呼び覚まされた記憶
「ひったくりだー!」
その叫び声が聞こえたとき、ジュディは侍女と従者とともに街歩きをしていた。どこから? と思う間もなく、道の前方からひとの間をすり抜けて男が走り込んできた。同行の従者はアリンガム子爵家勤めの初老の男性で、ジュディをかばう仕草をしたものの男の足がそれ以上に速く、がつん、とジュディの肩に肩をぶつけながら走って行く。
すれ違いざま、目が合った。
手に持っていたのは、女性が扱うような買い物かごのようだった。
このひとがひったくり犯だ、とジュディはすぐさま振り返る。
身に着けていたのは散歩用のタフタのドレスで、裾は引きずらない丈に調整していた。足元は編み上げの革のブーツであり、装飾性は無いが丈夫で歩きやすく、走るのも可能だ。
場所は東地区にも近い市場。果物や野菜の店が軒を連ねて、通路ぎりぎりまで台を並べているエリアだった。
「あとでお支払いをします!」
言うなり、ジュディはそばの店の平台に積み重ねられていたりんごを二つ手にして、走り出す。先を行く男の背に向かってひとつ投げつけるが、当たっても止まらない。次は足元めがけて投げつけた。男にとっては絶妙に悪い位置に転がりこみ、踏みつけてバランスを崩す。その勢いが弱まったところで、ジュディは全速力で駆け寄り、背中に体当たりをした。
「ひったくり犯です、協力してください!」
叫ぶと、すぐに飛び出してきた男性が、ジュディに代わって男を地面に押し倒して背中に馬乗りになり、腕をまとめて押さえつける。鮮やかな手際だった。さらに何人かが加わってしっかりと押さえつけ「縄持って来い!」と辺りが騒然となった。
ジュディは男が手から離した、古ぼけた買い物かごを拾い上げる。
「君、怪我は?」
最初に男を押さえつけた男性が、男を組み敷いたままの姿勢で見上げてきた。ジュディは「私は大丈夫です」と素早く答えてから、周囲を見回す。
追いついてきた従者が「奥様は、びっくりするくらい足が速いですね」と息を切らせて言った。さらにその後から、侍女が老婆を伴って歩いてくるのが見えた。
「これで間違いないですか?」
まかり間違えて無関係な相手を取り押さえていたら、と危ぶみつつジュディが声を張り上げて買い物かごを掲げると、まだ距離があったものの老婆はしきりと頷く仕草をした。
背後で男が縛り上げられる間、老婆は「何か御礼を。せめてお名前を」とジュディに取りすがったが「お気になさらないでください」とジュディは固辞した。そして、侍女には支払いがてら青果店で多めにりんごを買いましょう、と素早く指示を出す。
戻ってきた侍女は「おまけをされてしまって」と抱えきれないほどのりんごを持っていたので、ジュディは笑いながら「大変な目に遭ったんですもの、何か良いこともあってほしいですよね」と恐縮する老婆と、周りにまだ留まっていた数人の男性たちに侍女からりんごを配ってもらった。
たまたま、ジュディも自分が手にしたひとつをそばにいた男性に渡した。背の高い青年で、最初に男を取り押さえたひとりだった。
「ありがとう」
そのひとは、すっきりと耳に心地よい低い声で礼を言いつつりんごを受け取り、ジュディを見て口元をほころばせた。金色の瞳が印象的な青年だった。
(閣下だ)
約束のデートの朝、不意にそのときの光景が鮮明に蘇ってきて、ジュディはベッドの中で頭を抱え、寝返りも打てないほど悶え苦しんだ。
気にも留めていなかったし、忘れていた。思い出した記憶は、そうであれば良いなという捏造かもしれない。だが、どうもそれで間違いないという確信めいたものがあって胸騒ぎがする。
――私があなたを知ったとき、あなたは既婚女性で、手の届かない方でした。ですが、いつか機会があれば話してみたいと思っていたんです。いま、こうして二人で話せるのがとても嬉しいです
