第七章 腕比べ
鄭成功という人物が当時の長崎に出入りをしていた。明の軍人の父親と日本人の母親の間に生まれ、日本では『福松』と呼ばれている。彼は現在、新興勢力『清』との争いに敗れ、滅びつつある祖国『明』を立て直す事に躍起になっていた。
軍人として『明』の禄を受けた父に劣らず鄭成功にも『明』に対する忠誠は深い。
しかし一旦劣勢に立った『明』と鄭成功にはこれを巻き返す手段がなかった、そこで江戸幕府に救援及び援助を求めた。
成立したばかりの江戸幕府にその力は無い、今は幕府の基盤を固める事が優先事項なのだ。とはいえ隣国は大国である、何もしない訳にもいかない。ただこっそりと『非公式』に援助を行うと言う方針がとられる。
それは『銭を出すから後は勝手に軍備を整えて戦ってくれ』という事だ。そして『くれぐれも幕府が関与した事は公言するな』という側面も併せ持っていた。
そういった背景の中で鄭成功は生まれ故郷の平戸に近い都市『長崎』で、ひそかに兵を募っていたのだ。彼が募る兵に対する要求は高くなる、何しろ大人数を雇う事が出来ない、『せめて少しでも高い能力をもった人物を…』と、思う心理も当然働いてくる。そこで審査をするのが『水月』のご隠居だったのだ。鄭成功の意を汲んだご隠居は銭を使って様々な方法で『猛者』を探す。
その結果、見つけたのが『六』だ、六に頼んだ『肥えた猪を明後日までに』という仕事はご隠居の最終審査に他ならない。
六は見事にその審査、鄭成功の兵としての資格に合格したのだ。
だから福松は六の実力を知りたがった。そんな気持ちと少しばかりの悪戯心も混ざった福松は六にこう尋ねた。
「六さん、あんた本当にこの猪ば火縄で仕留めたとね?」故意に六の火縄術を疑うかのような言葉を告げる。六はその言葉を真に受けるほど軽薄ではない。だがその挑発にあえてのる事で福松の人物を見たいと思った。
「遠当ての出来る人は誰かおりますか?そん(その)人よりは幾分良かでしょう」
「ほう、俺も長崎には多少の知り合いは居る、試してみるね?」
この時点で福松の挑発に六がのり、六の挑発に福松がのるという形になった。その後、あわただしくご隠居が走り回っていたが福松と六はお構いなく出されたご馳走に舌鼓を打って楽しんだ。
一時間ほど経った後、準備が整ったというご隠居に案内されて一行が船着場まで出向くとすでに先客が到着していた。
火縄を持った二人の男、一人は背が高く痩せている、あまり目線を合わせないが威圧するような気をひしひしと放つ男だ。油断すると今にも飛びかかって来そうな雰囲気も漂わせている。もう一人は対照的に小柄だが逞しい身体でにこやかに頭を下げてきた。顔や胸元に刀傷がいくつか見てうかがえる。いかにも歴戦の猛者といったひととなりをしている。ただ目線がどうにもしつこい、到着したばかりの福松と六は一瞥したきりで、七ばかりをねぶるような目つきで追っている。
「じゃあ、今から始める遠当てで一番腕の良かった者ば召抱えるけん、そんつもりでな」
ご隠居がそういうと背の低い男の目が七から離れ、高い男の威圧感がいっそうに増した。
六は六で今の言葉に違和感を感じた、『召抱える』と言う言葉が気になったのだ。
福松という男が六の火縄術を欲しているのはわかった。しかし用心棒や猟師を雇うのに『召抱える』という言葉は使わない。まるで武家が兵を雇用するかのような表現が気になった。まず福松と言う人物の得たいが知れない。腕っ節は強そうだが彼からは武家のような尊大さが微塵も感じられない、むしろご隠居のような商人よりの印象が強い。
そして流暢な長崎弁の中に女性っぽい印象も見え隠れする。
どちらにせよ構わない。今の六にはたくさんの銭が必要なのだ。福松という人物はご隠居の様子から察するにそういった部分では信頼できそうな人物だ。ならその期待に答えなければならないな、と六は思った。
「そこん船に乗るぞ」ご隠居は明かりの灯った屋形船を指差した。
上がりこんでみると畳敷き六帖の座敷、それなりの広い空間がある。その中から、開け放たれた障子を跨いで見る夜の海は大きな水墨画のようだった。
波止場から船が離れるとわずかな間にそこはもう独立し、外部から遮断された空間だ。非日常といった感じでこれも六の気分を高揚させる。
