接触
最近、もう少しで死ぬかという目に遭ったときに、生きているうちにもっといろんなことをしようと強く思った。
体を鍛えよう、社交に力を入れて友達を作ろう。
今よりもとにかく見識を広げよう。
喉元を過ぎても、その渇望は消えるどころか日増しに強くなる。
焦りのまま、何もかも自分には足りていないと、できるところから手当たり次第手をつけていた。
それもこれも、過度な期待はしないようにしようと思いながら、可能性のひとつとして考えていたからである。
宰相閣下、ガウェイン・ジュール侯爵と共にある未来を。
(…………頭がずきずきする。体が痛い。事故よね。事故だったと思う)
目を瞑ったまま、ジュディは激痛に耐えていた。
どれだけの間意識を失っていたかわからないが、あちこちが痛くて、何がどうなっているのか確認するのがおそろしい。
腕や足の一本でも失っていたらどうしよう?
ぐずぐずとしているうちに、うとうととして浅い眠りを繰り返した。
やがて、ごく近いところにひとの呼気を感じた。
そうと気づいた瞬間、ぞくりと体に悪寒が走りぱちっと目を開く。
かすめた吐息が睫毛を揺らす、その近さ。
「起きましたか」
視界がぶれた。まっすぐ見ようとしているのに、目に映るものが二重に歪んで揺れる。薄暗い部屋。見覚えのない調度品。
世界が歪み、猛烈な吐き気が込み上げてきて、うっ、と呻いてしまう。苦しみに耐えきれず、目を閉ざした。
「無理しないでください。頭を打ったみたいです。医者には診てもらいましたが、いきなり動かない方が良い。落ち着くまで横になっていて」
耳が、一時的におかしくなっているのかもしれない。
その声の主のことはよく知っているはずなのに、どうしても彼と同じとは思えない。ぶれた視界同様に、ずれを感じる。
(どこかの部屋の中だったわ。私の部屋ではないし、屋敷に帰って来ているなら、あの方がベッドに付き添っているわけがない……)
彼と自分の関係性がどうであれ、他に誰もいない部屋に二人きりということは、ありえないように思った。
違和感。
声も状況も。間違いとは言い切れないが、求める答えとは違う。たとえて言うなら、本来ここにあるべきではないものがある収まりの悪さ。
「先生? しゃべることはできますか?」
あくまで穏やかで優しい口ぶりで尋ねられる。
(違う。この方は、宰相閣下ではない)
そこでジュディは、ひそかに確信した。
彼はジュディを「先生」とは呼ばない。最初にお願いした通りに、誰の目があろうとも「ジュディ」と名前で呼ぶ。
ジュディは目を閉ざしたまま、集中しようと数字を数えた。五まで数えてから、ゆっくりと目を開けた。
「少しなら」
「ああ、良かった。本当に心配していたんです」
一度離れたようだが、再び近づいてくる。
裾の長いジャケットやウェストコートを身に着けた体のラインが、彼に似ている。肩に流した枯れ草色の髪も、無骨なフレームの眼鏡も。
全体の雰囲気が似通っているせいで、パッと見は本人と錯覚することもありそうだ。なにしろ、ガウェイン自身が普段は顔立ちがはっきりしないように髪や眼鏡で隠しているのだ。素顔を知る者も少ないだろう。正確なところがわからなければ、違和感があっても具体的な差異を挙げられず、誤認しても仕方ない。
ジュディは、間違わない。
だが、気づいていることを相手に知られないようにと、大仰な溜め息をついてから言った。
「とても、気持ちが悪いの。私は、どれだけ眠っていたのかしら」
ベッドが、重みを受けてぐっど沈んだ。彼が腰掛けたのだ。
全身に緊張が走り、心臓がどきんと鳴ったが、ジュディは息を止めて悲鳴を堪えた。驚いたり、警戒している素振りを見せれば、相手に気づかれてしまうだろう。
(宰相閣下は、ご自身によく似た人物が、王都で暗躍していると踏んでいた。そして、案外と近くにいるのでは、とお考えのようだったわ)
その名はジェラルド。王弟殿下の息子と推測され、少し状況が違えば今頃は王位継承権を持つ若君として、社交界に身をおいていたであろう人物。
「時間はそんなに経っていませんよ。まだ夕方です。ここは私の家です。あなたの家には使いを出して事故の一報を入れていますので、心配しないでください」
口ぶりは親切で優しげだったが、嘘だ、とジュディは直感した。
(事故の起きたときもう、馬車は屋敷の近くまで来ていたはず。あの場所からなら、ジュール侯爵家のタウンハウスよりもリンゼイ家に向かった方が近いわ。……私が気づいていないと思っているのかしら?)
ジュディがこの会話でわかるのは、事故の現場から自分がどこかへ連れ去られたこと。相手は、ガウェインのふりをしていること。
見覚えのない場所で、他に人の気配もなく、自分の所在や現状は屋敷や王宮には伝わっていない可能性が極めて高いこと。
「今日は……、兄が屋敷にいた、はずです。留学先で事業を始め、なかなか帰国しなかったんですが、最近ようやく戻ってきまして……。何か言っていませんでしたか?」
気持ちの悪さは演技ではなく、ジュディはつっかえつっかえ、唾を飲み込みながらなんとか尋ねた。
ジェラルドと思しき人物は「さて」とさっぱりとした返事をしてくる。
「まだリンゼイ家からはどなたもお見えになっていないので、よくわかりません。私が、すぐには動かせない容態なので、連れ帰るのは無理だから預からせて頂く、と伝えたせいです。頃合いを見て、迎えが来るのでは……」
うん、とジュディは心の中で頷く。
(ありえない。兄はそんな生易しい性格ではない。何かあったと聞けば、弾丸よりも早く飛び出してくる。知らせを向かわせたのに、ここに来ていないなんてありえない)
ジュディの兄、アルフォンスはいわゆるシスター・コンプレックスである。それも、かなり重度の。
おそらく、ジュディの結婚がまとまった時期に国にいれば、ヒースコートを独自に調べ上げて「たいしたことのない男だ」と言い切り、断固として反対しただろう。その横槍がなかったから、結婚が成立したと言っても過言ではない。
なお、アルフォンス自身は未婚である。十代で婚約はしていたのだが、留学先から一向に国に戻ってこないので、つい最近相手方からの申し出で解消されている。事実上の婚約破棄で、捨てられてしまったのだ。
本人はあまり気にしている素振りはなく、ジュディの離婚も大歓迎といった様子で、その点に関しては何かと心配な兄である。
その兄が、この一件を知りながら流したというのは、どう考えても不自然だった。
「そうですか……、では私ももう少し休ませて頂きますね」
ひとまずいきなりの対決は避けて、寝ているふりをしながら考えよう。
そう決めて、ジュディは目を閉ざした。
そのとき、ぎしり、とベッドが小さく軋む音を立てた。
「先生……」
低く、甘い囁き声がすぐそばで聞こえる。掛け布から出ていた手に手が重ねられ、指を絡められた。吐息が頬をかすめる。
とても近い。
それは彼に似ているが、決して彼ではない相手。
狙われていると悟り、ぞっとして、ジュディは身をすくませた。