未定
モノローグ
人を愛するということは
どういうことなのだろう。
言葉では言い表せなくて、もどかしいけど
少し若くて、深いことは言えないけど
人を好きになるのは本能的なものなんだ。
一章
サブタイ
蒸し暑い天気が服と肌を密着させる。
雨は降っていないが地面が濡れているから、少し前まで降っていたのだろう。
六月ももう中盤。そろそろ梅雨とやらも終わるだろう。
――ここが明日から通う学校ね
七海光はドイツから一人帰国し、明日から通う事になる私立霞川大学に来ていた。
今は夜十一時四十五分。生徒は見る限り下校していて、電気がついているのは職員室ぐらいだった。静まり返った敷地内を、校舎に向かって歩いて行く。
急に決まった編入だったので、さっき帰国してその足で学校に来たらこんな時間になっていた。
来賓用に置いてあったスリッパを履き、校舎の中へと入る。今日までは多分、来賓だろう。
廊下は電気がついていなくて、外に比べて少し涼しい。ペタペタと自分のスリッパが気味悪く響く。光には霊感のようなものはないが、薄気味悪い夜の学校に身震いをした。少し歩くと、電気が漏れているところを見つけた。
――はぁ。ちょっと安心
教員室を覗くと、ぽつぽつと先生が残っていた。
「失礼します」
ドアをノックして中に入ると、先生方の視線が一気に集まる。
「村田先生はいらっしゃいますか」
入口からすぐ近くの席の、ちょっと華奢な男の人が手を振っている。多分あの人が村田先生。
「来たか来たか。えっと……」
「初めまして、七海光です」
「そうそう、七海さん」
そう言いながら机の引き出しの中をあさっている。整頓できていない机だ。
「よいしょ……これ一式書類だ。一日じゃ無理だろうから、来週くらいに持ってきてくれればいいからな」
「はい、ありがとうございます。お手数お掛けしますが、よろしくお願いします」
「いやに丁寧だなぁ」
物珍しそうに眺める村田先生。
「いえ、日本語が苦手なだけで」
「あぁ、そうか。ドイツの暮らしの方が長いんだったか?」
「はい。ドイツで生まれて、五歳の頃に日本に来たのですが、一年でドイツに帰りました。日本はそれ以来です」
光はドイツ生まれのドイツ育ち。両親は二人とも日本人だから顔は純日本顔だが、考え方や振る舞いからしてドイツ人も同然だろう。
「そうか。何かあったら何でも相談するんだぞ」
得意げに胸を張る。こういう熱血家は苦手だ。
「ありがとうございます」
ぺこっと頭を下げる。
「今日は戻ってきたばっかで疲れているだろう。早く帰って休むといい」
「そうさせていただきます。明日から、よろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくな」
「失礼します」
教員室を出て、来た道を戻る。まだ日本に来たばかりだからか、体も心も落ち着かない。しばらく立ち止まり、真っ直ぐな廊下を眺める。薄気味悪さには慣れてしまったらしく、普通でいられた。
――明日から、新しい生活が始まるんだ……
不安を抱きながらも、新たなスタート地点に胸が高鳴る。
ふと横を見ると階段が目に入った。
――少し……探検でもしてみるか
二階も三階も四階も教室が並んでいるだけで、面白くない。
――学校に面白味を期待する方がおかしいか
ふっと笑って更に階段を見上げる。
――あれ、この校舎四階までじゃなかったっけ?
一段一段上り、踊り場を曲がってだんだんと現れたドア。
――これ……屋上?
期待を胸にドアノブを回し、重い扉を押し開ける。
「わーお。本当に屋上だ!」
思わず大きな声が出た。ドイツの学校にも屋上はあったけれど、一度も足を踏み入れたことはなかった。
今頃のドイツはこの時間でもまだ明るいだろう。でも明るい屋上は学校が始まっても堪能できるものだ。日本で良かったと思う。この暗い屋上が光の一つの節目だ。
屋上の端まで行って、そこから見える景色を眺め深呼吸した。少し、タバコの臭いが鼻から入ってきたような気がした。
「明日から私の新しい生活が始まるんだ。普通に友達作って、普通に恋して……」
そう思ったら解放された気分になって、叫んでみたくなった。
「ゼーア エアフロイト!」
はじめまして、と思いっきり叫んだ。スッキリした気持ちで、光は屋上を後にした。
あの場所に光以外の誰かがいたなんて、気付きもせずに。
何年も着ているお気に入りのワンピースを着て、髪の毛はバレッタでまとめる。
昨日コンビニで調達した食材で慣れない日本料理を作り、朝ごはんを済ませた。時計を見ると、まだ時刻は七時だった。
――少し早く起き過ぎたかな
少し早いが学校へ向かう事にした。光は玄関で深呼吸をする。
「いってきます……」
誰もいない部屋に呟いて玄関を出た。清々しい朝。太陽の光が心地いい。梅雨の空はお休みをもらっているらしい。
まだ自転車を買っていない光は、歩いて学校へ向かう。
歩きだと少し時間がかかったが、早めに家を出たので無事学校へと到着した。教室が分からないので、教員室へ直行する。
「おはようございます」
すぐに村田先生を見つけた。
「グーテン モルゲン」
光は自分の頭の上にはてなマークが飛んでいるのを感じた。もちろん言葉の意味はわかる。十七年生きてきて、どれだけ使ったかわからない言葉。ドイツ語で、おはようございます、だ。
だけど村田先生がいきなり言うものだから、びっくりしてしまったのだ。発音も違うし。
「Guten Morgen.(グーテン モルゲン) Wie geht es Ihnen?(ヴィー ゲート イーネン?)」
「えっと……なんて言ったんだ?」
「おはようございます、ご機嫌はいかがでしょうか? と」
「あぁ、なるほど! 先生は元気だぞ! 元気が取り柄だからな。それにしても、全然発音が違うなぁ。さすが本場の発音だな!」
はっはっはっと笑う村田先生。元気かと聞かれたら、聞き返すものなのに。日本の風習はまだよく分からない。
「教室が分からないので教えていただけますか」
「あぁ、何の授業だ?」
「数学です」
「よし、案内しよう」
「お願いします」
校内を歩いて行く。昨日探検したばかりの校舎だったが、夜と朝では全然雰囲気が違って新鮮だった。
「講義室はここだ」
「ありがとうございます」
教室に入ると少しずつ視線が集まってきた。大学には生徒も多いし静かに編入できると思っていたが、だんだんとその希望は薄れていった。
村田先生は一人の女の子に声をかけた。
「今日から編入してきた子だ。いろいろ分からない事があるだろうから、面倒を見てやってくれ」
「いいですよ」
黒髪のおかっぱ頭が印象的で、明るい女の子だった。