「あそこん船の篝火んとこの的は見えっか?」
ご隠居の指差す先にはこの船と併走する小さな漁船が見える。ご隠居の言うように大きな篝火がありその横に丸太を輪切りにした的があった。今からあの的を撃つ事は明らかである、七が隣にいるということもあり六の意識は途端に『椚の数え衆』のそれに切り替わった。幼い頃何度も繰り返し行った修練の数々が頭をよぎる。この遠当てはその中から『夜撃ち』と『走り撃ち』を合わせ応用するのが良さそうだと判断し胸が高鳴った。
しかし他の二人は六とは違う反応を見せた。
「遠当てはこんがん揺れるとこでするもんじゃなかろう」そう言って苦笑いする背の高い男と「海の上やけん湿気て威力も落ちるばい」あからさまに現状に不平を言う背の低い男。
別に六はそこで口を挟もうとは思わなかった、ただ自分や七の置かれた環境の成果を試したい衝動だけが先走る。身体が勝手に動き出し弾を込め射撃の準備を始めた。七はその作業を食い入るように見つめる。自分の身体に染みこんだ技術と六の作業を照らし合わせその手順の中で自分を取り戻そうとしていた。そんな二人の行動を苦々しく見る撃ち手二人と、それも含めて観察をする福松とご隠居の姿がこの座敷の全貌だった。
「撃てーっ」ご隠居が叫ぶ度に静寂な海上に『たん』という短くも高く大きな音が響く。
その音が何度か続くうちに座敷舟での勝敗は決していた。
最初は三人の撃ち手は皆、的に当てていたのだが距離を離していくうちに脱落者が出てくる。最初に的を外したのが背の高い男だった。
「こいは遠当てじゃなか、他ん人ば探せ」そういうとふてくされたように座敷の隅で酒を呑み始めた。しきりに「そもそも遠当てとは…」とぶつぶつ言っていたがこの座敷内でその言葉に耳を傾けるものはいなかった。
この時点で背の低い男は少しだけ緊張の糸を解いた、瞬間的とは言え極度の緊張を強いる火縄術、それも無理は無い、彼にも均等に撃ち手としての緊張感、そして圧力は掛かっていたからだ。
そんな彼の僅かな弛緩に、ぐいと入り込む存在が現れる七だ。
その場の主である福松の前にしずしずと正座をして控えめに、丁寧にお辞儀をする。
「本日はお呼ばれもろうてありがたかです、つきましては丸山ん作法に基づいて余興ばさせてもらいます。芸の無か田舎娘やけん粗相もありますけど一生懸命やりますけん、ご覧ください」凛とした口上を述べると七は福松の返事も待たず背の高い男に言った。
『七』、先ほどからちらりと耳に届いた会話からその女の名前がそうなのだろうと背の高い男の予測はついていた。
「火縄ば貸してくれん?」この言葉に男は憤りを感じた、綺麗な着物を身に包んだ『六』という男、その豪商のような男がはべらす女がしゃしゃり出てきたのだ。まるで神聖な『遠当て』の舞台を女が汚そうとしているように見える。だが案外にも福松がうなずいた。背の高い男は苦々しく思いながらも雰囲気を察し、ただ「良かよ」とだけ告げた。
その後七のとった行動で座敷内の雰囲気は豹変する。七の行動が異常だったのだ。
煌びやかな着物の裾が割れ白い足をがばと開いたかと思うと、六と同じように胡坐をかいた姿勢で火縄に弾を込め始めた。
六が周りに並べた弾や火薬を時折当たり前のように引ったくり、弾を込める姿に、その場の雰囲気が一変する。女郎屋の娼婦とはいえその姿はかなり目のやり場に困る所業だ。なにしろ海上とはいえ、この場は座敷、開け放たれた一面の障子以外はなんら丸山の宴席の場と変わりはない。そんな座敷内の雰囲気を意ともせず七は黙々とその作業を続ける。
ほんの僅かの間、七のあられもない姿に気後れし、その場のほとんどが眼をそらした間に七は弾の装てんを終わっていた。この時点で背の低い男は気がつくべきだったのだ、七の装てんの手際が常人離れしている事に。
だが彼は目の前にいる自分の立身に水を差す女郎をどうやって笑いものにしてやろうかという思考のみがその行動を支配している。
「ちょっとまぶしかけん、あの火ば消してくれんね」背の低い男はそう言った。その言葉には打算がある。彼は夜目が利き、夜間の射撃には絶対の自信がある。ここで一気に六に差をつけ女共々笑い物にしようと儚い目論見をもっていた。
