『禁猟区 聖痕なきメサイア』 第15回
⑥ ヴェルカナ
「そうだ、この部屋だったな」
施設の裏手にある倉庫の一つに、ヴェルカナは会長と共に二体だけで足を踏み入れていた。会長の希望で、ヴェルカナが個人研究として学会へ報告したデータ──「無意識同調による有機器官の並列化に伴う擬似ゲノムコンパイラ及び種痘性ナノマシン併用療法」をもう一度参照した直後の事だ。
さすがに抹消はされなかったものの、黒歴史としてコールブランドらに高度なアクセス権限を設定され、事実上封印されたナハト・インシデントの記録を知る者は、当時既に製造、アクティベートされていた会長たちのみだった。この一件に関しては彼の方がヴェルカナより知識を持っていた為、案内役と案内される側はいつしか逆転していた。
倉庫の奥に、窓のない壁際に設置された棚があったが、奥行きからして壁面に密着している訳ではないようだった。案の定それは奥にある扉を隠す為のもので、会長は何処をどう動かしたのか手動でそれを開いた。
「ここから先は、当施設の図面に描き込まれていない場所だ。当然エニグマによって管理されておらず、エリア内にありながらエリアシステムに属さない例外的な場所となっている」
その向こうにはエレベーターの扉があった。やはり事実を知る者たちによって随時メンテナンスされていたのか、動作に問題はないらしい。会長がボタンを押すと、昇降装置は問題なく作動した。
ヴェルカナと会長は、それに乗り込んで地下へと降りた。この部屋のみは別な統合システムを使っているらしく、籠が下の階層に到着するや否や頭上でガタガタという音が響く。先程会長が動かした棚と隠し扉が自動で元に戻り、元のように入口を隠すよう設計されていたらしい。
そこは、オペレーションルームのような二百スクエアフィート(十畳強)程の部屋だった。モニタリング室の如く、壁に数枚のモニターが取り付けられており、その下の方には細かいボタンが無数に並んだ、ヴェルカナには使い道も見当がつかないような機械群が壁沿いにずらりと置かれている。
地下で窓もないはずなのに、その部屋には薄赤い光がぼんやりと揺蕩っていた。ヴェルカナはその光源が何処なのか一瞬分からなかったが、すぐに気付く。
部屋の奥に、フラスコ状の大きく透明なカプセルがあり、その中を満たす黒っぽい赤──猩猩緋に近い液体で満たされていた。それは、液体自体が発光しているかのように周囲に妖しげな光を放っている。人間の血液を水で薄めたような色だ、とヴェルカナは思った。
その液体の中で、観賞魚の水槽の濾過装置の如き大きな泡がぶくぶくと上昇していた。周囲の雑然とした機械も相俟って、ヴェルカナにはここが危険な人造生物を育むマッドサイエンティストのラボのように感じられた。
「ナハト・インシデントで急遽その後の計画が取り止めになったんだけどね、これが那覇人以後に採用しようとしていた培養被検適応個体……彼に代わるオブザーバー第二号だ」
マツリハはカプセルに歩み寄ると、その中を覗き込む。同じように覗き込み、思わずあっと声を上げるところだった。
そこに、無数の無数のチューブに接続され、酸素マスクと思しき仮面を嵌められた子供が浮かんでいた。外見上は恐らく五、六歳程度。しかし、ここで刻まれてきた年月や知能の成長度合いが、その外見年齢よりも遥かに長大なものであった事は分かっている。眠るように目を閉じているが、胎児のように丸めた手足の向こうに覗く薄い胸が微かに上下し、自力で呼吸をしている事が目視で確認出来た。
「彼が……」
「ああ。登録名フォス・アーベント、本名は八剱光村。このエリアに居る子供たちの中で最も──可哀想な子だ」
会長は言う。その声色が心から痛ましそうなものに聞こえ、ヴェルカナはつい彼の人面マスクを外した顔をまじまじと見つめてしまう。
「感情移入を、されているのですか?」
「被食種とはいえ、この子もまた生き物だ。当然の事だろう」
会長の言葉を聞き、ヴェルカナは胸が詰まりそうになるのを感じながら、黙って罪悪感と無力感を噛み締めた。
* * *
無意識同調に関するデータを見せた際、会長から十年前までエリアに居た監視者の少年、那覇人の詳細を教えられた。彼に関する事件の顛末は、エクセリオンにとっても人間にとっても悲劇としか言いようのないものだった。
