた際、大きく呼吸をして多量の酸素を取り込む事で、血中の酸素濃度を上げ、全身を活性化させる為、らしい。授業中に欠伸をするのは態度が悪い、などと子供たちはよく注意されているが、それで頭がすっきりするなら居眠りするよりも余程いいではないか、とヘンリーは思っている。
だが、このオーガニックな生理現象が自分たちエクセリオンにも起こるのはどのような理屈だろうか。体内に流れている血液はヘモグロビンを持たず、酸素の交換を行っている訳でもない。脳神経も「核」に組み込まれている存在理由だし、酸素や栄養を求める必要もない。これも擬似遺伝子が取り込んだ旧人類からの模倣行動だとすれば、そもそも本当の生理現象であるとすらいえない。
などと考えていると、余計に暇が実感されてきた。
(それとも、俺もヴェルカナ先生みたいにオーガニックになりつつある? ……まさかね、流行感染じゃあるまいし)
ヘンリーは苦笑し、余計な考えを頭から追い払う。頰杖を突きつつ、隣で律儀に画面と睨めっこを続けるジェシカの横顔をちらりと窺った。生徒たちの前に出る事のない裏方の自分たちだが、ジェシカは偽装ではなく”お洒落”の一環として「金髪をポニーテールに結んだ若い女性」のマスクを被っている。
アクティベートから二年目の彼女は、初期学習を終えてエリアに配属されたのが去年で、ヘンリーよりは一つ後輩に当たる。科学者でも教員でもない閑職だが、それでも自分を慕ってくれる可愛い後輩に教える事があるというのは、仕事が認められたようで嬉しいものだった。
「先輩、定期的にあたしの方見てきますけど、画面大丈夫ですか?」
彼女が、不意にディスプレイを回転させてこちらに向けてきた。
「もし上手く映らないなら、あたしのをお見せしますよ?」
「あ、ああ、いやっ」
ヘンリーは慌てて首を振った。自分に心臓があれば、今頃ドキドキと脈打っている事だろうと思う。
「大丈夫だよ。ちょっと退屈だなって思っただけさ」
「仕方ないですよー、お仕事なんだから。ここ何日間かは会長の訪問で、研究員の皆さんは生徒さんたちの学習指導以外何も手が付けられないんですもの。データ整理とか運営会議の書類まとめとか、ただでさえお仕事の少ないあたしたちに回ってこないのも当たり前ですって」
「なら、せめて俺たちにも会長のお手伝いの仕事を回してくれればいいのに。セキュリティチェックだけは、相変わらずやらなきゃいけないなんてさ」
第一の学習高原に到達した際、ヘンリーの知能指数は一六九だった。もしも人間であれば十分に天才レベルだが、人間が犬と比べても仕方ないように、エクセリオンの種としてはまだまだ上は沢山居る。
エリアに配属されたはいいものの、頭を使う事が実質ないオペレーションに回される事となり、自分を劣等生なのではないかと思う事もしばしばある。特にこうして皆に特別な仕事が回っている時に、暇を持て余していると。
「殆ど見ているだけでお給料が貰えるなんて、楽でいいじゃないですか。あたしは先輩とお喋り出来ますし、楽しいですよ」
ジェシカにしれっと言われ、血流が速くなる。
──駄目だ、可愛い。
人間の価値観で、個人差はあるが何となくそう感じさせる容貌の造りや仕草などは存在するらしい。だが、自分たちエクセリオンの顔は偽装用マスクであり、視覚情報を受け取る側も例えば黄金比を美しいと思う、などの感覚質は持たない。所詮は、人工皮膚の凹凸としか認識されないはずなのに──。
(”何故彼女は可愛いのか”の研究テーマで論文でも書いたら、画期的なんじゃないかなあ……そしたら俺も、ヴェルカナ先生たちの仲間入りだ)
ヘンリーは考え、思わずニヤリとする。
「ま、いっか。どうせ異常なんて起こらないんだから」
独りごち、「ありがとね」と彼女に言って自分の画面に向き直った。本当はもっと話したかったが、他の職員たちの目もある、私語をしているのが自分たちだけで「サボっている」などと言われたら極まりが悪い。
一応、勤務中だという意識はあった。
