第一章 星取(ほしとり)の猟師
これは西暦1650年、江戸時代初期の長崎での物語。当時の長崎は鎖国、そして出島の影響により未曾有の好景気に直面しており、ほどなく江戸、大阪に次ぐ三番目の大都市として成長を遂げる。その大成長の少し前の物語、当時の長崎では『でんでらりゅうば』という唄が大いに流行っていたと言われている。
燕がすいっと男の足元をよぎった。
男は重さでたわんだ背負子を背負い、一歩づつしっかりとした足取りで山を降りている。その男、『椚 六』はやや大柄といった事をのぞけば、さほど目立った身体的特徴は見受けられない、強いて言うならばつむっているのかと思うほどに眼が細い事くらいだろう。
しかしその風貌に違い、肩に担いだ火縄銃がその存在を際立て、六の職業が猟師であることを物語っている。背負子の中には仕留めたばかりであろう小振りな猪が無理やりに押し込まれ、ときおり編んだ竹の隙間からたらりとした鮮血を垂れさせていた。
六はこの猪が幾らの銭になるか、そればかりを思案しながら下山している。彼が根城にしている星取の山から下りるとその麓は長崎の街。さして広くもない平地に侍や唐人、オランダ人といった様々な人種が同居している不思議な街。行き交う人々に統一感は全く感じられず、容姿や文化もちぐはぐだが、この街はその全てを呑み込み新しい文化を醸そうとしていた。
かくいう六も地元の人間ではない。
五年ほど前、この街を彷徨っていた時分、山の百姓から害獣駆除を依頼され、その後もそのまま居ついたような状況である。百姓達は無人になった古い住居と山の頂上に近い不便な土地を六にあてがう事で畑を荒らす猪や狸、鹿を駆除させた。ほとんど無償のような形で黙々と害獣を始末していく六を百姓達はさんざんに便利使いしていた。
最初は懇願するように『畑を荒らす猪を狩って下さい』というような態度だったのに、依頼を全く断らない六に対し、次第に『鹿を狩っておけ』といった横柄な態度に変わっていく。
これは六の自尊心など全く考慮しない、強引な物言いに他ならない。弱者は自分より弱者を探し、その上に立ちたがるのは世の常だ。そして百姓達は依頼した駆除を必ず成し遂げる六という男の実力をかなり低く見ていた。六があまりにもやすやすと依頼をこなし、何の不平も言わないので火縄銃さえあれば駆除など誰でも出来るのだと大きな勘違いをしている。現実は近隣の山々では相変わらず村人が金を出し合って猟師に駆除を依頼していた。そして猟師がその依頼を受ける事はまれである、何しろ百姓からの依頼は割に合わない。まず報酬が安いのだ。そしておよそ一月ほどもかけて丹念に獲物の行動を調べたあげく、打ち損じたりすれば報酬などもらえない大赤字なのだ。では何故、六はそんな依頼を文句も言わずに受けるのか?まるで自分で自分の価値を下げている行動にも見えるが六には六の考えがあった。
それは『銭』、他所では狩った猪にたいした値はつかず、せいぜい身内で牡丹鍋にでもするのが常なのだが長崎では訳が違う。ここ長崎という街にはこの猪の肉を好んで喰らう異人が住んでいる。特に唐人は長崎の中に唐人街と呼ばれる小さな街を造る程、大勢の人間が住んでいた。そしてオランダ人もこのところ出来た『出島』と呼ばれる小島で暮らしている、長崎とはそういう街なのだ。
彼ら異人は表だって武装する事はない。たとえそれが『食』を求めての事であったとしても一応の遠慮をしながら生活をしている。
異人達はそれぞれの居住区でささやかに食用として豚を飼いながらその『食』を繋ぎとめているが、そもそも需要と供給があっていない。自然と六が持ち込む猪には良い値がついた、それを百姓達は知らない。
この星取の山は長崎直近の山なので六としてはその辺りも都合が良かった、なにしろ狩った獲物の輸送は骨が折れる。狩場と売り場は近ければ近いほど良い、六にとって星取の山は大切な収入源なのだ。だから多少の事なら眼をつむるし百姓達の我侭にもつきあっている。急速に変化を遂げていくこの街において、閉鎖的な性格というのは情報、そして利益から縁遠くなってしまう。
山の百姓達はその良い例だろう。彼らの閉鎖的で横暴な態度があるから六は猪が高値で売れる事を言わない。ここにもし、少しでも殊勝な態度があれば六も良心の呵責を感じた事だろう。閉鎖的な彼らは六があまりにも従順なため他の猟師を探そうともせず、外部からの侵入者を拒んだ。結局、農民達はわずかばかりの優越感のために大きな利益を見逃している上、六の狩場を保護している事に気がついていなかった。
さて今日の獲物は唐人に売るか、オランダ人に売るか、六はそれを決めあぐねいていた。ところが、山を降りきって唐人街に向おうとした矢先、身なりの良い老人に声をかけられ、背負子の猪は、たちまちのうちにその老人の手に渡ってしまったのだ。なにしろ老人の言い値は、六が予想していた値のほぼ倍の小判一枚だったのだ。唐人にしろオランダ人にしろ言葉が上手く伝わらない。その上かなり値切ってくるので毎度交渉は難航する。
今日みたいに右から左に流れるように売れたのは初めての事だ。六はこの身なりの良い老人に大いに興味をかきたてられる。
「ご隠居、この猪はどこまで届ければ良かと?」
「人夫に運ばせるけん置いてってくれ」
「良か、良か、俺が運ぶけん次も贔屓にしてくれんね」
六はこの老人を、どこぞの商屋のご隠居だろうと目星をつけた。今後もこんな風に買い取ってくれる可能性があるかもしれない、その素性はぜひとも知っておかなければならない。
老人に案内されるままに大通りを進み、ある坂道にさしかかると六は自分の予想がそう外れてはいなかった事を実感する。
そこは『丸山』、国内最大級の遊郭である、異人や大名、商人、町人、様々な人々を楽しませ利とする長崎のもう一つの顔でもある。
この老人はその一角を占める料亭『水月』のご隠居だった。