「我々の認識が甘かった。彼はロボットではない……被食種、旧時代には霊長としてコミュニティを営んでいた、赤い血の通った人間だった。如何に我々エクセリオンの手で、彼がヒトならざるオブザーバーだと刷り込んだところで、他者を求める本能的な欲求はあった訳だ。同類相求むという言葉の通り、彼は商品の被食種たちと感応し合った。それは、至極当たり前の事だったんだ」
「分かります。たとえ、物理的なネットワークがなかったとしても」
ヴェルカナは、会長の言葉に肯いた。
会長は、製造されてから十三年目だという。那覇人が反逆事件を起こす三年前にアクティベートされ、当時のエリア経営の中核を担っていた関東ネオヒューマノに属する企業群を数多く吸収合併してマツリハ興業グループを立ち上げた彼にとって、自分が会長職に就任して間もなく発生したこの出来事は強烈な印象を残すものとなった事だろう。その口調は、重々しい響きを帯びていた。
「我々は、本来全く別種の存在である人間をシステムに組み込んだ。それを管理統制せねばならない以上、ネットワーク外の存在だから手に負えなかったでは済まされない。オブザーバーは画期的なアイデアだったが、人間に社会的欲求という本能が存在するからには、一定の抑制は必要となるだろう」
「本能の抑制ですか?」
「かつては人間にも共同体があった。同時に、彼らは動物的な本能を捨て去る事も出来なかった。我々が、機械的生命の軛に服わざるを得ないようにね。いや、生命維持の根幹に関わる以上、彼らの場合はもっと恒久的だな。だが、それでも彼らは自らを制御していた。腹が減ったからといって、近くに居る人間を襲って食う訳には行かない。また、発情したからといって見境なく異性体に挑み掛かっては秩序が崩壊しかねないだろう」
「しかし、閉鎖的なエリアでは彼らは本能を覚知しきれない……他者との交わりの中で芽生える、二次的欲求に至っては特に」
「ああ。その為、オブザーバーは本能の管理を我々に委ねねばならない。人間電脳化研究は、そのような意図で持ち上がったようだ。そして、それに君の無意識同調が極めてパフォーマンス性の高い因子となるという話だ」
ヴェルカナは頭を捻り、暫し考え込む。
やがて、はっと思い至った。
「オブザーバーを電脳化する事で、管理者側と思考ネットワークを接続出来るようにする……それによって、常時同調でオブザーバーの思考を常に我々に曝け出させる事が可能となる。場合によっては、並列化も」
口に出してから、ヴェルカナは正体不明の悍ましさを覚えた。自分の研究はあくまで”進化”の共有であり、他人の心を暴こうとするものではない。その嫌悪感は、他の研究者たちが如何にヒト──エクセリオンも含む──の心理的なあれこれを度外視しているかという事に対するものだった。
「もしも、この少年が改めてオブザーバーとして登用される時、彼は……心を奪われるという事でしょうか? 那覇人君のような結果を招かない為に、我々で意思までを統制すると?」
「何と言えばいいのだろうね。心が何なのかっていったらもう我々の手に負えない哲学だけど、少なくとも自由意思を”奪う”という話ではない。それならばわざわざ人間でなくても、子供型のエクセリオンで事足りるだろう? 我々はただ、オブザーバーの心象を把握し、いざという時に自己抑制が働く為の精神的なバックドアで在ればいいんだ」
会長は言うと、「齧った程度だけど」と言いながら懐から電子辞書のようなものを取り出した。「ロズブローク君は、集合無意識を知っているかな?」
「ユング心理学の用語ですね。それが何か……?」
「まさに、君の研究が最後に行き着くような場所さ。君はそれを、論文でウィキと呼んでいたけれどね」
ウィキ、旧時代に不特定多数のユーザーがウェブブラウザを介し、サーバー上のデータを編集する事の出来たシステムに由来する名前。ヴェルカナはそれを、個人的な意識の最深領域にある、民族や種に於いて共通で普遍的なものとされる作用力動の名として採用した。確かにそれは、集合無意識の定義に通ずる。