とはいえ、周囲の同僚たちも皆同様に暇そうな顔をしている。
(エリア全体の稼働率を考えたら、まあこんなものなのかな。どうせ、夕方にはデータベース管理で忙しくなるんだ。こういう時間もありだろう)
ヘンリーが、そう思った時だった。
突如、その思考を刹那に掻き消すようにスピーカーが作動し、警報を告げるサイレンが鳴り出した。壁際に並んだ回転灯が、赤いランプを点滅させ始める。否応なく不安を煽る音と色に、半ば弛緩していた事務員たちの空気が一瞬で引き締まり、中には慌てたように立ち上がる者も居た。
「何、何何、何なの?」
ジェシカが、PC画面に身を乗り出すようにして狼狽の声を上げた。ヘンリーは彼女を宥めようとしたが、自らも動揺してしまい行動出来ない。
と、その時入口の自動ドアが開いた。
「仕事中失礼! エリア外周の監視カメラ映像を!」
コールブランドと会長が、大股でオペレーティングルームに踏み込んで来た。二人は速足でこちらに近づいてくると、ヘンリーに断りを入れる事もなくデスクトップPCを操作し始める。
「何事ですか、コールブランドさん? 外周の様子なら、輸送用通路の警備員さんたちが見ていますよ。彼らから何か……?」
「その彼らのCPU稼働率が〇パーセントになった。内線のHMEも繋がらん、事によると核を破壊されたのかもしれない」
コールブランドは忙しなくキーを叩く。その様子は、まさに鬼気迫るという言葉に吻合した空気を纏っていた。ジェシカが唖然とする。
「破壊って……!?」
「目撃証言がなければ、こんな強引な事はせん。侵入者が現れたようだ、堂々と輸送用通路から入って、事象通り解釈するならもう職員のエクセリオンを二体破壊した可能性がある。既に施設内部へ入ったかもしれない」
部屋の空気が、一瞬にして凍りついた。
「仙台市内の、連続通り魔事件については知っているね?」
「おい、私は知らないぞ」容喙したのは、マツリハだった。「コールブランド君、何だねその事件というのは?」
「随分前から、エクセリオンを打撃系の凶器で破壊する奴が市内を跋扈しているんです。最初こそ手口に粗雑さが見られ、私闘がエスカレートした末の事故だと警察も判断していました。しかし、やがて核を一撃で潰された個体も見られるようになり、被害者も指定暴力団の幹部から猟友会、市議会議員に軍人と徐々に大物になっていきました」
コールブランドが、かくかくしかじかと説明する。
「ローカルニュースだったから聞かなかったのかな……犯人は?」
「まだ捕まっていません。強かな奴です、破壊された被害者の電脳には、コアが剝き出しになるようプロテクトを解除された痕跡もあったとか。高度なハッキング技術を有していると推測されます」
「それが、今回の侵入者かもしれないと言うのかね?」
「事件現場は疎らではありますが、次第に当エリアに近づいているという見方もありました。輸送用通路の警備員たちが死亡──コアを破壊されていたというのなら、恐らくは」
コールブランドの推測に、オペレーターたちはおろおろと互いに顔を見合わせ始める。それは、ヘンリーとジェシカも同様だった。
存在理由へのハッキングは、文字通りエクセリオンの生命線に関わる事なので、遠隔では途方もなく難しいものとなっている。絶対に不可能とまで言い切る事は出来ないが、エクセリオン社会の基盤を担うエリアに攻撃を加えるとなると、少なくとも同類では有り得ないような気がする。
という事は、犯人はエクセリオンではなく人間なのか。だが、スラムへと排斥された旧人類の生活レベルは今やSociety 1.0(狩猟社会)まで落ち込んでいる。そこまで高度な、存在理由に干渉出来る程の情報通信技術を有した専門家が生存しているとはそれこそ考えにくい。
旧政府関係者や有力なシステムエンジニア、科学者といった者たちは、AR事件の後真っ先に排除され、食われてしまった。
「畜生、やられた!」
ヘンリーが頭を捻っていると、コールブランドが突然机を叩いた。