ただ周囲の反応が予想とは違っていた。福松はただ軽くうなずくだけで他の反応は示さない。六も同じようなものだ、問題は七だった。
子供のように眼を潤ませ、「うんうん」と首を縦に振り男の言葉に賛同している。
男はその時うっすらと七の思い描く顛末がわかった気がした、(きっとこの女は自分が笑い者になる事で座敷を盛り上げようとしているのだな)そんな風に解釈し少し本気になった自分も大人気なかったと思い始めていた。
打ち合わせが終わった後、的を乗せた船の篝火は海に投げ込まれ、途端にその存在は行方がわからなくなる。ご隠居はしきりに眼をそぼめては船の位置を確認しようとするがそれもままならないようで、次第に見当違いの方向に首を回し始めた。
陸の音も届かない海上で大きな音が響く。そして七に仕込まれた火縄術が永い眠りから眼を覚ます。
三人の撃ち手が放つ弾が、的に当たれば火矢を上に、外れれば火矢を横に撃つと決めていた。最初は上にしか飛ばなかった火矢が距離が離れるにつれ横に撃たれ始めた。
外しているのは背の低い男だ、彼が撃つ度に火矢は横に飛んでいく。そうして五度目の横に飛ぶ火矢を見た時点で彼の心は折れる、すでに漁船との距離は昼間でも当てれるかどうかと言うほどに離れている。彼は自分の夜目にはかなりの自信があった、そして火縄術の腕前にも。
今まで彼は暗闇の遠当てで他人に負けた事はない、ただの一度もだ。それだけに信じられない。こんな遊び人のような若造や娼婦がいとも容易く的に当て続けるという事実を…
そんな彼の心境を汲むかのように背の高い男が言った。
「姉さん、まいったばい」もう妙な威圧感は放っていない、彼も心が折れていたのだ。
だがその言葉は七には届かない。七は今、失ったと思っていた自分の存在意義を火縄を撃つ事で取り戻そうとしていた。
漁船はすでに遠くへ離れている。これがたとえ日中であってももう二人の男達には当てる事の出来ない距離だ。
そして距離は更に離れていく。ここからは彼らにとって未知の距離、今まで火縄の腕ひとつで生きてきた彼らを置いてきぼりにしたまま六と七は決して外すことなく的を撃ち続ける。
しかし六と七の宴のような遠当ては余韻を多分に含んだまま終了する。持ち弾が尽きたのだ。厳密に言えば『ドングリ弾』は六の懐にまだ少なからず残っている、しかしこれは里の秘密だ、人前でおいそれと出すものではなかった。
「ふう」という七のため息、その吐息をその場にいた人は永い戦いが集結した結果の、安堵のため息と捉えた。しかしこのため息の本質は違う、子供が与えられた菓子を食べつくした後の『ふう、もう無くなった』というため息と同類のため息だった。
六はまだ七に火縄を撃たせたかった。しかし『ドングリ弾』を出すわけにもいかない、六はただ、だまって気の抜けた七の頭を撫でるだけだった。
この時、座敷の中で一部始終を見続けていた福松がようやく口を開く。「六さん、そいと七さん、その…何て言うとかね…」しかしなんとも歯切れが悪い、まだ話すべき事がまとまっていないのに口を開いたといった様子が見て取れる。それもそのはず、福松が最も欲していた『戦うための力』が目の前に現れたのだ、どんなに暗かろうが、揺れていようが必ず当てる火縄術、これこそが福松に必要な『力』だった。
そしてそれは唐突に二人も現れたのだ、これが興奮せずにおられるものか、福松こと鄭成功には今後始まるであろう大戦に関し考えている事がある。
平戸で生まれ、福建、台湾、江戸、長崎、を航海するうちに福松の身には航海術のみならず指導力や海戦術といった様々な能力、経験が蓄積されていく、その結果福松が考えついた答えが清との海戦だった。
陸戦においての兵力の差と言うものはなかなかに覆す事が出来ない。一人が十人に勝てる方法など皆無に等しい。だが海戦は違う、十人乗りの大きな船も一人乗りの小さな船も一艘は一艘、お互いに長所短所がある。
例えば大きな船はその重さゆえ急に止まる事が出来ない、止まろうと思っても大地に足を踏ん張るような事は出来ない、止まるまでしばらくの間ひっそりとその時を待つしかない。
では一人乗りの船はどうだろう?十人乗りの船に比べるとずいぶんと自由がきく、止まろうと思えばすぐに止まれるし小回りもきき充分に大きな船を翻弄できる。