――着物が似合いそう
女の子が快諾すると村田先生は一度笑顔を向けて、教室を出て行った。
「はじめまして、真美っていいます」
「七海光です、お世話をかけます」
「お世話をかけますなんて、私言った事ない。丁寧だね」
そういいながら真美さんは、くくと笑っている。
村田先生にも言われたが、日本語は敬語だのなんだのって本当にややこしい語学なのだ。
「ドイツに住んでいたので、日本語が苦手なんです」
「ドイツに? すごいなぁ」
――たまたま両親がドイツで仕事をしているだけなのに
光には、こういう曲がったところがある。
「敬語じゃなくていいよ。仲良くしよう」
「あ、はい」
真美はとても人当たりがいい女の子だ。それから、周りにいた二人の女の子が自己紹をした。仲良し三人組だそうだ。
気づけば野次馬ができていた。
「編入生?」
「美人だねぇ」
「霞プリンセス立候補したら?」
「私票入れるよ!」
「俺も!」
「南美ちゃんピンチ!」
内容が理解できなかったので、光はずっと黙っていた。そんな光に気付いたのか、真美が隣を指して言った。
「席、私のとなりでいい?」
「うん」
そして真美さんは野次馬に霞プリンセスなんてまだわからないでしょ、と言って追い払おうとしていた。しかしそんなことしても野次馬は帰らない。
真美の隣を座ると前の席の男の子が振り向いた。さわやかな美少年だ。
「バウムクーヘン」
とびっきりの笑顔で意味の分からない言葉を発する。何度も言うが、意味は分かる。
「えっと……」
美少年君は一言いって前を向いてしまった。
「あ、気にしなくていいよ。明王寺は不思議キャラだから」
明王寺くんって言うらしい。
「そうなんだ」
野次馬さん達は相変わらず、質問を止まることなく投げかけてくる。アイドルにでもなった様な気分た。
先生が入ってくると、野次馬集団はばらけて席に着いた。ホッとしていると、男の子と目が合った。ずっとこんな調子で授業は集中できない。
――前の明王寺くんは普通に寝ているし、男子生徒の視線が気になるし……。
それに何より授業内容がつまらなかった。
光はドイツで大卒資格を取っていて、五教科はもう習得している。日本では商業科の大学を、と思って編入してきた。日本語も勉強したし、商業科の簡単な数学では光の頭が暇になってしまう。五教科はもう必要のない授業だけど、単位の為なら仕方がない。
ひたすら問題集を解いていると、チャイムが授業の終わりを告げた。
解きかけの問題を終わらせ、前を向くと一向に起きる気配がない明王寺くんが目に入った。
「ごめんなさい」
一言謝っておいて、明王寺くんの頭をノートで殴る。
「ってぇ」
「授業終わりましたよ」
「え? あぁ、そう」
寝ぼけている明王寺くんを何故か懐かしく感じた。
「優しいねぇ。明王寺、光ちゃんの厚意を無駄にしないでよ」
聞けばいつも寝ていて、授業に遅れる遅刻魔らしい。
「次、何とってるの?」
真美が光に聞く。
「音楽を」
商業科なのに音楽があるのには感動した。単位は少ないけど、大学生活を楽しめるならそれでもよかった。
「明王寺、あんた次音楽じゃなかったっけ」
「そうだよ」
明王寺は目をこすりながら答える。
「じゃぁ、明王寺に案内してもらってよ。私たち次マーケティングだからさ」
「ええ、そうするわ。今日はありがとう。真美さん」
「やだ、呼び捨てでいいよ」
「ありがとう。私も光で」
「うん」
ドイツでは当り前のことも、了承を得なければならない。国の文化の違いに改めて実感する。
「ではまた」
そうして光たちは別れた。
「行こうか」
「はい」
音楽室までの道のり、お互い言葉を発することはなかった。明王寺は欠伸を繰り返していたから、眠くて話す気なんて出ないのかもしれない。
光から話すことなんてないし、沈黙には耐えられる方だ。
静かに明王寺の少し後ろを歩く光。肩に少しかかっている髪はほんの少しだけ茶色い。光の身長は一六○センチジャスト。その光より十五センチ程高い。これはモテるな、と光は予想していた。
「ここ」
そう言って明王寺は教室に入る。光も後に続く。
「この授業、席決まってるんだけど」
「空いている席に座るわ」
「また俺の後ろになっちゃうよ」
明王寺の後ろがちょうど空いているらしい。
「そうしたらまた起こすわ」
「さすがに音楽は寝れないよ」
「それもそうね」
そう言って光は明王寺の横を通る。すると突然腕を掴まれた。
「な、なに?」
「へぇ、キミでも驚いたりするんだ」
語尾に音符でも付けたくなるような喋り方をする人だ。さっきとはイメージが違った。寝ぼけから覚めたのだろう。最初に見た笑顔が、またきらめいている。
「誰でも驚くわよ」
「ずっと表情を変えない子だったからさ」
いつ観察したんだ、と言いたくなる。
「要件は」
「明王寺智一」
自己紹介がしたかったらしい。
「私は――」
「智一って呼んでな」
光の言葉を遮って言った。
「えっと。はい」
素直に答えると、掴まれていた腕が開放される。
「光のことは知ってるから」
最高の笑顔に少しドキッとした。
「どうしたの?」
明王寺はニヤニヤしながら光の顔を覗いた。
光はすぐ自我を取り戻してありがとう、と伝えた。ドキッとするなんて、自分らしくないと光は思っていた。恋愛などに興味はない。ただ明王寺の無邪気な笑顔が輝いて見えたのだ。光は常に影を歩んでいる。自分の名前に恨みさえ抱いたこともある。影を太陽が照らすと、どうしようもなく戸惑ってしまうのだ。
――本当に不思議な人
何を考えているのか、どう切り返してほしいのか、普通ならこんな簡単なことが明王寺の行動では読み切れない。光は空気を読むのが上手いと自賛している。そんな光が言葉を詰まらせるのは珍しいことだった。
授業中は終始明王寺が気になってしょうがなかった。興味なさ気に授業を聞いていて、きっと他の事を考えているのだろう。シャーペンの芯を折るのが癖。何しているのだろうか。
光を戸惑わせた人、バウムクーヘンのその人。
――智一くんは何か私と似てる……
光は柄にもなく他人の事を考えていた。
無事一日目が終了しかけている。
――ふぅ……
休み時間になる度、光の周りには人だかりができて質問攻めに遭う。昼休みなんかは、ご飯を食べる暇もないくらい大勢の人が集まった。
精神的にも肉体的にも、何日分もの疲れが一気に溜まった。
――今日だけじゃ終わらないんだろうな……
そう考えると気分が落ち込んだ。
「ひかりー」
声がした方を振り返ってみると、真美と愉快な仲間達がいた。
「これから光の歓迎会も兼ねてカラオケに行くんだけど、どう?」
いつ決めたのだ。
「そうなの?」
転入生に施すことを一通り想定してきたけど、これは予想外だった。
