第六(ろく)章 福松という男
六が猪を捕ってくると約束した日から夜が二回訪れ、しばらくすると三回目の闇が長崎を包もうとする刻限、店じまいを始めようとする『水月』の店先に橇を引きずる六が現れた。橇には絶命した大きな猪が一頭乗っている。
知らせを聞いたご隠居が店の奥からやって来ると開口するなり「太っとかな!」と言った。その言葉を聞いた六はご隠居の依頼を果たせた安堵感から、ふらりとその場に倒れそうになった。それは仕方がない、彼はおとといご隠居と別れてから未だ一食も一睡もしていない。全てはこの刻限までに依頼を果たすという大きな目標があったからだ。だから六の目標は終わっていない。ご隠居から代金を受け取らないうちは倒れこむ訳にはいかないし弱った自分を見せる訳にもいかないのだ。
「どこにこんがん太っとか猪のおったとか?」と老人が問う。
「たまたま山におったけん獲ってきた」六は嘘をついた。この猪を狩るために費やした労力は生半可なものではない。不眠不休の二日間、それに「光るドングリ弾」を二発も使ってしまった、この猪はそれだけの相手だったのだ。
「今から一緒に飯でも喰わんか?」目の前の老人はそんな六に興味を覚えたらしくまるで旧知の友人かのように言葉をかけた。
しかし六は気力、体力共に限界に近い、今はただ少しでも早く目標を達成したいばかりだ。
「まずは銭ばくれんね」礼を欠いたか?六はそう思いながらも単刀直入にそう答えた。
六の心配を何事もなかったかのようにご隠居は笑顔を浮かべ「そうや、そうや、銭ば払わんばいかんな」と無造作に袂から薄く白い紙包みを取り出した。
老人はそれを渡しながら六に尋ねる「何ば喰うか?魚か?肉か?」
六は受け取った包みを開けて三枚の小判を確かめ安堵する。そういう緊張感の解けた時、老人が三度目の問いを意識の隙間に挟んだ。
「なんば喰うとか?」その問いに六は無意識に答えた。
「花やしきに行かんばいけん」つい銭を納めに行く女郎屋の名を口走ってしまった。
「ああ、女ば買いに行くとか?ならそん(その)女も呼ぶけん飯ば喰うぞ」
『飯を喰う』その事にご隠居がやけに固執する。六はその真意をつかみかねたがご隠居の熱意に押し負けてしまい「肉が良か…」と答えた。
それからわずか半刻の間に六が買おうとしている女が誰なのか?どういった女なのか?といった話を根掘り葉掘りたずねられた。疲れ果て思考の定まらない六はその受け答えをする途中、疲労のため上がり框に座り込んだまま意識を失ってしまう。
その後、何やら身体をまさぐられるような気がしたが悪意を感じぬその行為に六は抗う事も出来ず身を任せる他はなかった…
誰かが髪をなぜている。六は遠い昔にこの感覚を味わった事がある、まだ幼い頃に髪をなぜてもらった記憶、あれは母親だったのかな?それとも七のお袋さんだったかな?そんな事を考えながら六は朦朧とした意識を紡いでいく。途端に六の意識が繋がり、体中に駆け巡った。がばと飛び起きるとそこには目を丸くした七がいた。
「何ね?六ちゃんびっくりするやろ!驚ろかさんでくれんね」
「あ、ああ…」
驚いているのは六の方だったが七の存在に反射的に対応してしまった。しかし即座に周りを確認、六帖の畳敷きの部屋、隅のほうに火縄銃とたたまれた古着それ以外は何もない、襖が三方で一方は障子窓、開けるとそこは華やかな丸山を見下ろす部屋、『水月』の二階座敷だった。
思わず言葉が出る「綺麗か…」
それもそのはず俯瞰して眺める丸山の通りはまるで夏場の乱反射する川面のように輝いていた。
