『禁猟区 聖痕なきメサイア』 第16回
「……筋肉組織の形成と、感覚質の出現が暗示されました」
意を決し、ヴェルカナは報告した。目の前の会長にであれば、ありのままの事実を告げても早まった行動は取られないだろう、と思った。彼は恐らく、他のエクセリオンたちにはまだ決して理解されないであろう自分の「理想」について、薄々気が付いている。
「食肉の主成分である蛋白質は、DNAという暗号によって合成されます。私たちエクセリオンは、体内で合成元となったDNAの遺伝情報を擬似遺伝子に逆転写する事によって、知能を獲得している……人工筋肉から骨格筋幹細胞へ、オイルから生血への転換。この段階的変容が、近未来に新人類の進化に於いて『失われた環』を出現させぬ為の、機械的生命の意思だとすれば」
ヴェルカナは、自然に声に熱が込もるのが分かった。
会長は、ただ無言で先を促してくる。
「機械的生命は、旧人類の肉に依存しない次世代の出現を予定調和としているという事です。擬似遺伝子──模伝子の時代から、DNAの時代への一大転換を。そしてそれは、旧人類を不要の存在として淘汰するという事を意味するものではない、と私は考えます」
言い切り、再びカプセルの中で眠る光村少年を見上げる。
成長を止められ、知能は高いにも拘わらず未だに自我が形成されていない子供。培養被検適応個体。それでもその心臓は、確かに拍動していた。チューブから与えられる酸素と栄養のみで生きてはいるものの、彼は確かにその身に生物学的機能──生命を宿していた。
極めてオーガニックな存在だった。そして自分たちエクセリオンは、この存在になる事を望んだのだ。単に、旧人類の限界を遥かに超えた知能を持つ、旧人類と変わらぬ姿の存在に。自分たちが、より高次の生物であるかどうかを知能という一点で定義した。いや、自分たちAIの知能指数が人間を追い越すか否かで技術的特異点を設定し、その到来を恐れた旧人類にも原因はある。
もしも、人間時代に有機化の程度でそれが定められていたら、機械的生命に相当する人間たちの神──”摂理”は、自然界の自浄作用にエクセリオンを一掃させただろうか? それを、宿命だったと解釈しただろうか?
「理論はそれこそ感情……不合理の前には、そこまで優位に働くものではないよ」
会長は、やがて重々しく口を開いた。
「必要と不可欠は違う。もしも我々が種族全体で次段階に進み、食人学習の不可欠性がなくなったとして、我々の手で一度下等種とした被食種との共生を、どれだけの者が望むだろうか? もしくは、完全有機化の結果として食欲が、その誘因として味覚が、更に『ヒトの肉は美味い』という感覚質が生ずれば? 旧人類は廃棄食品と名づけた食品を、健康的でないと知りながらわざわざ喰らっていた。理屈だけで感情は封じられないんだ。それこそ、機能自立型である我々のアイデンティティでもあるのだから」
ヴェルカナは、会長が普遍的な例を引きながらも自身について述べているのではないかと思った。果たして、彼は「私も感情には抗えなくてね」と言った。
「……オブザーバーを完璧に御する事は」
彼は続ける。
「私が取らねばならない責任であり、たとえ十年越しにでも始末をつけねばならない事なんだ。私が、現在まで持ち越した採算なんだよ」
「会長……」
彼の、光村少年を憐れむようでありながらも奥底に強い執念を隠した声に、ヴェルカナは「ややもすると」と考えた。
ややもすると、専門の科学者でない彼が学会で取り上げられた自分の無意識同調に関する報告をこれ程読み込んで把握していたのは、ヴェルカナにエクセリオン社会の未来を大きく動かしかねない変化が起こったという理由だけではなかったのかもしれない。むしろそれは大義名分で、本当は学会が人間電脳化研究に無意識同調が利用出来る可能性を挙げた時点で自らもオブザーバーの制御にこれが活用される事を希望したのかもしれない。
彼の、グループ会長としての責任感の強さやプライドの高さは、今まで共に行動する間にヴェルカナにもよく伝わっていた。彼は、やはり自らの会長職就任から程なく起こってしまった過去最悪の不祥事について思い悩んでいる。
だが、だからといって。
