闇に潜む
「ガウェインは?」
ドアに向かおうとしたステファンに、フィリップスが素早く尋ねる。
二度目の銃声。
耳をそばだてるようにしてそれをやり過ごしてから、ステファンが早口に答えた。
「昼間、子爵夫人に声をかけられました。『夜にもう一度お会いしたい』と。閣下には私の代わりに行って頂きました」
「えっ、ユーニスさんですか!?」
それなりに喉が回復していたおかげで、ジュディの素っ頓狂な声はよく響いてしまった。フィリップスとステファンから、同時に視線を向けられる。
「気になるのか?」
フィリップスに確認をされ、ジュディは「もちろんです」と頷いた。
「つまり、ユーニスさんがステファンさんを誘惑したということですよね? あの介抱なさっていたときですか。そ、それを閣下に融通したと」
「融通といわれましても。融通?」
ステファンの表情はひたすら渋く、まなざしは厳冬、声は突き刺す氷柱のように冷ややかであった。完全に「お前は何を言っているんだ」という態度である。
「閣下が閣下としてティーハウスででしゃばらなければ、変装したまま下働きにもぐりこんでこちら側に来て、直接子爵とやりあうことができたでしょう。それがジュール侯爵として出席して注目を集めてしまったため、貴賓室のあるエリアに釘付けにされて、下手な動きができなくなりました。子爵夫人のお誘いがただの誘惑なら、無視でも良かったんですけどね……。せっかく向こうにいらっしゃるんですから、閣下にも何かしら働いて頂きたく」
強い圧を感じた。
(宰相閣下が名乗り出てしまったのは、私を子爵から助けるためで……。いえ、その後だわ。「アイスティーの普及のために、閣下もサクラをさなってください」と私が言った。言いました)
出世の秘訣はアイスティー! と、紳士の皆様に言ったら絶対ウケますよと力説した覚えがある。それがまさか、後々ここで響いてくるとは。
とんでもないことに巻き込んだと気付き、ジュディは押し殺した声で口走った。
「働くって、でも相手は人妻ですよ!? いったいどんな働きを。下手な動きができない状況なのに!?」
はは、と乾いた笑い声が聞こえた。フィリップスである。
一方、ジュディからまったく目をそらすことのなかったステファンは、心まで射抜くような視線を叩き込んでくれながら、ぼそりと言った。
「先生の反応はおかしい。仮にも三年、貴族の奥様をしていたひととは思えない。謎の潔癖さといいますか、その辺は完全に深層のご令嬢じゃないですか。まっさらの」
処女。
いまにも「本当に子作りしていましたか?」ときわどい発言が飛んできそうな空気だった。白い結婚は口外しない、という約束をどの時点まで後生大事に抱えておくべきか。ヒースコートの悪事が明るみに出そうな現時点では、関係性の薄さの根拠として言いたくもなるのだが、あえて他人に言うことではないとも思う。
微妙に、話の方向を変えることにした。
「すみません、私はあまり社交をしていなくて。無知な面があります」
「先生は女友達いないんだな。いなそうだよな。男とばかりつるんでる。女が苦手なのか? 自分も女なのに?」
横からフィリップスに口出しをされて、心が打撲するほど鈍く重いダメージを受けたが、今は触れないことにしようと気を強く持つ。
すでにドアに向かっているステファンの背に、声をひそめて呼びかけた。
「ここで、この二人を見張ってます。気をつけて行ってください」
どこで銃声が聞こえているかわからない以上、下手に出歩かないほうがいいかもしれない。フィリップスは絶対警護の対象であり、ジュディは役立たずである。留守番がせいぜいだ。
「安全の確認が取れるまで動かないでください。どこに敵がいるかわかりません」
打てば響くように答えを返し、ステファンはドアの向こうへと消えて行った。
* * *
縛り上げられた二人が、床に転がっている。一箇所に固めようかと、ジュディは倒れた人影に手を伸ばした。
「やめておけ。仲間同士密談できる距離に置いておくと、起きたときに打ち合わせて襲いかかってくるぞ」
フィリップスにもっともな忠告をされて、おとなしく手を引っ込める。しゃがみこみかけていた膝を伸ばし、念の為自分の考えたことを伝える。
「片付けた方が良いかと思ってしまいまして。あの、暴力を伴わない掃除の意味ですよ。邪魔だな、って」
掃除というと、フィリップスの場合「殺し」くらいの、何か別の意味にとられかねないので、言い訳がましくなった。
そのフィリップスが、不意に視線を鋭いものにして、ドアの方を睨みつける。
次の瞬間に、ジュディの手を取った。「誰か来る」と最小限の音量で告げ、手近な樽の上に置かれていた燭台の火を吹き消す。
そのままジュディの手を引いて、棚の間に二人で辛くもすべりこんだ。
カタン、とひそかな音が響いた。
(身を潜めてきた……。貯蔵庫に、普通に用事があって物を取りにきたひとの動きじゃない。向こうもこちらを、警戒している。格闘したときの派手な物音に気づいて、確認しにきた?)