「でも私、日本の曲分からないし」
「あぁ、そっか。ごめん、そこまで気が回らなくて。でも別にカラオケじゃなくてもいいんだよ。光の行きたい所で歓迎会をしようって話」
今日は朝からずっと楽しみにしていることがあった。それは陽が出ているうちに屋上へ行くこと。実質、昨日から楽しみにしていたことだ。
「すごく嬉しいのだけれど、今日は少し疲れてしまって。こんなに人気者になったの初めてだったから」
嘘はついていない。
「それに、昨日帰ってきたばっかりで、荷物を片付けなきゃならないの」
「そっか」
残念そうに言う真美。
「ごめんなさいね、また今度誘って?」
「そうするよ。人気者が転入二日目で休まれちゃファンも困るもんね」
苦笑いをしてみせる真美。そんなに光を誘いたかったのだろうか。
「なーんだ。七海さん行かないなら俺らも行かねーよ」
「いいよー別に」
交流の場を壊してしまった事には罪悪感があったものの、本当に疲れてしまっても嫌だった。
「……では、また明日」
一通り終わったのを見計らって教室を出た。
楽しみの屋上に行く前に寄るところがあった。
「失礼します。村田先生、書類です」
「なんだ、もう書いてくれたのか。急がなくていいと言ったろう」
そうは言っても書類が家に残っているのは昔から好きじゃなかった。
「昨日は荷物の片付けをする気になれなかったので」
「そうか、一人暮らしは大変だからな。これから頑張れよ」
「はい」
一人暮らしは少し寂しさがあるけど、自由なのはありがたい。実家で仕事を押し付けられる日々から解放されて、心が軽くなった。
「では失礼します」
「おお、気をつけてな」
職員室を出ると、誰かに呼ばれた。
「ひっかり」
よく遭遇する真美。と知らない男の子。
「これから帰り?」
「うん」
「あ、紹介するね。田波一弥」
真美の幼馴染だという。
「はじめまして、七海光です」
「はじめまして、じゃないんだよな」
「え?」
「経済の授業一緒なんだけど」
「授業一緒なくらいで覚えてるわけないじゃん」
真美が一弥くんに肘をうつ。仲がいいことは見ていてすぐに分かった。
「そりゃそっか。そうだ、これからサークル見て行かない? 真美もいるからさ」
「だめだめ、光は今日疲れてて歓迎会断ったんだから」
「あ、だから歓迎会なくなったんだ」
「なんだと思ったの」
さっき断ったばかりだったし、サークル見学くらいなら時間も許すだろう。
「少しなら見に行ってみようかしら」
「歓迎会断ったの気にしてるの?」
「ちょっとね」
光は苦笑いを見せた。それより真美はサークルをサボってカラオケに行こうとしていたのか。
「一弥も来る予定だったんだよ、歓迎会」
「それなら尚更行かなくてはね」
「じゃ、ちらっと覗いていけばいいよ」
そう言って歩き出す。着いたのは体育館。何のサークルかまだ聞いていない。見ると、男女混じってバスケットボールをしていた。
一弥はいろいろな人から声をかけられている。さっきとはイメージが違うハイテンションで、学校の人気者らしい。
「うちのサークルは自由で、楽しむことを目的にしてるの」
自由参加だから、気軽に今日の歓迎会を開くことが出来たのだという。
「もちろん大会にも出るんだけど、トロフィーを取りに行くわけじゃないんだ」
「好きな時に来ればいいから、光ちゃんも入ってみたらどう?」
体を動かすことは大切だし、なにより自由参加に惹かれた。
「入ってみようかしら」
「本当?」
「こう見えてもバスケは小さい頃やっていたのよ」
エースを任されていたこともあった。
「才色兼備ってやつか」
「頭いいの?」
「だって授業つまんなそうにしてるのに、横の人に教えてあげてたんだよ」
よく見ている。経済の授業中、隣の子が「この問題、意味分かりますか」って聞いてきたので丁寧に教えてあげた。
その手の分野は家柄、小さい頃からずっと教育されてきた。ドイツの大学でもある程度習ったし、得意分野といったらそうなのかもしれない。
真美たちには飛び級をした、なんて自慢にも聞こえるので言わなかった。
「じゃぁ、私書類持ってくるからちょっと見学でもしてて」
「うん、ありがとう」
そういって真美は書類を取りに行った。光たちはコートの横へ移動して見学をする。
「光ちゃんってさ」
気を遣ったのか、一弥はすぐに話しかけてきた。ちゃん付けはやはり抵抗がある。
「その、ちゃんっていうの好きじゃないの。ドイツでは呼び捨てが普通だから合わせてもらっていいかしら」
「あぁ、そっか。悪いな、光」
少し照れくさそうに言う一弥。照れる事も光には理解できない。
「俺も、一弥でいいから」
「うん。で、さっきの話」
「あぁ、光は将来何になるの?」
それは光にとって少しデリケートな問題だった。
「………」
「じゃぁ、夢ってでかい方がいいと思う?」
答えを渋っていると、質問を変えてきた。
夢。それも光には縁のない単語だった。光の人生はもう決められている。夢などない。強いて言うなら自由に生きることが夢だ。
「夢を目標と置き換えると、やっぱり大きい方がいいのかもしれないわね。でもそれは最終地点であって、少しずつ小さな目標をクリアしていかなければいけないと思うわ」
「すごいこと言うな」
「すごいかどうかは分からないけど、今は目の前にある課題をこなしていくことが大切なの。私も受け売りで論じているんだけれどね」
一弥の目を見ると、キラキラと輝いていた。この人はきっと夢に向かって走っているのだろう。
「そうだな。まずは勉強かぁ」
そんな話をしていると、書類を持った真美が帰ってきた。
人の持つ夢には少し興味があったけれど、真美が書類の説明を始めたので話は打ち切りになった。
「今書いちゃってもいいよ」
わざわざ家に持って帰るものでもなかったし、すぐに書いて渡した。
「最初は真美と一緒に参加させてもらうわ。いきなり飛び込んでもアウェイだし」
「そうだね、じゃぁ出るときは声かけて」
「うん」
一通り話がまとまったので、光は帰ることにした。
「じゃ、また明日」
「いろいろとありがとう」
「いーえ」
体育館を出ると、真美と一弥の大きな声が聞こえた。着替えていたし、チームに加わったのだろう。
――やっと屋上に行ける
光のお気に入りの場所。まだ人が多かったから、誰かいるかもしれない。それでも良かった。誰かいた時は少しだけ眺めて帰るつもりだった。
階段を上る足が軽い。昨日と同じドアノブを回して外へ出た。
「やっぱ雰囲気全然違う」
予想は外れて、人は一人もいなかった。テンションが上がって小走りで柵へ向かう。
昨日は真っ暗で誰もいなかったけど、今日は明るくて敷地を見下げると下校中の生徒が各々歩いていた。
