第二章 椚(くぬぎ)衆(しゅう)
六は丸山に売られた家族を買い戻すために長崎で猟師をやっている。売られた家族、名は七といい六のひとつ年下の妹のような存在であった。
家族といいながら実の妹ではない、そこを知るために六とその家族について触れてみる。
長崎から北に三日ほど歩いた先、平戸のはずれにある十数戸ほどの小さな集落で体を寄せ合うように助け合って暮らす人々がいた。
五十年ほど前、貧しさに耐えかね、『関が原の戦』に参戦するも散々な目に会い、命からがら帰ってきたこの集落の男衆は、ある事を誓い合った。それは『立身出世』。一人で出世は難しいが皆で力を合わせればきっと叶うはず、そしてこのうちの誰かがその機会に恵まれたときは他はその手助けをする、そういう簡素な誓いだ。ちょうどこの集落に椚の木が多かったため彼らは椚姓を名乗のり、近代兵器である火縄をもってその生業とする事にした。結果として椚という名前が大きな役割を果たす事になるとはこの時点で誰も予想をしていなかった。
その三十七年後、『島原の乱』でも彼らは出世をすることは叶わなかった。そもそも『島原の乱』で名を上げた者が極端に少ない。すでに戦いは個人から集団へと移り変わっていたのだ。ただ、この戦いで大きな収穫もあった。それこそが六の猟師としての技量の秘訣でもある。椚の身内(以後この集団を椚衆と呼ぶ)が『ドングリ』と名付けた銃弾。これは父の代、『島原の乱』で発明したものだ。
徹底的な篭城を貫く島原の農民に対し、幕府側は兵糧攻めという手段を選んだ。やることのない兵達は暇を持て余し自分の武勇伝を語り始める。自然と各々が語る武勇伝を真偽か疑う者も出てはくる。そこで始まったのが『腕比べ』、誰の技量が一番なのか兵達は決めたがった。
剣術、槍術等、それぞれの技術を比べる『腕比べ』、火縄術においては遠距離の的に弾を当てる『遠当て』がその腕の見せ所となった。この時、椚衆は六の父を含む三人が参戦していた。
そんな折、偶然が重なる。
『遠当て』の参加者が多いため、審査が難航し始めたのだ。的に当たる弾が増えるにつれ、めり込んだ弾が誰の弾か判らなくなってきた。そこで各自、撃った弾が判断できるように工夫するようにとの取り決めが出来る。
ある者は弾に傷をつけたり名を彫ったりして少しでも自分の武勇に箔をつけようとする。三人は手持ちのコロコロとした鉛の中から手ごろな大きさの物をつまみ、荒いヤスリでがりがりと削り『ドングリ』のような形の弾を急ごしらえで作った。
椚衆の地元にはたくさんの椚が自生しており、椚から成る『ドングリ』は彼らの常食でもあり象徴でもある。こういう咄嗟の場合、当たり前のように『ドングリ』を象った造形をしてしまうほど彼らは椚に密着して生きていた。
その結果、『ドングリ』のような形の弾は『腕比べ』で常識を逸した成績を残したが、椚衆は『ドングリ弾』を秘密にしたいため、わざと強がったり、見え透いた法螺を吹いたりして軽薄な態度を貫き、その成績が偶然であるように演じた。
このころの意識として火縄の弾は球体に近ければ近いほど良いとされており、こういった不安定な形状の弾など考えつく者は誰もいない、それが常識だったのだ。
結局彼ら、椚衆が手柄を立てる事は無かった、彼らの所属する火縄隊に威嚇射撃以外の出番が与えられなかったのだ。この戦いの後、急ごしらえで作られた火縄隊は少しばかりの給金を与えられ解散、放逐となる。
あまりにも侘しいこの結果に、ほとんどの者が項垂れながら国元へと帰っていく、しかし椚衆の三人には次の戦への希望が膨らんでおり他の兵達とは様子が違っていた。
余談だが弾丸の形状が、この『ドングリ』に似た形に落ち着くまでには更に百年以上の時間がかかっており、この弾丸が歴史の表舞台に出てくるのはまだずいぶん先の事になる。