まだ距離はあるが、ヒースコートと手下の男が棚に突っ込んで倒れているのは、すぐに気づくはずだ。意識を取り戻したヒースコートに「強盗に襲われた」などと嘘を言われたら危ない。相手は屋敷のゲストで子爵である。言い訳をする間もなく、こちらが悪者に仕立て上げられてしまう。
「屋敷のどなたかかもしれません。私が出て行って、説明をしましようか」
体が触れ合うほどそばにいるフィリップスに、ジュディは声をひそめて尋ねる。
即座に、低い声で言い返された。
「何があっても先生は絶対に動くな。いざというときは俺が出る。先生はステファンが戻るまで待て」
「私が」
「捕まった女が無事でいられると思うなよ。まっさらなんだろ?」
言い終えたフィリップスは、反論を許さぬようにジュディの口を大きな手のひらで覆った。無駄口を叩いて気づかれぬわけにはいかないので、ジュディは身じろぎもしないでおとなしく押し黙る。まっさら発言は、気にかかっていたが。
(からかいネタとして定着したらどうしましょう……)
自分の何がその疑いを呼び起こしたのか。ジュディにはよくわかっていなかったが、これまでの行いを猛烈に反省した。ボロを出して白い結婚の秘密がバレて、ひとの噂になってはいけないと、社交も人付き合いも最小限にしてきた。そのせいで、言動に子どもっぽさがあるのかもしれない。ステファンのような男性には、すっかり見抜かれるほどの。
ギシ、と近くで床板が鳴る。
明かりを持たぬまま進んできた相手はそこで、倒れた男のどちらかを踏みつけたらしい。呻き声が上がった後、マッチを擦るような音がして、小さな光が暗がりに滲んだ。
消されたばかりの燭台を見つけたようで、火をそこに移したようだ。ほんの少し、明るさが増す。
(倒れて縛り上げられた男性二人、荒らされた貯蔵庫。屋敷の方が来たなら、強盗を警戒するはずだけど……)
そうなったら、犯人探しが始まる。早めに名乗り出て、そのひとたちこそ悪党ですと言った方が良いのではないか? そう思う一方で、違和感が膨れ上がっていた。
普通の反応なら、倒れている人間を目にした場合、「大丈夫か」「何があった」とすぐに声をかけるのではないだろうか。
その当たり前の反応が、ない。
不気味な沈黙は、何を意味するのか?
ジュディの口を押さえるフィリップスの手に、力が入る。緊張しているのが伝わってくる。フィリップスもまた、異様な空気に気づいているのだ。
無言のまま、闖入者はいったい何を確認しているのか。
カチリ、と固い音が聞こえた。
それがなんの音か。考える間もなく、答えが出る。
ダァン、と空気を震わす爆音。
銃声が轟いた。外すことなどありえないであろう距離で、何かを撃ち抜いた。
(……殺した!?)
一声もかけることなく、会話をすることもなく。
絶対に動くなと言われていたのに、ジュディは足をふらつかせてしまった。かたん、と肩が棚にぶつかる。
ぱっと手を離して、フィリップスが声を張り上げた。
「いまそちらに行く! こちらは一人だ、抵抗はしない。俺のことは撃つな!」
ジュディを奥の暗がりに突き飛ばし、相手の返事も待たずに足音も高く光の方へと進み出る。自らの姿を、相手の前へと晒すために。