ならば戦いの場を海上に引きずり出そう、自分の持つ人脈や政治力を駆使すればそれは出来ない事ではない、そう考えていた。
ただ福松の考えだけではその先が続かない。
大きな船を翻弄してもそれは勝利にはならないからだ。どうにかして大きな船を無力化する方法は無いものか?その糸口を福松は近代兵器の火縄銃に求めていたのだ。大きな破壊ではなくて良い、ただ相手からの攻撃は届かず一方的にこちらからだけ攻撃できる手段、それが火縄銃なら出来そうな気がしていた。
八方手を尽くして火縄銃の名手を探し、試してみたが福松の思い描く戦い方には今ひとつ合致しない、少し波が立ち、揺れただけで命中しないのだ。
こんな精度の低い兵器に命を預ける訳には行かない、福松がそう思い火縄銃への希望を断ち切ろうとしている矢先、六と七の登場により解決した。
福松は軽率な事を言わないように言葉を選ぼうとするがそれもままならない、自分で分かるほど興奮している、咄嗟に彼の口から出た言葉は陳腐な言葉でしかなかった。
「六さん、あんた七さんと所帯ば持たんね」何とか六と七をまとめて手に入れたかった福松は思考がまとまらないうちにそう口走っていた。
「俺と七が所帯?」
「ウチと六ちゃんが夫婦?」
福松にとって二人の反応は意外だった、てっきりそういうつもりで話が済んでるものと思い込んでいた。
(しまった言葉を間違えたか?)福松はそうも思ったが、あまりにもきょとんとした二人の様子が何か引っかかる。ここはむしろ攻めてみようと判断し言葉を続けた。
「ああ、所帯は良かぞ。一緒に働いて一緒に飯ば喰うて一緒に寝る、もう誰も邪魔はせん」
しかしまだ二人の表情に変化は無い、いや先ほどより困惑した感じすら加わってきた。
そこでもう一押し何か手はないか?福松はここで肝心な事を思い出した。
「七さんば『花やしき』から引き取る件やけど銭の事は心配せんで良か、俺からのご祝儀たい」
その言葉にに六が食いつく、福松は(やはり銭の事が引っかかっていたのだ)と確信した。
「七と俺が所帯ば持てば七の身請けばしてくれるて言う事ですか?」
(いや、そうじゃないだろう?所帯をもつというのは条件ではないんだが…)福松は自分の思惑と、六の目的が今ひとつかみ合っていないことに戸惑った、しかし結果は結果だ。このまま進めと思い、もう一歩さきへ踏み込んだ。
「ああ、そん通りたい、どんがんするね?」
「もちます、所帯ばもちますけん七ば店から出してください」即答だった。
「ウチからもよろしくお願いします」七もまたそれを望むようだった。
「分かった、ならあんたたちは夫婦そろうて召抱えるぞ、良かな?」
「はい」深々と二人そろってお辞儀をする。
こうして、六は七を自由にしてやる事が出来たし、福松も自分の望んだ『力』を手に入れる事が出来た。
福松はしきりに「好了、好了」と呟きながらその喜びを口にする。
翌日、福松こと鄭成功が仕切る六と七の婚礼は丸山をあげての大婚礼だった。
呑めや、唄えやで賑わう丸山、『でんでらりゅうば』に込められた悲しい現実に火縄ひとつで立ち向かい、無事七を助け出した六。
福松はこの婚礼を通じて六と七の関係にひとつの結論を見出した。
この二人はすでに夫婦などという俗人の関係ではない。その関係は親兄弟の血の繋がりさえ超えた関係だと理解した。
この婚礼以降『でんでらりゅうば』の唄に『希望』という感情が加わりこの唄は女郎屋の客引き唄ではなくなっていく。
そして今現在も子供たちの『わらべうた』として長崎の地に脈々と受け継がれている。
でんでらりゅうば でてくるばってん
でんでられんけん でてこんけん
こんこられんけん こられられんけん
こんこん
鄭成功はその後、打倒『清』のためその生涯を尽くし、その奮戦の数々はたくさんの歴史書から知る事が出来る。
では六や七、その他の椚衆はどうなったのであろうか?
残念ながら日本に伝わる文献の中でその事実を知る事は出来ない。
しかし敵国であった『清』の文献にこう記されている。
『我々は鄭成功と彼の率いる倭銃隊(倭は当時の日本を指している)に大いに苦しめられる』
『鄭成功の水軍は各船の帆に数字が記され指揮高く、統率が取れていた』という言葉から想像を膨らませる他はないだろう。