『禁猟区 聖痕なきメサイア』 第11回
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その夜、僕は自室にて授業用端末であるNNEC PC - 99 NOTEに麗女翔から預かったSDカードを挿し込み、教えられた通りのパスワード画面に飛んだ。自作したクラックツール──最初に先生に設計が露見した時はたっぷりと油を絞られた──の改良版を用い、その解除に臨んだ。
なるほど、彼には手に負えなかったはずだ。
試行回数が設定されているので、総当たり攻撃は出来ない。その上暗号化アルゴリズムのパターンからして、今まで見た事のない程に複雑なものだった。授業の応用でも教わっていないし、存在自体知らなかった。ややもすると、これは僕の手にも余る代物なのではないか──そう思った時点で、引き返す事を選択していれば今の僕たちはなかった事になる。
深更を回ってようやくシステムへの侵入に成功した僕は、念の為バックドアを設計しつつファイル群を探った。麗女翔からの依頼は果たしたが、相当手間を掛けたしリスクも冒したのだ、少し駄賃を頂戴しても構わないだろう、という考えだった。中央に構築された「エニグマ」なる文字通り謎の巨大システムと、それから枝分かれするように張り巡らされたネットワーク──”悪戯っ子”の性として、これは少々覗いてみたい、と思った。
僕のその判断が吉と出たのか凶と出たのか、”作戦”が未遂の現時点で明確に断言する事は出来ない。但し、その時僕は自分が悪夢を見ているのではないか、と自らを疑い、そうであって欲しい、と心から願い──どうしてもそうではないと悟らざるを得なかった時、恐怖と絶望を味わったのは確かだった。
『禁猟区番号〇四 宮城県仙台市 青葉エリア 被食種培養計画書』
自分が、何にアクセスしたのか分からなかった。
見てはならないものにアクセスしてしまったのかもしれない──そう思った時には既に、僕は最初の文章に目を通してしまっていた。この養護施設での高度な知能向上学習を経て、見開きページの内容を吸収するのに一秒も掛からなくなっていた脳の情報処理能力を、この時ばかりは呪わしく感じた。
(管理育成システムを最新サーバへ完全移行……旧システムの凍結を開始。プロダクトの健康管理に際し……当ゲーム・エリアに於ける全インフラ整備の為、統合概括母体を採用す……?)
文字列の海が、容赦なく視界に押し寄せる。僕は、その怒涛の如き勢いに呑まれないよう、懸命に泳ぎ続けた。
「プロダクト」「ギャザリング」「培養人類学」「国内最高ブランド」「食人学習」「知能成長促進メカニズム」「マツリハ興業」「禁猟区」「出荷予定日」「納入予定日」「グランデ効果」「エニグマ」「フル・オーガナイズ」「新世界連合」「猟友会」「加速度的上昇」「青葉エリア」──。
個々の単語の意味は分かっても、それらが頭の中で有機的に結合しなかった。何故このような羅列が生まれるのだ、と思った。単語が崩れ、それぞれが乖離し、線や記号の奔流となって襲い掛かって来るようだった。
それらを繋ぎ留める楔が、ちらちらと目を掠めた。それは僕の感情が、最も理解を拒んだ一単語だった。
「被食種 - Homo sapiens」
(僕たちが……商品? 収穫肉?)