――陽が気持ちいい
軽く空を見上げた。昨日と同じ流れ。大声で叫……
――おっと、人がいっぱいいるのに叫んじゃまずい
「危ない危ない……」
「なーにが?」
自分以外の声に驚き、振り向いた。そこには給水タンクに寄りかかっている美少年君……もとい明王寺智一。その手にはタバコがあった。
言いたいことがいっぱいあって、どれから言おうか言葉に詰まった。
「するんじゃなかったの? 荷物の片付け」
真美たちの中に明王寺はいなかった。どこで聞いていたのやら。
「えっと、帰ってからするわよ、ちゃんと。智一くんこそ、何でこんなとこに」
「屋上来るのに、理由なんている?」
「う……」
ごもっとも。光だって理由なしに屋上にやってきたのだ。
明王寺を見ると少し怪しげな表情を浮かべていた。そして、ゆっくり近づいてくる。
光はちょっと怖くなって後ずさりする。だけど後ろは柵。彼はしゃがんで光を見上げた。昨日ほのかに感じたタバコの匂いは、もしかしてこの人だったのだろうか。
「智一くんの問題に口出しするつもりはないけど、学校で吸っていいの?」
誰が何をしてようが、それはその人の責任なのだ。口出しして面倒になるのは御免被る。それでも目撃してしまったのだから仕方がない。
「いーのいーの。ここ、誰も来ないから」
「でも私は来たわ」
「そうだねぇ。でもそれも予想出来ていたよ」
「え?」
「ここはちょっといわくつきの場所なんだよ。だから人はあんまり来ないんだ」
それは自殺した人がいるから、とかお化けがでるから、とかいろいろ頭に浮かんだけど、光にはそんな事はどうでもいい。
「どうして私が来ることが分かっていたの?」
「だって、キミは昨日も来たでしょ?」
笑顔を向ける明王寺。不覚にもドキッとしてしまう光。
「そしてドイツ語で叫んだ」
やっぱり昨日のタバコの匂いはこの人だ。
「今も気持よくなって叫ぼうとした。そして、『危ない危ない』でしょ?」
なんでもお分かりのようだ。
光は声を出すのをためらった。
――やっぱりこの人は何を考えて、どう切り返せばいいのか分からない
光が顔をしかめていると、明王寺は立ち上がり光の頬に手の平を当てて言った。強くなるタバコの匂い。
「俺が怖い?」
「そんな事はないわ」
「そっか」
そしてタバコを地面に落し、火を消した。
「でも、これから怖くなるかも」
明王寺はそう言って柵に手をかけ目線を光に合わせた。
「ごめんね」
一度謝り顔を近づける。
何するの、そんな言葉も出させてくれないほど素早く光の唇を奪った。彼の口はタバコの味がした。光は抵抗しようとしたが、男の強い力で抑えつけられてそのうちその気も失せた。両手を押さえつけられては身動きも取れない。くすんで足もでない。
どの位口を塞がれたのだろうか。ほんの数秒だったのかもしれない。でも光にはとても長く感じられた。
「怖くなった?」
頭に血が上って彼の頬を思いっきり叩いた。明王寺の力は少し緩んでいたのか、腕はすぐにほどけた。
「ってぇ。これで叩かれるのは二度目だなぁ」
やっと彼の口が離れたというのに、タバコの味がまだ光を捕えていた。
「馬鹿にしているのっ?」
キッと彼を睨んだ。彼はそれを見て微笑む。そして光を掴んでいたもう一つの手が緩み、解放される。光は溢れそうな涙を堪えながら、彼を軽蔑する。
「男に襲われるの、慣れてるでしょ?」
そう言った彼の目は、ひどく冷たかった。
「っ……最低!」
光が力いっぱい言うと、彼は一瞬、何とも言えない切ない顔をしたように見えた。しかし、すぐに怪しい笑みに変わり光に触れようとした。
「触らないでっ!」
「これから仲良くしてね。光ちゃん」
そういって彼は屋上を後にした。
サブタイ
「んー」
アラームを止め、起き上がる。光が久しぶりに見た夢は明王寺だった。
――……なんで明王寺の夢なんか
昨日から光の気分は曇り空。お気に入りだった屋上が嫌なところへ変わった。
明王寺の行為は本当に嫌だった。でも何故か思い出すのは苦いキスの事より、冷たい目と、一瞬見せたもの凄く切なそうな顔。
――あんな顔がなければ、思いっきり憎めるのに。
あの顔が光を狂わせた。
学校に行きたくない。でも休むのは明王寺に負けたみたいで嫌だった。不快感を抱きながらも、手際よくお弁当を作り、準備をして家を出た。
「いってきます」
ただただ広い部屋の中に、光の声だけが響いた。
昨日帰りに自転車を買ったので今日から自転車通学が出来るというのに、空は今にも雨が降り出しそうな曇り空。空は泣きそうだった。
――私と同じね。
光は一旦部屋に戻って段ボールの中から傘を引っ張りだした。
今は梅雨だから仕方がない。ドイツにはない季節だ。ずっと雨が続くなんて憂鬱。
昨日と同じ通学路を歩く。
――あれ。
歩きながらあることに気がついた。
明王寺は「男に襲われるの、慣れてるでしょ」と言った。頭に血が上っていて、今まで気づかなかったが、確かに彼はそう言った。
――どうして知っているのよ
思い当たる節はある。だけど初対面の彼には知るはずもない出来事だった。適当に言ったのかもしれない。いや、そうだろう。
――だって、知っているはずがないんだから。
そんな事を考えていると、ひょこっと男の子が出てきた。
「わっ」
昨日の事もあり、光は大きく驚いた。
「えっあっごめん。びっくりさせるつもりはなくて……」
それは一弥だった。
「おはよう」
一弥は自転車を引いて朝の挨拶をした。
「後ろ姿、光っぽかったから」
よく後ろ姿だけで分かるものだ。
「普通にでてきてください」
「ごめん、ごめん。よかったら、一緒に行かない?」
断る理由もなく、一緒に歩いた。
「昨日の疲れは取れた? 可愛い転校生にみんな浮かれてたからね」
一人で昨日の事を考えるより、世間話をしている方がずっと気が楽だった。
学校に近づくにつれ、一弥の友達だとかが加わり気づけば五人程になっていた。他愛もない話をして、質問され答えていく。いつもなら嫌いなパターンだが、今の光にはとても有り難い。
学校に着き、光たちは靴箱でばらばらになった。
「おっはよー光ちゃん」
光はその声に思わずビクッとして、上履きを取り出そうとした手が止まった。
恐る恐る声のした方へ顔を向けると、そこにはやはり明王寺がいた。
「光ちゃん、朝から元気ないねえ。ほら、朝の挨拶はっ?」
すっかり不思議キャラに戻っている。二重人格とはこの人の為にあるような言葉だ。
「おはよう」
感情のこもっていない挨拶にまたあの寂しそうな目をする。目を逸らし、早くここから離れようと急いで靴を履き替える。しかし、焦ってしまい靴箱に入れようとした靴を落としてしまった。