今まで何度も丸山に足を運んだ六だったが視点が変わるとこうも印象まで変わるものかと思った。そして七にその事を告げようと向き直った六は大いに困惑する、目の前の七が七ではないのだ。
そこには以前から知っている七ではなく、煌びやかになった七がいた。真っ白な肌に艶のある黒く長いまつげ、その下に顔からこぼれそうな硝子のようにキラキラと光る大きな眼、一糸の乱れもなく纏め上げられた豊かで黒い髪、そして夕日を想わせるような紅い唇。
再び「綺麗か…」という言葉が口からこぼれそうになったのを六は呑み込んだ。それを言う事が七を汚しそうな気がしたからだ、だから六は美しくなった彼女を直視できなかった。しかし七に伝えねばならなかった事を思い出す、『光るドングリ弾』の事だ。
「あん(あの)光る弾な…」
その言葉に七も反応し目つきが変わった。
「どんがんやった?まっすぐ飛んだとね?」
「ああ、まっすぐ飛んだし距離もえらく伸びた、すごか」さて今から二人で『光るドングリ弾』について話をまとめねば、と言う矢先に待ちかねたように襖が「ぱん」と音を立てて開いた。
「おお、眼ん覚めたか六」とにかく上機嫌のご隠居が現れ二人に声をかけた。
老人に名を呼ばれた六は少し気恥ずかしい気がした、長崎に来てこの何年かと言うもの六は七以外に名を呼ばれた事がない、それだけ孤独な生活を送っていたのだ。
その時六は自分の身体に異変を感じた、着ている物が全て上等な着物に変わっていたのだ。
「すまんばってん勝手に着替えさせてもろうたぞ、今から会う人は偉か人やっけん(だから)、あん(あの)格好じゃまずか」驚いている六に老人はそう答えた。
(誰が誰に会うんだ?たしか飯を喰うという話だったのではなかったか?)
六はこの老人の強引な事の進め方に文句のひとつも言いたくなった。しかし金払いの良い大事な上客だけに文句も言いづらい、どうしたものかと考え込んだが七まで呼ばれてしまっては仕方がない。ご隠居の思惑通りに事が進むのは癪だったが観念する事にした。それに少しばかり眠った事で体力も回復し、飯の相手くらいなら出来るかなと思えるようになっていた。
隣の部屋にはすでに準備が整っており畳敷きの和室に紅く丸い唐の机が置かれていた。
机の上には六が望んだ肉料理が所狭しと並んでいる、ご隠居に進められるまま七と六は席に座った。
ご隠居は六の正面に座り不思議な物を見るように尋ねた。
「六、お前が女ば買いにいくて言うけん『花やしき』の女将に聞いたら女ば買い戻す事やったとか?」
妙な誤解をさせたかな?と六は思ったが無理やり聞き出したのはご隠居のほうだ、別段詫びる事もないとも思い不機嫌な表情を隠さずに「ああ」と答えた。
言葉の少ない六に更に興味を持ったのかご隠居の質問は止まらない。
「そいにしても女ば女郎屋から買い戻すて普通出来んぞ、お前銭の充てはあるとか?」
「あと七両で終わるけん、もうすぐたい」
今回稼いだ三両を収めれば残りは七両、一年ちょっとで返済は終わる、六はそう考えていた。
その時、襖が静かに開き、身なりの良い男が現れる。男は和服を着て髪を後ろで結んでいるので武家ではなさそうだ。しかし雰囲気のどこかに違和感がある、六はこの男の中に唐人の匂いを感じ取た。ご隠居が男に深く頭を下げた事から『客人』と言うのが彼だと言う事が分かったが、果たして何の用かと疑問も過ぎった。
ご隠居は男に六を紹介した。「こん(この)男が六です」六はその言葉に対しご隠居を真似て深く頭を下げる。
彼は名を『福松』と名乗り、今回の猪を所望したのが自分だったことも明かした。
福松と六が自己紹介をし合っていくうちに意味の分からぬ宴席が始まった。