普通なら、絶対に有り得ない文章だった。僕たちがここで教え込まれた世界の歴史では、絶対に成立するはずのない文法。
現状を把握するまで、数分と要しなかった。
米国が未だに、日本上陸どころか連邦共和国化すらもしていない事。半世紀前に日本の人工知能研究が次世代に進み、機能自立型が完成した事。その社会運営への登用から間もなく、彼らが人類に反旗を翻した事。人間は旧人類として淘汰され、現在の日本を動かしているのがノードである事。鎖国政策が採られ、別種の生き物である彼らに国連が対応出来ない事。
彼らが、旧人類の遺した工学的制約とそれに則った進化の法則を機械的生命として神格化している事。彼らが無機生命体としての軛を解き放たれ、完全有機化を果たすまで”教材”が必要である事。
そして、その”教材”を提供するシステムこそがエリアである事。ここは児童養護学校などではなく、彼らに供される人間──被食種の肉を栽培する為の牧場であったという事。
途端に、一年間に渡って夢の中で僕を苦しめ続ける事となる記憶の、最初のフラッシュバックが起こった。
かつてコンクリートジャングルとも形容された、高層建築物群が植物群落の如く立ち並ぶ旧時代の歓楽街の廃墟で、食糧を求めて歩く僕。突如響き渡る”群れ”の仲間からの警告と、人々の叫喚。廃棄されたビルに身を隠し、人頭狩りのノードたちが過ぎ去るのを待とうとした。
しかし、それは叶わぬ生存の願いだった。磨りガラスに映し出された、複眼の放つ爛々とした光。張り詰めた静寂を引き裂くように、何十、何百という銃弾が撃ち込まれ、血飛沫の色と噎せ返るような蛋白質の焼ける臭いが立ち込める。徐々に体温を失っていく大量の死体の下で、窒息しかけた事。軋み、痺れる体を引っ張るようにしてその山から引き摺り出された後、僕は項に冷たい無針注射器のノズルを突きつけられた。
振り返り、無機質な眼光と目が合った。注射器の銃にも似たその形状が、僕に死刑判決を下すガベルが叩かれた音を幻聴させた。
「うっ……ううううっ……!」
僕は、食道を込み上げてくる嘔気に抗い、意思とは関係なく叫び出そうとする喉を塞ぐべくベッドに突っ伏した。毛布を口の中に押し込み、過熱した呼気を懸命に噛み殺す。頭を振り、はっきりと蘇ったその光景を振り払おうにも、機械越しに見た暮れ泥む空の色は何処までも陰惨に澄んでいた。
それが消えた時、消灯時間を過ぎた部屋の暗がりの中、残酷な事実を連ね立てたPC画面の青白い灯りだけが網膜に帰ってくる。
はっきりとしたフラッシュバックだったにも拘わらず、僕はその記憶だけが全てではないように感じられた。半開きになった扉から、酸鼻極まる宴を行う向こう側の光景が決定的に見えているのに、扉を完全に開ききる事が出来ないでいるような感覚だった。
僕は、思い出す事を深層意識下で拒んでいるのだと思った。
十年間に渡って何も思い出す事がなかったのは、恐ろしい効き目を持った健忘薬の為だけではなかったようだった。そういえば僕もまた、ここに引き取られて間もない頃──麗女翔をきっかけに他の生徒たちと打ち解けられるようになるまでは、杞紗と同様対人恐怖症のきらいがあった。それは、家庭内暴力の被害とそれに伴う小学校での孤立という、ここで植え付けられた偽物の記憶に由来するものではなかった。恐らくノードによる人頭狩りの犠牲となった際、大量の人間の死体で生き埋めにされたトラウマが原因だったのではないか。
「米連からの移民による多文化交流は、日本古来の伝統を損ねる事に繋がりかねないのではないかという懸念もありましたが、少子高齢化に伴う労働人口の減少、介護人材の不足という問題を解決しました。半世紀前、今後の日本社会を支えていく存在は人工知能を搭載したロボットではないかという論調もありましたが、我々人類はそれから何十年もの間、幾度となく技術的特異点の到来を予言され、一部では人間の仕事を奪ってしまうのではないかと恐れられた彼らと、極めて理想的な関係を構築してこられたのです」
人工知能の単元を取り扱う際、僕たちに力説したヴェルカナ先生の姿が蘇った。あれは嘘だったのだ、と僕は確信する。
新実存的高次存在、ノードの開発と登用は、既に済まされている。それどころか彼らは自己に目覚め、既存の人類である僕たちを淘汰し始めている。技術革新によって都市では植物が繫茂するように摩天楼が生育しているが、ヒトの育てた文明は反比例して衰退し、この国ではその形骸だけが残っている。
ここは禁猟区。平和に見えるその実態は、正の方向へと退化した虚構。
僕たち人間は被食種であり、生殺与奪の権は既にこちらの手を離れていたのだ。
* * *
これだけの手掛かりが掴めれば、全てを思い出す為に求められる事は、僕がトラウマと──真実を受け入れる覚悟を決めるだけだった。
二、三日の間、僕は茫然自失として食事も真面に喉を通らなかった。後になって北海道の大穀倉地帯で生産された小麦──遺伝子組み換えにより、栽培効率を極大化した上栄養成分も自在に調整出来る──が原料だと分かったが、僕たちに提供されている食糧もまた知能を向上させる為の人肉なのではないか、などという疑いを抱いてしまい、食欲が減退した。無論、食人学習で知能を伸ばせるのはノードだけなので冷静に考えれば馬鹿げた妄想だが、それ程ナーバスになっていたのだ。
