第5話 性夜な誘い 後編
本日2話目。
「どうせ死ぬつもりなら、その命を私に頂戴。かわりに最高の快楽をあげるから」
それは間違いなく悪魔の囁きだった。
誠の精神の最も柔らかい部分にズドンと突き刺さるひと言だった。
かぁっと頬が紅潮し全身から汗が噴き出してくる。同時に舌が回らなくなる。
「えっと……」
あまりにクリティカルな部分にヒットしたから、返答に窮した。
しどろもどろになる誠を見つめるサキの眼差しはキラキラと輝いている。
でも――彼女はそれ以上何も言わない。口角を吊り上げたその顔は『面白いもの見つけた』と言外に物語っている。
「ぼ、僕は別に……そういうつもりじゃなくて……」
ふにゃふにゃした言葉は、まるで意味をなさない。
「なに?」
サキはあざとく首をかしげた。そのほんのわずかな仕草だけで、誠は身動きを封じられてしまう。
自分はそういう人間ではないと声を大にして言いたかった。
寒空に震える悪魔の少女を見ていられなくて、一夜の宿を貸しただけ。
心に疚しいところなんて、どこにもない。そう言いたかった。
できなかった。無理だった。
言い訳を講じようとしたものの……部屋に連れ込んだ段階で、そういう期待はあった。
想いは誠の心の中にあったから、目を逸らすことができなかった。
どうせ死ぬなら――死ぬなら、一度ぐらいはエッチしたい。
香澄との交際して約1年ほど。かの幼馴染はキスすら許してくれなかった。
生きることに希望はなかった。でも……このまま死ぬのはあまりに寂しい。悲しい。悔しい。
死ぬことに恐怖したわけではない。ただ、やりたかったのだ。それは誠が抱いた純粋な欲望だった。
その欲望を出会って間もない少女にぶつけるのは、人としてどうかと思う。情けないとも思う。
例えサキ本人がやる気満々だったとしても、だ。人間とか悪魔とかサキュバスの本能がどうとか、そういう問題ではなかった。
それは、誠に残された最後の矜持の問題だった。今日この日まで真面目に生きてきたのだ。それだけが取り柄だったのだ。
他に縋るよすががなかったからこそ、即答することができなかった。人の皮をかなぐり捨てて獣欲に身を浸すことが怖かった。
「それで、するの? しないの?」
サキュバスの少女は容赦がなかった。
艶やかな唇から紡がれる言葉は詰問じみていて、同時に福音じみている。
冗談には聞こえなかった。ここを逃せば後はない。
否と答えれば、きっとこの子は素直に引き下がる。誠は直感した。
しばしの間、エアコンだけが室内で無機質な音を奏でていた。
わずかに開かれた誠の口から、本音が零れた。
「……したい、です」
「うん、わかった」
俯いたまま答えた。とてもではないが顔を直視することはできなかった。
自分で自分を裏切ってしまった。途轍もない罪悪感に苛まれた。
すっと伸ばされたサキの白い手は誠の頬を撫でて頭を撫でて、軽く額にデコピン。
衝撃に頭を上げた少年に、悪魔の少女は満面の笑みで頷いて見せる。
誠を茶化す様子など微塵もない、実にいい笑顔だった。
「じゃあ、早速しましょう。あ、ごめん。シャワー借りていい?」
「あっち」
一度認めてしまえば、あとは素直なものだった。罪悪感の後には爽快感が押し寄せてきた。
なんだかんだ言ったところで、誠はどこにでもいる普通の高校生男子に過ぎない。性欲だって人並みにある。
あまり表立って口にできない欲望を異性に認めてもらえたことは、心理的な負担を軽くしてくれた。
……つい先日まで、そういう話をすることはタブー扱いされていたから、なおさらである。
「ありがと。そうだ、一緒に入る?」
この申し出に誠はブルブルと首を横に振った。初対面の美少女とお風呂だなんて童貞には難易度が高すぎる。
慌てふためく仕草がツボに入ったのか、サキはくすくす笑いながら浴室に消えていった。その様は実に小悪魔っぽい。
ピタリと閉じられた脱衣所の扉を見つめて、改めて自分はとんでもないことをしているのではないかという疑問が湧いてくる。
同時に期待も膨らんでくる。下半身はすでにいきり立ちっぱなしだ。喉はカラカラで頭は茹ってきている。
――これは現実なのか?