「おっちょこちょいさん」
光が拾うより早く明王寺に拾われ、拾った靴を靴箱にしまう。
「そんなに怯えなくてもいいんじゃない?」
明王寺は耳元でボソッと言った。また体が強張る光を尻目に、すたすたと歩いて行った。
――絶対に二重人格
「明王寺と仲いいじゃん」
「えーあいつと? すげーな」
「席が前なだけです」
変なことが伝わらないように、必死に繕う。仲がいい? 冗談はやめてほしい。むしろ光は明王寺の事が大嫌いだ。
教室に入ると、話した事のある人々からの歓迎が待っていた。
「やっと登場だよー」
「おはよー光ちゃん」
「おはよう」
真美がやってきて何かを差し出した。
「これ」
「なに?」
「霞祭……文化祭ね。霞祭で学校一の美女を決めるコンテストがあるの。霞プリンセスコンテストって言うんだけど。ミスキャンパスみたいなものね。その申込票」
昨日みんなが騒いでいた霞プリンセスという単語を思い出していた。
「推薦人が必要なんだけど、推薦する人はいっぱいいるから、私が代表として推薦人になったの。あとは光がサインしてくれれば完了なんだけど」
――またそんな面倒くさそうなものを持ってきて来てくれる
「これはホームルームクラスの名誉でもあるんだよ」
――私の気はお構いなしなのね
「文化祭って、秋だと聞いたんだけれど?」
「そう、十月。でもね、申込みは夏休みまでなの。十月まで全校生徒はエントリーした人たちを観察して、誰がプリンセスに相応しいか考えるんだよ」
それは随分本格的な。
「プリンスコンテストもあるんだよ! 最後にプリンス優勝者と、プリンセス優勝者が正装で校内を回るの! 学園祭で一番盛り上がるパレードなんだよ!」
みんなきゃっきゃしているが、光はあまり興味がない。
でも空気くらい読める。この期待と希望に満ちた目をしている人々を目の前にして断れるはずもなかった。
「どこにサインすればいいの?」
「やったああああ」
「プリンセス決定だね」
「これから仲良くしてね、プリンセス」
「プリンスは誰にする?」
盛り上がる人たち。
そこに一人の美少女が乗り込んできた。
「ちょっと」
「なに?」
みんなの顔が少し怖い。
「霞プリンセス推薦申込票? なにこれ」
「見ての通り。南美も持っているはずだけど?」
「この私がいるのにエントリーすると?」
「時代は変わるものだよ」
近くの子がこっそりと教えてくれた情報によると、昨年度の霞プリンセス南美さんらしい。先輩を差し置いて栄光を勝ち取ったプリンセス。確かにスタイルもよくて、美人だった。
「今年も私が立候補するのよ?」
「だからなによ」
「随分無謀な人ね」
「無謀? 光は南美を追い越すかもしれない候補者だよ。他の候補者と一緒にしないで」
真美が必死に戦っている。
「バカにしないでよ。去年は悪いけど一年生ながらプリンセスになったのよ」
「あーはいはい。南美は候補者にそう言って回ってるの? そんな情報聞いたこともないし、そんなことやっていたとすれば、とんだ悪人プリンセスだね。ま、光に負けるかもしれないからエントリーを取り下げさせたいんでしょうけど」
光の為、というより自分の為に戦っているように見えた。
南美さんの顔が歪む。
「言ってなさいよ」
南美が光の方へ向いた。
「七海さんって言ったかしら」
「はい」
「あなたが負けるのは可哀相だから、やめといた方がいいんじゃないの、って言っているのよ」
勝つ気満々である。
「光に負けるのが怖いの?」
真美が横から割り込む。何故そういう事を言うのだろうか。
――面倒なことは嫌いなんだってば
「負ける? 私が? 私は七海さんが負けるのが可哀相って言ってるのよ」
「やってみなきゃ分からないじゃない」
――ライバルを脅しているとイメージが悪くなって票グラフが下がりますよ
そうアドバイスしてあげたかった。でもそんなことを言ってしまったら相手を怒らせるだけなので、やめておく。
「南美さん、私はあなたみたいに勝つ自信はありません。だけどエントリーする人が増えるという事は票が散らばって面白くなると思いますよ。ですから、私がきっとコンテストを沸かして見せます」
光は卑怯な人を見ると口が勝手に強気な発言してしまう。それで何度失敗したことか。悪い癖だった。
「どうしても出たいようね。せいぜい泣かないように心の準備をしておきなさい」
そう言うなり南美さんは光たちから離れた。
「なにあれ」
「あんな女に負けられないよね。光には絶対プリンセスになってもらわないと」
光は本当にプリンセスになれる自信はなかった。
幸いと言うべきか、両親共に整った顔立ちだったので光も素敵な遺伝子をもらってよく美人と言われる事がある。
だけどこういうのはイメージだとか、人当たりだとかがキーポイントになってくる。選挙と同じだ。
光は単独行動が多いし、人と慣れ合うのは好きじゃない。有権者を集めるのは困難と思えた。
それでももうサインもしてしまったし、南美さんにも火をつけてしまった。今更取り下げるなんて、そう高くもない光のプライドが許さなかった。
学園祭の面倒事は免れないようである。
「ちょっといい?」
そこへ一弥がやってきた。
「プリンスは誰にするか決まった?」
「まだ」
「だったら俺挑戦してみたいんだけど」
――確かに、一弥なら優勝できそう
学校の人気者だって言うし、どちらかといえばかっこいい部類に入るだろう。一弥ならプリンスを取りにいけると思う。
「だってあんた、去年は断固拒否だったじゃない。絶対勝てるって言ったのに」
さっきの怒りがまだ収まっていないのか、真美は少し強い口調で言った。
「去年は確かに嫌だった。俺はステージの下で盛り上げてる方が似合ってると思ってたし」
「どういう風の吹きまわし?」
「去年のコンテスト見て、出てもいいかなって思ったんだ」
「分かった、光ちゃんでしょ」
一人の女の子が指を一本立てて言った。
――そこで何で私の名前が出てくるのよ。
「光ちゃんが出るから、一緒にパレード出たいんでしょ」
「光の可愛さは一弥くんまでをも動かすか」
「田波と光ちゃんだったらうちのクラス、ダブル優勝も夢じゃないね」
「あーんずるい」
みんなが口ぐちに言う。
――そんなことはないだろう。だって一弥とは昨日会ったばかりだし。
「ち、違うよ」
――前言撤回
分かりやすい人だ。もう顔が真っ赤。正直、男を引き寄せるだけの美しさなんて必要ない。恋愛など興味はなかった。
「へぇ一弥、光が好きなんだ」
真美が淡々と言う。
「そんなこと言ってないだろ」
「顔に書いてある。いいよ、出れば」
きつい顔つきは、南美さんとの抗争の余韻か。
――それとも真美は一弥が……?
