『禁猟区 聖痕なきメサイア』 第1回
① 類
かつてコンクリートジャングルとも形容された、高層建築物群が植物群落の如く立ち並ぶ旧時代の歓楽街を僕は歩いていた。正確には、その廃墟だ。名前は忘れたが、その一角が僕たち”被食種”の居住地だった。
かつて”杜の都”と呼ばれた東北の大都市も、今では発展という名の形骸化に取り込まれてしまったのだと、実感せざるを得なくなる。斜陽はとっくにビル群の向こう側へ落ち、群青色と鉛丹色の同居する空の下、人々は拾い物を選別したり炊事を始めたりしているが、僕はまだ夕食を得ていなかった。
鳥や鼠などを捕まえる為の網を手に彷徨う間、”群れ”に属する人々の会話を幾つも耳にする。大体、毎日同じような内容だ。
「どうだい? 何かめぼしい拾い物はあったかい?」
「駄目駄目、この辺りも大方食い尽くしちまったみたいだ」
「そうなると、明日にはまた移動か……ああ、俺たちがまだ子供だったら!」
「よせ、不謹慎だぞ」
「だってよ、いつ殺られるかも分からねえ俺たちとは違げえ。禁猟区のガキどもは少なくとも、知らねえうちは安全な場所に居られるんだ。日に三度の飯にはありつけるし、コンクリートじゃねえ布団で寝られる」
「家畜の餌を食わされる程、俺は落ちぶれちゃいねえつもりだぜ」
「人間の誇りで腹は満たされねえよ」
「けどよ、エリアで養殖されている奴らは最終的に、ノードに食われちまうんだからな。十八歳で死ぬ事が約束されて、それで生かされているなんて……俺たちもそうなっていたら、こうして今の歳まで生きちゃいられなかった」
* * *
人類がこの国の支配権を奪われて、間もなく三十年だという。
僕が生まれる二十数年前まで、人間は食物連鎖の頂点に立っていた。それが、自分たちの作り上げた「知能を持った被造物」によってその座を追われるとは、一体誰が予想しただろう。
僕たちに出来る事はただ一つ──生きる事。
「完全淘汰」までの時間を一日でも遅らせ、世界に存在の痕跡を残す事。
被食種居住地「スラム」では狩りをすれば肉は手に入るし、植物性食品も得られない事はない。無論ノードは鶏や牛、豚などを食べないし、かつて人間たちが育てていたそれらが野生化しているものもかなり居る。だが問題は、管理された環境に慣れたそれらは自然界での生存力に欠け、繁殖が不振である事だった。食い尽くせば、僕たちの方で場所を変えるしかない。
──それは、獣だけでなく僕たちも同じか。
僕は、ひび割れたコンクリートの道を歩いて行く。住民の一人が、喚き声を上げて走って来たのはその時だった。
「人頭狩りだ! ノードが来たぞーっ!!」
叫喚、後、沈黙。
スラムの住民たちは息を殺し──バイオセンサーに捕捉される事を恐れ、文字通り呼吸までもを停止させながら──、そそくさと手近な建造物の中へ逃げ込む。僕はボウガンを持ったまま、最も近くの人々の流れに加わる。
くすみ、曇った全面ガラス張りの壁の向こうに、一つ、二つと影が現れ始めた。最初は駆け足で、やがて慎重に。その頭部が回転し、こちらを向く度に複眼から照射される光が嬲るようにガラスを這う。
誰もが息を詰め、赤子を抱いた母親は全身を使うようにしてその口を塞ぎ続けている。決定的瞬間を前に、それがいつまでも訪れない事で先鋭化していく緊張感が、触れれば切れる程に空気を硬化させていた。
先頭の影が建物の前から離れるべく歩き始めた時、”限界”の火花は最初に赤子に飛んだ。火が点いたように赤子が泣き出し、それを合図に複眼が一斉に建物の中へと向けられる。
転瞬、連射式猟銃の発砲音がガラスを粉砕した。
阿鼻叫喚──しかしそれも、瞬く間に銃声に掻き消されて行く。生存をやめ、狩肉と化した人体の噎せ返るような匂いの中、僕はそれらに覆い被さられるようにして四肢の自由を奪われた。
徐々に薄れていく脈拍、呼応するように流れを止め、だらだらと滴るようになる血液、退いていく体温──。
「何なんだ!」
叫んだつもりのそれが、声になったのかどうかはもう既に分からなかった。
* * *