悪魔の存在とは違う意味で現実味がない。頬を抓ると、ちゃんと痛かった。夢ではない。
夢でなくて、サキはやる気。誠も首を縦に振った身だ。
となると……これから起こりうる未来を想像して、ゴクリと唾を飲み込んだ。
「やる……のか」
ドア越しに聞こえるシャワーの音が、やたら滅多らと興奮を誘ってくる。
水音に紛れた彼女の鼻歌まで聞こえてきそう。幻聴かもしれない。
鼻をくすぐるサキの残り香に頭がクラクラしてくる。
五感が異常に拡張されている。聴覚、嗅覚。
視覚と触覚は……どうにも定まらない。過敏になり過ぎてコントロールが利かない。
「あの子と……サキさんと、僕が……」
『ついさっき出会ったばっかりだぞ?』『それがどうした!』相反する感情が並立して混乱が渦を巻く。
部屋に招き入れるや否やコートを脱いだ露出度高すぎるサキの姿を思い出して悶々とする。
サキはほとんど裸に近い格好ではあったものの、それでも大事な部分は一応隠されていた。
でも、もうすぐ……すべてが誠の眼前に詳らかにされる。その時、自分が正気を保っていられる自信がない。
「はぁはぁ……はぁ」
吐息が荒くなる。足元がフラフラして、とてもじゃないが立っていられない。
ベッドに腰を下ろし、落ち着かないままに脱衣所の扉と時計を交互に見やる。
――まだか、まだなのか!?
『その時』を待ち望んでいる自分がいる。
『その時』を遠ざけたい自分もいる。
矛盾しているし、すでに手遅れだ。
追い詰められていたとはいえ、誠は自ら決断したのだ。
責任は取らなければならない。
足の震えが止まらない。武者震いだとカッコつけたかったが、ただの貧乏ゆすりだった。
ビビってると自覚させられて、つくづく自分は小市民だと呆れ……ている余裕なんてなかった。
「はは、あはは……」
無性におかしくなってきて、調子はずれな笑い声が喉を通って噴き出してきた。
時計、ドア、時計、ドア、足、ベッド、時計、ドア、ドア、ドア。
一年近く寝起きしてきた自分の部屋が、まるで異世界じみて見える。
視線は定まらず、あちこちに泳ぎ回る。自分が自分でなくなったかのよう。
壊れたガラクタのように何度も何度も同じ動作を繰り返していると扉が開いた。
音が耳に届くなり誠の身体がビクリと跳ねた。目の焦点が一瞬で結ばれた。
そして、恐る恐る視線を向けると――
「お・待・た・せ」
サキがいた。
理性が蒸発した。
新雪を思わせるようだった白い肌がほんのり桜色に染まっていて、アメジストの瞳が淫靡に濡れている。
サキはバスタオル一枚だけ身体に巻き付けたままベッドまでやって来て、そっと手を誠の頬に這わせた。
暖かくて柔らかい、滑らかな少女の手が、指が、誠の頬から落ちて手に絡みつく。『捕まった』と思った。もう逃げられない。
「冷たいね。私が暖めてあげる」
耳元で甘く囁かれたそのひと言で、最後のタガが外れた。
常識? 理屈? 倫理? 命と引き換え?
そんなアレコレは、もうどうでもいい。何もかもが吹っ飛んだ。
今はただ、目の前の肢体に溺れたかった。
溺れた。
どこまでも深く、激しく、熱く。全身にまとわりつく感覚に酔いしれた。
いつまでも終わりが訪れる気配はなく、しかし誠の意識は闇に融けていった。
何もかもが溶けて混ざり合い、すべてはひとつになって……その彼方にアメジストの煌めきを見た気がした。
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