光はどうしたらいいか分からず、ずっと黙っていた。
「光、一弥が好きだって。どうする?」
どうするって言われても。ちゃんと告白されたわけでもないのに「ごめんなさい」なんておかしいだろう。
「一弥は違うって言ってるわ。もう先生来るわよ」
席に座ってノートを開く。光が示すと、みんなもばらけて行った。
「じゃぁ真美、推薦人探しといて」
「はいはい」
いつもの通り、光は真美の隣の席だった。
「真美、一弥とは昨日会ったばかりだし、そんなことはないと思うわよ」
「そうかなぁ。あいつ、美人に弱いっていうか、惚れやすいっていうか。単純なやつなんだよね」
「私が美人って。別に逸してるわけでもないのに」
「逸してるよ。本当、顔だけで言ったら南美より美人。でも南美は色気で票を取ってくるから。あーもうまた腹が立ってきた!」
授業中、真美は終始イライラしていた。
お昼はみんなでご飯を食べることになっている。
いつもは中庭で食べているらしいけど、今にも降り出しそうな雲行きに警戒して食堂で食べることになった。
「人多いね」
みんな同じことを考えるのか、食堂にはいつもより人が多いらしい。
歩いていると、何故か光にみんなの視線が集まる。
「あー多分、プリンセス候補だからだよ」
「え、もう提出したの?」
「南美に腹が立ったから、すぐに執行部に出しに行った」
声が少し怒っていた。
確かに、南美さんの行動は気持ちのいいものではなかった。いつもクールな光も久々にムキになってしまった訳だし。少しずつ勝ちたいという気持ちが出てきている。
それにしても真美は素晴らしい行動力をお持ちだ。
そして皆さんの素晴らしい情報網。
「落ち着いて食べられないねぇ」
「そうだねぇ」
そう言う割にはなんだか楽しそう。
サブタイ
編入生も注目されなくなった頃の四限、授業に行くと明王寺がいた。
あれから光は明王寺を避けている。でも彼はいつもひっついてくる。それでも光はあまり関わらないようにしてきた。
なるべく遠くの席に座ったが、明王寺がわざわざ出向いてくれた。
「何よ」
「別に。光のそばがいいかなぁって」
ことごとく迷惑な人だ。
この前の記憶がよみがえる。今の明王寺には恐怖を覚えないが、少しでも怪しい笑みを浮かべられたら体が固まってしまうだろう。
授業が始まり、先生がプリントを配る。明王寺からプリントを受け取ると、一番上にノートを切って折りたたまれたものがあった。
「なにこれ」
開くと綺麗な字で、でも飾り気のない字で“昼休み、屋上”と書かれていた。
――絶対にいやよ。明王寺の言いなりになんてならない
またのこのこと行って、この前の二の前なんてばかばかしい。紙切れを強く握って筆箱に入れた。
そしてふと窓の方へ目をやる。すると一弥と目があった。
「べ ん きょ う」
口ぱくでそう言うと、一弥はにこっと笑って黒板を向いた。
授業が進むにつれ、光は少しずつ恐怖を感じていた。
もし行かなかったらどんな仕打ちが待っているだろうか。ふと嫌われるかもしれない、なんて事を考えた。それはそれでいいじゃないか。でも光は明王寺に嫌われる事を恐れていた。そしてそんな事を考えていた自分が惨めだった。光は強くなくてはならない。ずっとそういう風に生きてきたのに。
とうとう昼休みがきてしまった。あれ以来明王寺と話をしていない。彼は授業が終わるなり、さっさと教室を出て行った。
光は絶対行くまいと心に誓っていた。
「光ー一緒にご飯食べようよー」
一瞬、あの切なげな顔が頭をよぎる。
――いいわよね、別に。
「今行くわ」
最近は毎日雲が黒かった。まだ降っていない。でもいつ降り出すか分からない。そんな天気が続いていた。
この後の授業は明王寺と被っていた。明王寺と顔を合わすのは気まずい。もしかしたら怒られるかもしれない。
明王寺も光が行くなんてまさか思っていないだろう。わざわざいじめられに行くようなものだ。
そんなことを考えていたので、お弁当が美味しく感じられなかった。
五限が始まる。
光の前の席は空席のままだった。六限目も前の席は空いていた。
教室のどこを探しても明王寺はいなかった。確かにこの授業は彼と一緒だったはず。一週間前の記憶を何度も呼び起こしていた。サボりかもしれない。帰ったのかもしれない。
ふと窓の外をみると光るものが見えた。ぽつぽつと雨が降り出してきた。
その瞬間、光の頭に明王寺の笑顔がよぎった。
――明王寺……
次第に強くなる雨脚。
「うわぁ最悪だよ」
「もうちょっともってくれてもいいじゃんか」
「俺傘持ってきてねぇ」
授業中にも関わらず、生徒がざわめき始めた。
屋上は屋根になるとこあったっけ、とか帰ってるよね、とか頭は大嫌いな明王寺の事でいっぱいだった。
――大丈夫……よね?