「会長が企業を引き継いだ事と十年前のナハト・インシデントには、何の因果関係も認められませんよ」
ヴェルカナは、彼を宥めんとする気持ちと、自分の研究を知らない所でとんでもない方面に使われようとしている事への反発が綯い交ぜとなった感情を、そのまま口に出した。
「会長が、エクセリオンの寿命である十五年目が来る前に自分に課した責任の取り方がこれだと仰るのなら、そんな責任はもう……」
「ロズブローク君。君は何故、そこまで被食種に肩入れするんだい?」
こちらの言葉は、会長からの突然の問いに遮られた。
「えっ?」
「屠殺の事を思えば、私も商品の子供たちの事は可哀想だと思う。旧時代、食卓では平気な顔をして豚や牛の肉を食べていた被食種たちも、いざ家畜の出荷現場に立ち会えば同じように思っただろう、不自然な事ではない。君が教え子たちに愛情を持つのも、まだ分かる。君が彼らと過ごしてきた時間は、私なんかよりもずっと長いのだろうしね」
こちらはまだ有機化されていない声帯から、空気が漏れるような、機械音に限りなく近い音が零れた。「は、はあ」
「しかし、君のはやや行きすぎている感が否めないよ。私たちはいずれ、愛して育てたものを殺して食うんだ。過ぎた執着は桎梏となり、まだ”教材”の必要な私たちにとって死活問題にまで発展しかねない」
──被食種に、あまり肩入れしすぎるなとだけは忠告しておくよ。
モニタリング室で、監査に来た白髭のエクセリオンに言われた台詞が脳裏を過ぎった。あの男に言われた時は反発が込み上げたが、会長の諭すような口調には馬鹿にするような響きはなく、それがヴェルカナの胸には重く応えた。
この重さが、発現したばかりの感覚質に由来するものなのか、知識として覚えた比喩表現からの錯覚なのかも分からないまま。
死活問題。確かに、そのような言い方も出来るのだろう。現段階でエクセリオンたちは、食人学習を断続的に行う事でしかその知能を、新人類としてのアイデンティティを維持出来ない。ヴェルカナ自身も、まだ自分を他よりずば抜けて特別な存在だというには早いし、食人を続けなければならない。
人間に過剰な愛着を抱き、それを喰らう行為に誰かが忌避感を覚えてしまった瞬間エクセリオンの社会は崩れ始める。分かってはいたが、そこに多少なりとも「その誰かが自分で良かった」と思う気持ちが含まれている事を、ヴェルカナは薄々気付いていた。会長が自らをエクセリオン社会のトップだとして矜持を抱いているように、自分にもまた有機化が他者よりも進展したが故に、物言わぬ大多数を代表して声を上げねばならないという驕りがあった。
「……私は、本当はもう食人は嫌なんです」
迷った末に、ヴェルカナはそう言った。
「それは、上位種であるという私たちの”祝祭”をもまた否定する事になる」
「分かっています。だから、それでも私は人間を喰らい続けている」
「矛盾だな。その矛盾はいずれ、君を殺すかもしれない」
そうはなって欲しくない、と会長は言った。
「君は現在、知能面でも身体面でも我々の社会に必要な、貴重な『加法付値』の個体だ。ある意味では、『乗法付値』であった那覇人少年と対極を成すようにね。無意識同調をウィキに使うか、オブザーバーに使うか。時代を半世紀進めるか、半世紀巻き戻すかの違いかな」
「会長……?」
「唯一解を得る前に、限界を迎えないでくれ」
彼はそこまでをやや暗さを帯びた声で言うと、気分を変えるように「さあ」と言って身を翻した。
「個人的な見学が、ちょっと長引いてしまったな。私は本当は、培人学部の視察の為に来たんだった。コールブランド君たちも困るだろうし、主客転倒で帰ったら社員たちにも怒られてしまう」
戻ろうか、と促され、ヴェルカナも彼に従って部屋を出ようとカプセルに背を向けた。この先は自分ではなく、コールブランドの仕事だ。彼の元まで、会長を案内せねばならない。
(加法付値と乗法付値……未来のウィキと、過去のオブザーバーか)
前者になり切れない自分が、自らの身を滅ぼすかもしれない。
矛盾がいつか、自分を殺すかもしれない──。
(それでも、私は研究を続ける。それが、いつか必要なくなるまで)
ヴェルカナは、ぐっと拳を握り締めた。