第五章 六(ろく)の覚悟、七(なな)の覚悟
「明後日までにもう一匹、猪が欲しか、捕ってこれっか?」
『水月』のご隠居はぶっきらぼうにそう言った。
銭の必要な六にとっては実にありがたい依頼である、六が「捕ってくる」、そう言おうとした矢先、老人は言葉を続ける。
「大事なお客さんの(が)来るけん、もっと肥えた猪が良か、脂ん(が)のった太っとかとぞ?」
今回の猪よりもっと大きな猪を老人は求めている、確かに六が売った猪は大きくはない。
ただ時期が時期である、紫陽花がまだ咲かぬこの季節、猪が肥えるのは、まだしばらくの時間が必要だ。少なくとも夏を過ぎ、栗や柿が実り始める秋までは肥えた猪を見かけることはない。それゆえにこれはかなり無理な注文だ。
「いくらで買うてくれるとね?」六はこの無理な注文にいくらの値がつくのかたずねた。
「捕ってきたら三両で買うてやっぞ」この老人は物の価値が判って言っている、だから三両なのだ。
今までどんなに大きな獲物を狩ってもそんな高値で売れたことはない。そもそも一両の値をつけてくれたのもこのご隠居が初めてだ、これを逃してはなるまい。六は覚悟を決めて口を動かした。
「良かよ、明後日持って来るけん、確かに三両で買うてくれよ」
「当たり前やろ、他に売んなよ」
六は老人の表情に真剣な意思を感じ取り、これが冷やかしでないことを悟り安心した。
今度は逆に六の眼をのぞきこみ、その可能性を探ろうとする老人に出来る限りの笑顔を向けこう言った。
「好了」これは六と取引をする唐人たちが約束事や交渉が成立したときに必ず使う言葉だ。別に六は唐人の言葉を知ってるわけではない、ついいつもの癖で六はそう口走った、すると老人は驚愕の表情を見せそして満面の笑顔へと変わっていった。
「おんしゃ唐人の言葉が解っとか?良か、良か」
先ほどまでの六を値踏みするかのような雰囲気が霧のように散り、まるで近所の子供と戯れるような表情の老人がそこにはいた。そしてひらひらと手を振ると満足そうに店の奥へと引っ込んでいく。そこにどんな意思や意味があったのか六には解らない、ただいつもの売り買いとは異なる充実感が心に残った。
六はその後、踵を返し早足で次の目的地へと向った。その足取りは迷いの無い力強さが見受けられた。
『花やしき』。七が身を売りながら奉公する女郎屋。六にとってそこは七を幽閉する牢獄のようにしか思えない忌々しい場所だ。
「また銭ん出来たけん支払いに来た、七に無理ばさせよらんやろうな?」
暖簾をくぐるなり六は女将をに向かいそう言った。近くにいた七が飛ぶように割って入る。元気な七を確認した六はわずかに微笑んだ後、女将に一両小判を放り投げた。六にとって、そして七にとって銭とは大切なものであったし銭のために今この二人は苦しみぬいている。そういう銭に対しての欲する気持ちと忌々しい気持ちがこういった態度に表れた、(銭などいくらでも持ってきてやる、くれぐれも七に手荒な真似はするなよ)、と言わんばかりの六の威圧なのだ。しかし以外にも放られた小判に眼を丸くしたのは女将ではなく七だった。
「六ちゃん、あんたこそなんでこんがん無理ばすっと?」
彼女も彼女でいつもよりはるかに多い入金に六の身体を案じている。
「七、俺たちは普通の猟師じゃなかろうもん、こんぐらいどうってこと無かぞ」
七は六の言葉に胸が熱くなった。すでに丸山に身を落として五年もの時が流れている。
里の中でも一番出来損ないだった自分を六はまだ『数え』の一人だと思ってくれている。
『俺たち』と言う表現が七の眼を潤ませた。
「ありがとう、六ちゃん、ありがとう…」七にとって小判以上に六の言葉が嬉しかった。
六はそんな七の様子が見ていられない、今自分を生かしてくれているのは間違いなく七のおかげなのだ。だから一刻も早く七を自由にしてあげたい、ただそれだけなのだ。
「あといくら銭ば持ってきたら終わるとか?」