言葉通りの意味なら、本当に「かなり前」からガウェインはジュディを見ていたのだと、ようやく思い知った。
これまでは、深く考えないようにしていたというのに。
だってそれでは、まるで。
一目惚れをしたと、告げられたかのように解釈できそうだったので。
* * *
「おはようございます」
その日、お出かけの準備をしつつも逃げ出したい気持ちでいっぱいのジュディを迎えに来たのは、爽やかな好青年であるところのステファンだった。玄関先でジュディと顔を合わせるなり、遠慮なく噴き出す。
「うわ。その複雑な表情、わかりすぎて俺も反応に困るなぁ。閣下に会いたい気持ちと、会わなくてほっとしている気持ちで真っ二つになってますよね?」
精一杯に準備をしたプリムローズイエローのドレスを見て、ステファンは目元に笑みを滲ませる。孫娘を見る好々爺のように慈愛に満ち溢れた表情だった。
「あまり見透かさないでください。その通りなんですけど」
前日から髪も肌も磨き上げ、入念に準備を重ねたところで今朝の夢だ。もうどんな顔をして会えば良いのかと浮足立つジュディをよそに、侍女たちは腕によりをかけて仕上げてくれて、鏡を見るのも恐ろしいほど気合入りすぎの状態で馬車を待つことになっていたというのに。
からかう気満々のステファンを前に、残念のような、これで良かったような気持ちでおおいに脱力してしまっていた。
ステファンはといえば、堅苦しくはないものの流行りを押さえて見目の良いスーツ姿で、ジュディを上から下までしげしげと見て言った。
「俺を見てもっとがっかりされていたら『大変残念ながら』と神妙に謝るところですけど、ほっとされると俺としても反応に困りますね。一緒に出かけるのが俺で良かったと思っていいですか? って確認したくなります」
絶妙にひっかかる言い回しであったが、張り詰めていたものがしぼんだ状態のジュディはそれが何かもわからず、軽口で返すことも思い浮かばない。
「いま、閣下と二人になると思うと、変なことを口走りそうで自分で自分が信用できないと言いますか……。気持ちの整理もつけたいですから、お会いするのが先送りになったことには、ほっとしています。ステファンさんとお出かけに関しては……、お出かけするんですか、私」
閣下の伝言を携えてきただけではなく? という意味で尋ねると、ステファンには哀愁に満ちた目で見つめられた。何かお気に召さない返答だったらしい、ということはうっすらわかった。
ステファンはふっと遠くを見る目つきになり、呟いた。
「こんなに近々に日付設定して、どうにかできるつもりだったんですかね。さすがにあのひと焦りすぎでしょう。はい、ということで閣下は昨日監獄塔に出向いたら仕事山積みで帰って来れなくなってまして、ドレスの打ち合わせは代わりに進めておいて欲しいと。本当にあのひとの俺への信頼がいろんな意味で信じられないんですけど、頼まれた以上は遂行する方向で考えております。先生は、俺が相手では不満ですか?」
ガウェイン、やり手の男かたなしにぼろぼろに言われている。
その上、なぜか挑戦的な口調で尋ねられて、ジュディはぼんやりとステファンの彫りが深く麗しい顔を見上げた。
「不満かどうかと聞かれましても、特に言うべきことはないです。閣下がステファンさんにお願いしたということは、ドレスの用意はかなり急ぎでいまを逃さない方が良いという意味ですよね? 出席する夜会もすでにあたりをつけていて、それは仕事絡みの一件なのでしょう。できれば今度は何があるのか事前に教えて頂きたいとは」
「なるほど。じゃあ、閣下ではなく『俺と出かけること』には異議なし、と。同意がとれれば十分です。時間が惜しい」
ぐずぐずと言うジュディに手を差し伸べると、ステファンは非の打ち所のない笑みを浮かべて言った。
「今日一日、先生が楽しめるように俺が心を砕いてご案内致します。行きましょう」