雨は止むどころか、益々勢いを増していた。
「光、今日ボーリング行かない?」
「真美。こんな雨なのに?」
「雨の日三十パーセント割引デー」
指を三本立てて言った。
「それはお得! この前の歓迎会は行けなかったし、行こうかしら」
「決まりー!」
光は明王寺でいっぱいになっていた自分を紛らわしたくて、あまり好きじゃない群衆へと入って行った。
外にでると本降りで、風がないのが不幸中の幸いだった。
こんな人数でボーリングするの? ってくらい人がいた。でも今はそんな空間が明王寺を忘れさせてくれた。
その中には一弥もいた。
「バスケは体育館競技なんだし、今日もサークルあるんでしょ?」
「今日はバレーサークルの日。何も気にしないで行けるよ」
一弥と話しているのを後ろから真美が見ていた。
少しずつだけど確信している。真美は一弥の事が好きなのだと。
「真美、一弥とはどのくらいの付き合いのなの?」
恋のキューっピットにはなれないけれど、妬まれないようにするくらいはできる。
「生まれた時からずっと。お母さんと一弥のお母さんが仲よくてね。ちょうど同じ年に子供が生まれたっていうのもあって、私たちずっと一緒に育ってきたの。結婚させるなんて言ってたよね」
「あんな冗談、真に受けるなよ。母さんたちの勝手な話だろ。真美だって好きな人くらいいんだろ? 迷惑な話だよな」
真美の顔は少し寂しそうだった。何故男はこういう些細なことに気づいてあげられないのだろうか。こっちからしてみれば、バレバレなのに。
「今天気予報見たんだけどさ、この雨明日まで降るらしいぜ」
少し後ろの集団から聞こえた声が光の脳内を支配する。
「うっそ」
「梅雨だしねぇ」
「明日自転車で来れないー」
――明日まで……ずっと……
その言葉が頭の中をぐるぐるする。そして、あの切ない顔の明王寺が出てきた。その瞬間、光の中の何かが弾けた
「ごめんなさいっ! 今日先生に呼ばれてたんだわ。学校戻ります! また明日」
そういって来た道を走りながら戻って行った。きっとみんなポカーンとしているだろう。明日は責め立てられるかもしれない。でもどうしても放っておけなかった。大嫌いだけど、何故か気になってしまう。それは雨のせいだからではない。
――何故だろう。何故だろう
傘をさしていたら、空気の抵抗でうまく走れない。濡れる覚悟を決め、傘を畳んでばしゃばしゃと必死に走った。
敷地を駆け抜け、靴を履き替えるのも忘れて屋上へと向かった。
階段を上っている時、誰かに呼ばれた気がしたけど、立ち止まる余裕さえ今はない。
あと一階。一気に階段を駆け上がる。
光は分かっていた。明王寺は絶対待っている。根拠などない。あいつはそういうやつなのだ。
まだ会って少ししかたってないけど、感じる。明王寺を。
三度目のドアノブを回した。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
雨が絶えず体を打つ。今は走ってきた熱しか感じない。
「はぁ……はぁ……なんっで……」
フェンスに寄りかかって座っている明王寺がいた。ワイシャツが透けていて、本当にずぶ濡れだった。
一歩ずつフェンスへ近づいていく。
「何……しているの?」
「見ての通り。光を待ってたの」
――お昼からずっと?
「馬鹿じゃないの」
「そうだねえ。馬鹿かもしれない」
光を見てふっと笑う
「光、びしょびしょ」
「何言ってんの、明王寺の方が濡れてるじゃない」
「明王寺……?」
光をじっと見る。
「昨日は下の名前で呼んでくれてたよね」
「私、あなた嫌いだから」
「そっか」
またそういう顔する。
――なんで、どうしようもなく悲しい顔をするの?
「とりあえず、中入りましょう。風邪ひいちゃう」
びくともしない明王寺。
「行きましょう」
何回も促す。それでも動かない。これでは埒が明かないと思い、明王寺の腕を強引に引っ張って踊り場まで連行した。本当に明王寺の行動には悩まされる。
髪からも服からも、水が滴る。少し罪悪感が襲ってきた。
「何で? 何してたの?」
すると突然、壁に押し付けてきた。今までここにくるのに必死で忘れていたが、この瞬間この前の恐怖がまた湧いてきた。
「明王っ寺。離してっ」
「何してたの? 分かんねえの? 分かるだろ!?」
「明王寺が勝手に――」
「明王寺なんて呼ぶなよ!」
そういって口を塞いだ。怖くて泣きそうで。でも泣いたら相手の思うつぼだ。
「下の名前で呼ぶまで止めない」
この前よりももっと激しく必死なキス。明王寺が悪魔にさえ見えた。でもその裏で明王寺の悲しみがあるのを、光は見て見ぬふりをしていた。
――名前で呼べば終わるのか、この苦痛。名前を呼べば……
「智一……」
口を離した明王寺の顔を見ることはできなかった。
「よくできました」
明王寺がどんな顔をしているのか、光には知る由もない。
「これからも名前で呼ばないと承知しないよ」
明王寺は愛しそうにほどけてしまった光の髪に触れる。ふと見えた明王寺の顔は凄く苦しそうな顔だった。その顔を見てしまってから、明王寺から目を離すことができない。
彼が頬を触れた瞬間、その場所は熱を帯びていった。明王寺の息遣いが荒い。
「光……光………」
明王寺は何度も何度も光の名前を呼んだ。
――どうして? どうして私の名前を苦しそうに何度も呼ぶの?
光は明王寺を虜にするような事はしていない。それなのに追いかけるように光を呼び続けた。
「光……光……行かないで………」
「私はここにいるわよ」
「ひ……かり………」
「え、ちょっと智一!」
明王寺は崩れるように倒れてきた。一生懸命支えようとしたが、男の子の重さに耐えられるはずもなく、一緒に倒れてしまった。明王寺の体中が熱い。
「智一! 大丈夫? ちょっと!」
気を失ってしまったようだ。この雨の中、何時間も光を待っていたのだ。風邪を引くのも当然だった。
明王寺を担げればいいが、生憎そんな力は持ち合わせていない。
――誰か呼ばないと
でもここに明王寺だけ置いて、誰かを探しに行くことはできない。成す術もなく、光は明王寺を抱えたまま叫んだ。
「誰か! 誰か来て!」
こんなところで、この時間誰も気付く訳がなかった。めずらしく焦っている。どうしようかと考えていると、階段の下から人影が見えた。
その人物を見て、光は少し驚いた。
「一弥」
一弥は光を見ると、すぐに視線を明王寺に移した。
「明王寺が……」
説明しようとすると、一弥は無言で明王寺を背負い、階段を降りていく。
光が呆然と座り込んでいると、一弥は一旦戻ってきて言った。
「光も、風邪引くよ」
それだけ言って、また階段を降りて行った。光は一弥の後ろについて階段を降りて行く。
着いた場所は医務室。ドアの前には、帰ろうとしている先生の姿があった。
「先生! こいつ急患!」
先生はびしょ濡れの光たちを見て目を丸くした。
「入りなさい!」
そういって鍵をかけようとしていた手を止め、ドアを開けた。
「田波くんは、明王寺くんをこれで拭いてあげて。それから、これに着替えさせて」
引出しからタオルとジャージを取り出した。
「あなたも!」
「すみません……」
光はカーテンがかかる場所へ行き、着替えた。
「雨の中鬼ごっこでもしてたの? こんなびしょ濡れで。すごい熱じゃない」
