螻蟻の穴
ケイアン・ダンジョンを管理するコア分身体のケイアンは、焦っていた。
これまで生きてきた延べ百数十年の生涯で、これほどの危機は、ほんの数えるほどしかない。
過去に喪ったダンジョン・マスターは、たったふたり。それもSランク冒険者の四人組などという人外集団による蹂躙――ダンジョン・コアにとっては百年に一度あるかないかの災厄――と、孤独から来るマスターの精神崩壊の二回だけだ。完全踏破によるコア破壊は戯れに訪れたSランクパーティによる一回きり。王国にある十三のダンジョンで、これはBクラスのマリアーナ・ダンジョンに次ぐ快挙だ。
ともに王都近郊のダンジョンとして知られるエルマールとケイアンだが、両者の立ち位置はまるで違う。
ずっと初心者向けの簡易攻略対象でしかないエルマール・ダンジョンと対照的に、ケイアン・ダンジョンは冒険者がレベルとアイテムを稼ぐ堅実な攻略地として確固たる価値と評価を得てきていたのだ。
「ケイアン! なにをやっているのッ!」
そう。少なくとも、いままでは。
真っ赤な顔で手足を振り回す少女を前に、ケイアンは辟易とした気分を必死で押し殺す。
このダンジョン爵になるまで、ケイアン・ダンジョンはずっとCクラスから落ちたことなどなかったというのに。
「もっとアリンコを出しなさいッ!」
「無理です。魔物の喪失を抑えなければ、今後の防衛体制を……」
「いまを乗り越えられなきゃ今後なんてないのよッ! さっさと出しなさい、役立たず! いい⁉︎ 全部よ、全部ッ!」
マスターの金切り声が不安定な精神状態を、さらに加速させる。どうやったら伝わるだろうかと考え、相手に聞く気がないのでは無意味な問いだと思い直す。
この状況は、たしかにイレギュラーではあった。でもエルマールのダンジョン・マスターが提示した“ゲーム”の契約は、ケイアンのマスターから承認され締結されたのだ。時間もリソースの余裕もあった。もっと上手く対処できるはずだった。
マスターの無益なリソース温存と、魔物の無為な逐次投入さえなければ。
“<尸喰小鬼>、十三体喪失”
“<甲殻土竜>、七体喪失”
“<光媒質蚯蚓>、二十八体喪失”
“<群居羽蟻>、七十六体喪失”
“<女妖蜘蛛>、二体喪失”
機能制御端末からの情報が、ささくれ立ったケイアンの神経をガリガリと刺激する。黙れと怒鳴り散らしたくなるが、近くにいるマスターに聞かれれば折檻されてしまう。わざわざダンジョンのコア魔力を浪費してまで責め苦を与えようとする主人の愚かさと傲慢さに苛立ちが募った。
「ケイアン、お茶ッ!」
そう、そのお茶もだ。コアに充填された魔力や金貨を割くべきなのは、お飾りや奢侈品ではなく戦力と防衛資材だというのに。
「お待ちください、いまは」
「うるさいッ! クソ虫どもを全部出して、死んでも止めさせなさいよッ!」
度し難い。ケイアンの心はスッと冷えた。
もう、完全踏破させてしまっても良いんじゃないか。次のマスターは、きっとあの愚鈍な狂人よりもマシなはずだ。
このマスターは、三年近く経ったいまでも自分のダンジョンに何の愛着も持たない。汚らしい穴蔵暮らしに耐えられないと頻繁に王都まで行っては何日も帰ってこないのだ。そのたび租税のためにコツコツと蓄えてきた金貨銀貨を菓子だの服だの家具だのに浪費し続け、ダンジョンの強化は疎かになるばかりだった。
そもそもケイアンは、周囲の環境と生態系から虫の魔物が多い。このマスターは、それも不満なのだ。虫など気持ち悪いと管理を放棄して機能制御端末を触りもしない。
「ねえ、あんな気持ち悪いのじゃなくて、獣人とかいないの? 言葉が話せて知能があるタイプの魔物は!」
「獣人は魔物ではありません。亜人という人間の亜種……」
「そんなこと知らないわよッ! 虫ケラ以外を探して来いって言ってんのよッ!」
ケイアンが貴重な時間と神経とリソースを割いて淹れたお茶は、飲まずにぶち撒けられた。彼女の、顔面に。
「あんた、エルマール程度が相手なら楽に勝てるって、言ったわよね?」
「はい。ですが、それは……」
「言ったわよねッ⁉︎ だったら、死んでもそれを守りなさいよ!」
たしかに、契約前そう答えた。だが、必要な戦力増強も防衛配置も拒絶されて達成できるはずがない。
ケイアンで最も潜入工作に向いた魔物である<アラクネ>をエルマールに送り込んだが、そのレベル増強も十分には行えなかった。
案の定、目的達成を前に撃退された。ダンジョン内部に入ることさえできなかったのは、想定外ではあったが彼女なりに、最善を尽くした結果だろう。突入前に自力でレベルを上げようとしたのだ。エルマールの山中で十数人の冒険者を襲って喰らい、レベルをふたつ上げている。マスターからの催促により、そこで時間切れとなったが。
「……わたしに、もっと力があれば」
「まったくよ。反省してる暇があるんなら、出てってあのクソ団子をブチ殺してきなさい」
――こいつを、殺せたのに。
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