「カメラは肝腎の輸送用通路付近、十一と十二が止まってやがる。やっぱり犯人の奴が乗っ取りやがったんだな!」
「マズいな……他のカメラはどうかな? 奴が既に施設内に入っているのなら、内部のカメラに映っているはずだろう?」
「只今確かめ──」
会長に促され、ジェシカがキーボードに手を伸ばした瞬間だった。
モニターの画面が、いきなり暗転したのだ。ヘンリーの端末も同じくぷつりと消える。連鎖反応的に周囲の画面が消えていき、冷却ファンの回転音が止まった事で、部屋の電源が落とされたのだと分かる。
やがて、天井の照明までが明滅する事もなく消えた。オペレーターたちの騒めきがまた大きくなったが、
「落ち着いて! 照明だけはすぐ非常用電源に切り替わるはずだ」
マツリハが毅然とした声で叫んだ。会長の悠然とした態度に、皆の狼狽がやや沈静化したタイミングで、照明が弱々しいながらも再び点灯した。
「ここの電気設備もジャックされたようだな」
「エニグマは? 他のエリアシステムは大丈夫なんでしょうか?」
コールブランドは、咳き込むようなジェシカの問いを黙殺すると、HMEを取り出した。音声を吹き込んで文章化するメールモードではなく、電話モードで何処かと連絡を取っていたが、やがて通話口に手で蓋をしながら一同を見回した。
「どうやら、システムダウンはこの棟だけらしい。さすがにこんな短時間でエニグマを掌握し、エリアを一括で乗っ取る事は難しいようだな」
彼は「難しい」と言い、「不可能」とは言い切らなかった。ヘンリーには、それが単なる言葉の綾だとは受け止められなかった。
コールブランドはもう一言二言相手と言葉を交わすと、通話を切り、「会長」と指名した。会長は彼の気迫に、自然に背筋を伸ばす。
「何だい?」
「そう時間は経っていません。侵入者はまだ施設外縁部か、今ここにハッキングを掛けてきた事を鑑みると近くてもこの棟のコントロールルーム付近をうろついている事でしょう。エクセリオンの核に干渉した事から、恐らく敵のハッキング手段は信号を用いた遠隔通信。その強度、有効範囲は定かではありませんが、少なくともシステム掌握の為に敷地の内側まで入り込む必要はあったのです。ここは、一つ私が行って参りましょう」
「君が?」会長の、運動選手のようなマスクの瞼がすっと細められる。「犯人を無力化出来るのかい?」
「人頭狩りなら、当エリア配属前に何度か行った事があります」
「分かった、君に任せよう。こちらの復旧に要する時間は?」
「エンジニアによると、再起動を掛けるだけなので長くても二十分だと」
よし、と会長は肯いた。ヘンリーたち職員を、ぐるりと見回す。
「通信環境が回復し次第、我々でコールブランド君に指示を与えよう。皆狼狽えるなよ、侵入者の出現は一応イレギュラーではあるが、想定外だった訳ではない。あくまでシミュレーションに則り、騒ぎは最低限に抑えよう。商品の安全が最優先だ、教員たちに連絡を急げ!」
頼るべきグループ代表の泰然自若な態度に、混乱していた皆の気持ちが少しずつ凪いでくる。ヘンリーも冷静さを取り戻し、「ジェシカ」と彼女に声を掛けるゆとりも出来た。「心配……だよね」
「ええ……先輩、これって、大事件になりますかね?」
ジェシカが、まだ不安を色濃く浮かべた表情でこちらを見上げてくる。その助けを乞う小鹿のような眼差しに、ヘンリーは彼女の肩を抱き締めて守ってあげたいという衝動に駆られた。
「……なると思う」自制し、せめてもの言葉を紡ぐ。「エリアを潰すつもりなら、俺たちエクセリオンは全員狙われているだろうしね。でも大丈夫、会長は居るし……それに俺も居るから」
「先輩──」
ジェシカは尚も何かを言いかけたが、すぐに「はい」と凛々しく肯いた。
正体不明の殺機犯。それがエリア内に侵入しただけでも、既に大事件と呼ばれるものは始まっているだろう。
だがせめて、彼女の事は自分の手で守り抜きたい。
何故そんな事を思ったのかは、ヘンリー自身にもよく分からなかった。