カーテン越しに先生の声が聞こえる。
「そうなんだよ先生。やめろって言ったのにさ、絶対やるって聞かなくて」
――一弥は見ていたのかな
知っているから、言い訳をつけてくれているのだろうか。
いつの間にか光の体は冷え切っていた。髪の毛も絞れる程濡れている。
体中をタオルで拭き、着替えてカーテンを開けた。明王寺はベッドに横たわっている。すごい汗だ。
「明王寺くんは自宅に連絡しておくから、あなたは早く帰って休みなさい」
「はい。お世話様でした」
「鬼ごっこは晴れている時にしなさいね」
「はい。あ、田波くんは」
「先、帰ったわよ。女の子送ってあげればいいのに」
光としてはありがたかった。一弥と顔を合わせて、何を話せばいいのか。何をしていたの? そんな事を聞かれて、うまく立ち回れる気力はない。
それにさっきまでボーリング組と一緒にいたのに。追いかけてきたのだろうか。
びしょ濡れの制服を入れる袋をもらい、先生にお礼を言って保健室を出た。
――頭が痛い
もしかしたら光も熱があるのかもしれない。それとも、いろいろありすぎて頭が疲れたって言っているのかも。
光は何も考えずにただ歩いた。
「あ……」
靴箱で下足に履き変えようとしたら、既に下足だった。そんなことも忘れてしまうくらい頭がパンパンだった。
昇降口を出ると、一弥が立っていた。一弥は何も言わず、少し複雑な顔をしていた。
「あの、さっきはありがとう」
光は慌てて言った。
「傘、ないだろ?」
そういって光の傘をかざして笑った。どこかに置いてきてしまったらしい。
校舎を出て、門を出て。でも一弥は一言も喋らなかった。光も喋る気が出ず、無言の時間が続いた。
どこまでも、どこまでも帰る方向が一緒だった。光はこの気まずい空気から早く逃げ出したかった。
「あのさ」
一弥の口が開いた。光は一弥の顔を見る。少し緊張していた。
「光って、明王寺と付き合ってんの?」
「え……?」
一番聞きたくなかった質問が飛び出した。
「ごめん、見ちゃったんだ。光の様子がおかしかったから、何かあったのかと思ってさ。追いかけたら……。もちろん、付き合ってるならいいんだよ。でも、そんな感じじゃなかったから」
光はどう答えればいいか分からず、ずっと黙っていた。
――……バウムクーヘンと笑った明王寺
――……悪魔の笑みを浮かべる明王寺
――……切なく壊れてしまいそうな顔で私を呼び続ける明王寺
――どれが本当で、どれを信じて、私は何をすればいいのだろうか
「バウムクーヘンなのかな」
「へ?」
一弥は間抜けな顔をして見せた。
「私、転校してきて明王寺と最初に話したの、バウムクーヘンなの」
「ああ。真美から聞いた」
真美はそんな話はまでしているのか。
「バウムクーヘンって笑った明王寺、無邪気だった。それに多分、バウムクーヘンってドイツ語だから、気を遣ってくれたのかも。明王寺って人と関わるの、好きじゃないでしょう? そういう人って、不器用なのよ。人と関わる訓練をしてないから」
正解はバウムクーヘンだと光は思った。ううん、バウムクーヘンだと思いたかった。
本当はすごく無邪気で優しい人。でもすごく不器用なんだ。そりゃ、不思議キャラを作っている時もある。でもバウムクーヘンと言った笑顔に嘘は見えなかった。
そして何度も光を呼ぶ明王寺に少し違和感を感じた。だから光は思った。
――明王寺は私に何か伝えたい事がある。
話しているうちにだんだん解明できてきた明王寺。心が軽くなった。
「まぁ、一弥には結論を。私たちは付き合ってない」
「そっか。なぁ、その伝えたい何かって、光の事が好きってことなんじゃないの?」
「それは違う」
光だってそれは考えた。でも明王寺は顔だけで恋人を選ぶような人じゃない。何故か明王寺の事は確信をもって言えた。
それにそんな簡単な何かじゃない。もっと大事な、もっと外発的な何かだ。
「よくわかんねぇけど、光を苦しませたことに変わりはないから。俺はそういう奴放っておけない」
「嬉しいけど、私は大丈夫。ありがとうね」
一弥は納得してくれていない顔をしていた。
「それよりも、追いかけてきちゃってよかったの?」
真美の事が気になった。今の光には他の事を考えられる余裕がある。
「よくはないかな?」
笑いながら言う一弥。お互い、明日は大変だろう。
だんだんと光のマンションが見えてきた。
「私のマンション、あそこなの」
「あの高級マンション? すげえな。俺のマンションあれ」
一弥のマンションはY字路を挟んで反対側のマンションだった。
「近いわね」
光は久々に笑った気がした。少しだけど、問題が解決してきて心に陽が差してきたのかもしれない。
気づけば雨もあがっていた。予報よりも早く雨は泣きやんだ。空も泣くのに疲れたのかもしれない。もう梅雨も終わる。
「傘いらないわね」
「そうだな」
そういってお互い傘をたたんだ。
「話聞いてくれてありがとう」
「うん。俺には明王寺の事は分からない。だからあんまいいアドバイスなんてできないけど」
携帯貸して、と光の携帯を開いた。
「話くらい、いつでも聞くから」
アドレス帳に田波一弥が加わった。
「うん、ありがとう」
一弥は優しい。でも人の事ばかり考えて自分の事が疎かになる人だな、と光は思った。そういう時は、私が助けてあげなきゃいけないとも思った。
「じゃぁ、また明日。すぐ風呂入って休めよ」
「そうする」
そうして光は誰もいないマンションへ帰った。
あとがき
はじめまして!
こんにちは。美波です。(南美と名前一緒ー!)
初めに。お嬢様の事情(仮)を呼んでくださり、ありがとうございます。
この作品は三年程前に書いた某夢小説をもとに作りました。
全くと言っていいほど原型を留めていません。
ですから、夢小説の画面は、エピソード集にしか見えません。
こちらの小説は、縦書きエディタを使用しています。
だいたいネットに上げると横表示なので、少し読みにくくなるかも……。
ごめんなさい、所詮は作者の自己満足で書いています。
さて、本題に入りましょう。
ヒロインは、知っての通り七海光です。
一章なので話はあまり進んでいませんが、智一とは衝撃の出会いでしたね。
光は智一に憎悪を抱く半面、なんだか分からない感情に犯されます。
これから、光の心がどう動くのか注目です。
実は今、三章まで書き進んでいます。
作者は基本ノープランでペンを進めるので、あの人の過去がどうだとか、これからの展開とか自分でも本当に分からないんですよ。
でも今、先がちゃんと見えています(書き終わったからね)
早く喋りたくてしょうがない!
だから何を喋っていいのか分からない状況です。
二章からは怒涛の展開になっていきます。
そして、一章が一つのまとまり。
二章・三章がまた一つのまとまりです。
なんとか編という風に区切りをつけていきたいと思います。
一章はそうですね、出会い編とでも名を打っておきましょう。
本編は二章からと考えて頂いた方がいいですね。
一章はあくまでもきっかけ、です。
ですから皆さん、二章を楽しみにしてください。
では短くはありますが最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
また二章でお会いしましょう。
ごきげんよう。
美波海愛