パレスの一夜、明けて朝
館内ツアーの後。
夜になって公爵家の「略式の」晩餐に招かれ、絶大な緊張感から生きた心地もしない食事を終えて、割り当てられた部屋に帰りつくと、ジュディは天蓋付きのベッドにうつぶせに倒れ込んだ。
「つ、疲れた……」
着替えもせずに呟き、目を瞑る。
テーブルには次から次へと絢爛豪華な素晴らしい料理が運ばれてきたはずだが、何を食べたのか、味が全然思い出せない。サーモンのソテーが美味だったことだけ、うっすら覚えている。
怒涛の一日だった。
王宮へ仕事に行く日だけに、体調は万全に整えて気力も十分でいたはずなのだ。しかし、朝一でいきなりの「駅へ行ってください」からこの時間まで、気の休まる暇もなく動き続けることになった。さすがに、疲労が濃い。
目裏にこの指令を下したガウェインの面影を描きながら、ジュディはごろんと寝返りを打って仰向けになる。天蓋に描かれた理想郷の絵図をぼんやりと見上げた。
(宰相閣下は、話しぶりは柔らかくて優しいのに、手段を選ばないし強引よね……。やると決めたことは絶対やるタイプ。あの方が、思いつきでこんな無茶な計画を敢行するわけがないし、受け入れ側の公爵閣下も何も知らないわけがないわ。何か、この時期王都から殿下を遠ざけておきたい計画でも……? 殿下がいまのところ大人しくしているのも気になる)
ひだまりの匂いがしそうな、枯れ草色の髪。眼鏡の奥で朴訥そうに笑う瞳。
ガウェイン・ジュールは、見た目通りの優男ではなく、絶対に裏がある人物だと確信できるのに、その言動には信念や誠実さが漂う。協力を乞われれば、ぜひ彼の力になりたいと思ってしまう魅力があるのだ。
もっとも、ジュディはそれを「恋」とは考えていなかった。たとえば行き場がなく途方に暮れていたメイドが、お屋敷に雇い入れられたときに主人に抱く忠誠心のようなものと信じていた。
今回、こんな無茶振りに対応できたのは、ジュディには普段からいつも、旅支度をしている習慣があったからである。
結婚から離婚までの期間、外聞が悪くならない程度に自由に出歩くのを許されていたため、三日分程度の衣類や必要品をあらかじめ鞄に詰めておいて、予定が立てばぱっと旅行に出ることもあったのだ。
そのフットワークの軽さは今も健在。
ガウェインは、ジュディのそういった適性もよく把握していて、使い所を正しく心得ているらしい。
それが、ジュディがガウェインに好感を持っている理由でもある。
(もし私が未婚のご令嬢なら、王子殿下と旅と聞いただけで「私もついにロイヤルファミリーの仲間入り」と全方位覚悟を決めて仰々しい出立になるところだけど……、離婚出戻りの身分ってそのへんが身軽で便利よね)
ジュディは、そういった配慮を必要としていない。少なくとも、本人にそのつもりがなく、周囲にも深読みや詮索をしてほしくないと願っている。
もはや結婚によってそれ以前と以後に分けられる少女時代はとうに終わりを告げていて、ただいま自由なセカンドライフを満喫中なのだ。何が悲しくてここからまた、面倒な男女関係や我が身を切り売りするような婚姻関係に頭を悩ませねばならないのだ、と心の底から思っているのである。
幸いにも、ジュディのその心意気はフィリップスにもステファンにもよく伝わっているようで、男女三人でこれだけの時間を過ごしても、徹頭徹尾清々しいまでに仕事の話題しかなかった。望む所である。
解散前にも、明日の起床時間や、日中のスケジュールの確認だけの会話をして各自の部屋へと向かった。フィリップスとステファンは、ひとまず贅沢な広さの一室で、同室らしい。護衛と監視も兼ねているのだろう。まさかここから脱走はしないと思うが、フィリップスには油断ならないところがある。
安全面では、鉄道で特別車両であったことを除けば、王子殿下の旅行とは思えないほどすべて簡略化されているが、ジュディは特に心配はしていなかった。
宿泊場所は、この国では王宮以外でただひとつ、パレスの名を持つ城。当主の賓客扱いである以上、フィリップスをはじめ、ジュディやステファンにもしものことがあったら、それはラングフォード公爵の体面に関わってくる。
一見気安く振る舞うヘンリーだが、決して見た目通りの「愛想の良いおじさん」ではないと思い知ったジュディとしては、ここは王宮並みに安全な場所であるとすでに確信をしていた。もしかしたら、王宮以上なのかもしれない。
だとすれば、気にかけるべきはフィリップス自身の行動だろう。彼は何をするかわからない。もしかすると、ガウェインは逆に「何かをさせたい」のかもしれない。
結局のところ、ジュディが預かり知らぬとはいえ、ガウェインには何か策略がある。だが彼は、みだりに他人を危険に陥れるひとではないだろう、とジュディは素朴に信じていた。
なにしろ、一度直に助けられたこともあるのだ。あのパブでの一件を思い出すと、ジュディの胸の中はほのかに温かくなり、勇気が湧いてくる。
「さて。明日も予定は盛り沢山、と。近隣の皆様を招いたティーガーデンイベントに、夜間は宿泊客の受け入れ。私たちはその対応で、昨今の貴族のアトラクションとしてのお屋敷経営を学ぶ、と。よし、今日のところは寝ましょう」
わからないことを思い悩んでも仕方ない、疲れを残さないのが大切。
ジュディは勢いよく立ち上がって、寝支度を開始した。
* * *
翌朝。
着替えの手持ちはあるものの、足りないものは現地調達するとして、ジュディは屋敷の家政婦から仕事着のお仕着せを借りて身に着け、ティーガーデンの打ち合わせに臨んでいた。
広大なマクテブルク・パレスの庭園の一角で開催されるティーガーデンは、そのために建てたティーハウスという別館を中心に開催される。
イベントの間は楽団の演奏があり、ダンスパーティーも開催され、暗くなってからは花火まで予定されているという。
家令によると、すでに屋敷から大部分の手勢がそちらに向かい、準備にあたっている、とのこと。フィリップスやステファンと説明を聞いていると、家令はさらに、参加者名簿を広げながら提示してきた。
「こちらが本日のゲストです。殿下のことは殿下と呼ばず、いち使用人のように振る舞って頂くとはうかがっておりますが……。中には殿下のお顔をご存知の方ゲストもいらっしゃるのでは?」
公爵邸を一般向けに解放するとはいえ、いまのところ出入りするのは貴族が中心なのだろう。ジュディも一緒にその名簿を覗き込んだ。
そこに見知った文字列を見かけて、息を止めた。
ヒースコート・アリンガム子爵 ご夫妻
「手伝って頂く以上、皆様にはラングフォード公爵家の使用人として、ゲストの皆様から見て恥ずかしくない振る舞いをして頂く必要があります」
家令の声を遠くに聞きながら、ジュディは言葉もなく手のひらで額をおさえた。
(元夫と、再婚した現奥様!!)
鉢合わせをしたら、どんな顔で挨拶をすれば良いのか。早くも頭痛を覚えているジュディの様子にちらりと目をくれて、家令は謹厳実直そうな態度で念押しをした。
「くれぐれも粗相のないようにお願い致します」