六がにじり寄ると女将は一冊の帳簿に眼を通しながらそろばんをはじく。
「あと十両、この小判ば十枚持ってきたら七の仕事は仕舞いばい」
女将の言葉は六の期待通りだった、今までは死ぬまで七も自分もこの丸山に捕らえられ続けているような印象しかなかった。しかし今は違う、あの老人との約束がある、うまくやればもう三両を近日中に入金する事が出来る。ここで六の目標がようやく現実的になってきた、出口が見えた事で思わず身体全体にに力が篭る。
ただ七はその事を知らない、彼女の眼にはそういった六の様子がいつもとは違い何か無理をさせているようにも写った。
「六ちゃんウチん事はもう良かけん、無理ばせんで!お願いやけん!」懇願するように七は言った。
しかしその言葉を黙殺するように六は言う「七、早ようここば出て一緒に火縄ば撃つぞ」
話がまるで噛み合っていない、言葉で表現するならばこの一言だろう。だが話が噛み合わないのはお互いが労わりあう優しさゆえの言葉の行き違い。その根幹にある目的意識は全く相違がなく純粋なほど交差し絡み付いている。
目標に手が届きそうになった六は途端に時が惜しくなった。どうしても明後日までに大きな猪を仕留めたいという目の前の目標が彼を急かさせる。
「もうちょっとだけ辛抱しとけ、じゃあ行くけんな」そういって立ち去ろうとする六に対し、七は煌びやかな布で包まれた胸元から小さな麻袋を取り出す。
「六ちゃん、これも使うてくれんね」松ぼっくりがちょうどひとつ入りそうな薄汚れた袋、首から下げる紐がついたそれは椚衆のお守りだ。
『数え』である六と七は幼い頃、これがいかに大切な物なのか里で散々に教えられている。中身は十個のドングリ弾、『数え』の人数と同じ数の弾。切支丹の十字架のような印象があるがこの袋の意味合いはまるで違う、何故か?それは『この十の弾で戦局をひっくり返して生き残れ』という、意思が篭っているのだ。そういう大切な物を七は六に押し付けた、まるで自分の命を六に預けるというような意思表示だ。
「これは受け取れん、七が持っとけ」袋をめぐって二人の問答が続くが埒が明かない。そんなやり取りの中、何気なく袋の中を確認した六は驚く、ドングリ弾が光っていたのだ。
椚衆の間でおぼろげながら解りかけている事がある。それはドングリ弾の更なる進化だ。空気抵抗という概念が存在しないこの時代だが、椚衆はなんとなくドングリ弾を磨きこみ表面の小さな凹凸を極限まで減らせば、もしかしたら飛距離が増すかもしれないという予感を持っていた。ただそれには相応の労力がいる。わずかな飛距離を伸ばすためにドングリ弾を磨くのは、あまりわりが良くない事も理解している。だから誰もやらなかった。だが七はたった一人でそれをやっていた。六の手のひらには丹念に磨きこまれ、まるで鏡かと見間違うほど光輝くドングリ弾がある。このドングリ弾を磨きこむのに七が費やした労力は想像すら出来ない、おそらく普段から指の間で撫で回し少しづつ少しづつ表面を磨きこんだのだろう。
光るドングリ弾は六の心に大きく響いた。そして六に(この光るドングリ弾を撃ってみたい)という衝動を与えた。ただその一言が口から出ない、この『光るドングリ弾』を使う事は七の人生を自分が骨までしゃぶりつくすような行為に思えたからだ。
七は自分を救うため、すでに地獄の責め苦のような日常を送っている。そんな七から『光るドングリ弾』を取り上げる事はこれ以上ない罪悪感が伴っていた。するとその様子を感じ取った七が言った。
「二人で里に帰るとやろ?」
その言葉は六にとって大きな免罪符、そして爆発への引き金となった。
「ああ」そう言うと六は手の平の『光るドングリ弾』をざらりと袋に流し込み女将に向き直って口を開いた。
「明後日三両持ってくるけん、七に無理ばさせんなよ」
何かを決意した表情に対し女将はたじろきながらも、「わかっとるよ」とだけ答えた。