上のシステムをハッキングした翌日、麗女翔からは首尾を尋ねられたが、目にした情報を易々と打ち明けられる訳がなかった。
「いやあ……やっぱり、セキュリティが厳しくってさ。やってはいるけど、もう少しだけ掛かりそうなんだ」
「そっか……いや、俺も厄介事を頼んでいるっていう自覚はあるんだ。違法だから緊張とかストレスも半端じゃないだろうし。頼んでおいて何だけど、あんまりのめり込みすぎないでくれよ? 寝てないだろ、相当疲れているみたいだ」
「ありがとう、レナート」
僕の疲弊を自分からの依頼の為だと思っている彼に、僕は何も言う事が出来なかった。彼を今までごく普通に呼んでいたレナート(Renato)という名で呼んだ時、彼が本当は米国人移民何世かではない事を思い出し、親友だった彼や杞紗とは本当は何という人間なのか──そして、僕もまた何という名前の人間だったのか、知らなければならないと思った。
僕は、まず旧時代から実際の医療現場でも使用されていた催眠療法を、自らに対して試してみる事にした。鏡を用い、自らに暗示を掛けたのだ。鏡に向かって「お前は誰だ?」と毎日問い続けるとゲシュタルト崩壊を起こす、という都市伝説があるようだが、確かに自己暗示というものは存在する。
健忘薬についてまとめられた資料を読んだ結果、僕たちの記憶を消した薬品は毎日食事やサプリメントといった手段で少量ずつ断続的に摂取させられており、それが効果を切らす事なく、また機械による干渉によって改竄された偽りの思い出を補強していたらしい事が分かった。
ならば、些細な引き金さえあれば、意識の表層にある偽りの記憶を取り払って深層意識下に埋没させられた本当の記憶を引っ張り出す事も可能なはずだ。「忘れる」というのは記憶が消えるという事ではなく、アクセスが困難になっているという事だからだ。無意識という概念をどう捉えるべきかは不明だが、そのような原理不明なレベルでの事柄を”抹消”など出来るはずもないのだから。
とはいっても、僕も最初は半信半疑だった。もしも上手く行かないのなら、また与えられるであろう健忘薬を自ら飲んで、一切を思い出さなかった事にしてしまえばいい。そのような逃避願望も、依然として存在した。
だが実際に試した結果、案ずるより産むが易しで、それは誰もが自然に行っている適応機制の如き自己暗示の拡張に過ぎなかった。
取り戻した記憶により、僕は自分の本名を斧田類だと悟った。誕生日は恐らく一月三十日。年明けの誕生日で十七歳になる。青葉エリアに連れて来られる前に住んでいた場所は、歓楽街であった仙台市青葉区国分町の跡地。当エリアの”街”が造られている範囲のすぐ外だ。
両親は一緒に暮らしていたはずだが、僕が人頭狩りに遭った時は食糧集めの為に別行動を取っており、猟友会襲来後の消息は不明。健康で文化的な、人間らしい生活とは決して言えなかったが、AR事件後の世界ではごく当たり前に”群れ”に属し、離れ離れになる事なく一家の絆で団結していた。
思えば、酷い記憶を植え付けられていたものだ。
約十年前、つまり八歳の時、ここで目を覚ましてすぐにヴェルカナ先生と目が合った。彼と助手のベリーから説明を受けた事により、”思い出した”内容では、僕は給食費も滞納する程に困窮した家庭の子だったらしい。窮乏に堪えず、常に家庭内の空気は険悪。両親は子供の僕が見ている前で、互いの人格を否定し合うような言葉の応酬をし、果ては一家心中を仄めかすような事まで口にしていたそうだ。僕はそんな両親に何度もやめてくれと訴え、逆上した彼らにしばしば手を上げられた。覚醒時、実際に僕の体には無数の痣があり、それこそがDVの証拠だと説明されたが、恐らく本当は死体で生き埋めになっていた時かエリアへの輸送中に出来たものだったのだろうと僕は推測している。
そして遂に一昨日、両親がプロパンガスを用いて心中を図り、僕はそれに巻き込まれて意識を失ったものの、昏睡状態のまま奇跡的に生きて近隣住民に発見されたという事だった。両親は助からなかった、と説明された。
「辛かったよね。だけど、もう大丈夫だ。何も、心配しなくていいんだ」
両親はもう死んだ。それをどう受け止めたらいいのか分からないし、この後自分がどうなるのかも分からない。僕は何を理由にすればいいか分からないまま、涙を止め処なく零し続けた。
ヴェルカナ先生の優しい声が、ただ胸に沁みた。
この先自分がどうなるのか見当もつかなかったが、先生が一切の勘定もなく僕の気持ちに寄り添ってくれるのだと思ったら、それだけで安心していいのだという気持ちになった。
それは全て嘘だったと、蘇った本当の記憶は言っていた。
僕は、無理矢理”不幸な子供”にされていたのだ。捏造された過去と、成人してすぐに屠り去られ、ノードたちに食われねばならない宿命を背負った、という二重の意味で。