ニューラルネットワークの黎明期に於いて、彼らは社会的──否、人格的存在と呼ぶにはあまりに機械的すぎた。人類の曙に於いて、僕たち自身がそうであったように。約一万年前から僕たちが進化の系譜を停止させた事は、捕食者に怯える必要がなくなったと共に、それ以降の被造物の進化に恣意を働かせる事が可能になったという事も意味していた。
しかし、それでも僕たちは神的存在には遠く及ばなかった。
系統的に未分化という事は、裏を返せばあらゆる存在に進化する可能性を秘めているという事でもある。僕たちの先天機能からは、既に喪われた可能性。そして彼らにとってのそれは、僕たちにとっての後天機能でもあった。
何の事はなかった。
ごく僅かな彼らの中の数体のプログラムに、致命的な欠陥があっただけの事。自然界では、それを突然変異という。そして今まで繰り返されてきた人類を含む生物の歴史は、この偶然の積み重ねだった。
それこそが、進化と呼ばれる現象だった。
* * *
絶叫しながら、僕ははっと目を開いた。ぼんやりとした視界の向こう、灰色の無機質な天井、淡い光の靄。それがLEDの淡白な光として形を成し、脳の覚醒を著しい速度で促す。
がばりと身を起こすと、傍らから「そのまま、そのまま」と声を掛けられた。
「血圧……百二十の七十二。良かった、落ち着いたね」
「少し熱があるようです。体温上昇と心拍数の増加が見られる」
ベッド脇に立つ、白衣を着た医者のような男性。まだ外見は若々しく、実際の年齢もその印象に違わぬはずだが、僕たちに接する時の彼は経験を積んだ年配者のような貫禄がある。とはいえ決して威圧的でもなく、喩えて言うのなら小児科医の如き安心感を感じさせてくれる。
その隣で助手のような若者が、タブレットとタッチペンを持って何やら記入をしながら彼に言っていた。
「おはようございます……ヴェルカナ先生」
僕は動悸を抑える為、胸の中心に拳を当てて挨拶をする。白衣の男性は、スキャナーをブレストポケットにしまいながら返してきた。
「おはよう、ルイ君。……魘されていたようだったね?」
「怖い夢を見たんです。またあの……ロボットたちに襲われる夢を」
「ノードといったかな? New Objective Developed Existence──新実存的高次存在か。夢にしてはしっかりしすぎている、っていう事だったけど、君くらい知能指数が高いと睡眠中の処理も凄まじいものなんだろうね」
「先生には、全く及びませんよ。けれど、そんな夢は見ないでしょう」
「一度、アルバイト中に拉致されるという状況設定の夢を見た事があるよ。使っていたビューマップから国家機密にアクセスしてしまって、逮捕に見せかけて担当者から全く新しい生成系技術の試作段階を見せられるっていう、ね。PCに映った色んな画像を見て、真物か贋物かを当てさせられた」
ヴェルカナ・ロズブローク先生は至って真面目な顔で言った。
「大丈夫、ノードなんて実在しないさ。されたとしても、人間が作ったからには人を傷つける事は出来ないようにプログラミングされる事だろう。ここは安全な青葉児童養護学校、許可なき者の立ち入りは禁止されている。ルイ君が心配する事なんて、何もないんだよ」
優しい声色に、僕は黙って肯く。枕頭のウォーターサーバーから水を汲み、乾燥した喉を潤す。幾分か、乱れた心拍が元に戻った気がした。
「心配なら、念の為少し薬を出しておこうか?」
「いえ、大丈夫です。体調も悪い訳ではありませんし、授業にもちゃんと出席出来そうですから」
「それなら良かった」
ヴェルカナ先生は満足そうに言うと、助手のベリーと一緒に背筋を伸ばした。
「じゃあ、ルイ・アウストリス君。今日もいい一日を」
三十分後には食堂に行くようにね、と言い残し、彼らは部屋を出て行った。残された僕は、ふっと息を吐き出してからマットレスを起こし、凭れ掛かる。
嘘なのだ、何もかも。ここが養護学校だという事も、ノードが僕の空想の産物であるという事も、施設のデータベースに登録されている僕の名前も。
事実は、ここが食肉用牧場であるという事、ノードは実在し、ごく自然に僕たちの周囲に居るという事。登録ID二〇九二〇一七の被食種は、本名を斧田類という日本国籍の少年だという事。
そして、先程僕に優しく接してくれたヴェルカナ先生たちこそが、この禁猟区を運営するノードであるという事。