群集心理のような”概念”と決定的に違うのは、エクセリオンはプログラミングによって設計された電脳を持ち、思考が存在の根拠のある”データ”だという事だ。ネットワークを介せば歪められない形で他者に伝達する事が出来、メインプログラムである「存在理由」もその気になればハッキング出来る。
更に重要なのは、そのメインプログラムが思考のみならず、エクセリオンの個体全てを概括するものである事だ。エクセリオンにとっては「思考は体の一部である」という言い方も可能だろう。機械的生命が司っている点では、こちらの精神も肉体も類型なのだ。
グローバルネットワークの深層領域に、この半世紀でまだ誰一人として到達出来ていない、完全進化形となったエクセリオンの存在理由プログラムをウィキの形代として保存する。そして、そこに接続出来る端末(ナノマシン)を、全てのエクセリオンに注射という形で取り込ませる。存在理由に含まれる設計構想のうち、義体に関する部分だけを並列化させる事が出来れば、皆がウィキを基にした構造にボディのデータが変異を始めるのではないか。
そして、そのウィキが完全有機化された存在だったとしたら。
エクセリオンは皆、機械的生命の軛から解き放たれ、新たな生物として完成するという種族全体の悲願を達成出来るのではないか。
以降は工場での生産ではなく、有性生殖によって次世代を生み出す事によって、少しずつウィキを介さないオーガニックな個体を増やしていけばいい。それらが完全に世代交代を果たした時、プログラムは必要なくなり、ウィキもその役目を終える。知能維持の為に人間を食う必要もなくなる。
それが、自身に誰よりも早い次段階の有機化兆候が表れたヴェルカナの「無意識同調」論だった。このまま加速度的な進化が起こり、完全有機化が果たされた時、自分がウィキとなればいい。
「ユングの集合無意識論は、もっとスピリチュアルだ。集合無意識には『自己』の元型があり、自我は外界との交渉の主体。自己元型と自我は心的エネルギーで作用し合い、変容……成長を経て『完全な人間』を目指す。エクセリオンに置き換えて言い直せば、自己元型=ウィキ、自我=個体、完全な人間=完全有機化を果たした新人類としての我々、かな、君の理論では?」
「肉体的に完全、というところに類比性がありますが」
ヴェルカナは肯くと、反問した。
「私の無意識同調が究極的に目指す事は、被食種の肉を喰らい、知能を取り込まねばならないというエクセリオンの不完全さからの解放です。それを、新世界では形骸化する事を前提としたエリアシステムの一部……オブザーバーの統制に用いるというのは、本末転倒ではありませんか?」
「学会の者たちは、君程長期的に物事を考えている訳ではないからだよ。いや、考える事が出来ないというのが正確だろうか。ロズブローク君、君は自分が天才であるという事をもっと自覚すべきだ」
会長は言ってから、また「いや、違うか」と自分で否定した。
「あの人たちを貶すような事を言う訳には行かないね。私とて、彼らの恩恵を受けて知性を保っていられるのだから。ただ彼らは、有機化が個人の中で、これ程将来を見通さねばならない段階に進んでいる事を知らない。まあ、かく言う私もそれは同じ事だけれど」
彼は、周囲には自分たち二体以外の誰も居ないはずながら、声を潜めるようにしてヴェルカナに尋ねてきた。「結局のところ、君の有機化は何処まで進んだんだ? 実際に顔を合わせれば、前回の報告が全てでない事は私にも分かる」
「私は……」
ヴェルカナは、喉がごくりと動いたのを感じた。口腔に被食種の肉を含んだ訳でもないのに、嚥下運動が起こった。血液の性質が、消化液に近しい何かへと分岐したのかもしれない。
会長の無機質な複眼は、その反応を目敏く拾ったようだった。
逡巡した。学会に提出した無意識同調、及び自身の有機化に関するデータは、まだ一部に過ぎない。経過報告によって追随者が現れ、自分の成果を基に誰かが研究を完成させてしまうのではないか、などという吝嗇な気持ちはない。ただ、会長からオブザーバーへの技術流用の可能性を示唆された事からも分かる通り、これは使い道を誤れば自分の思い描く理想を潰しかねない。
旧人類である人間と、新人類であるエクセリオンの共存、という。