第七話「ファニーハウス」(挿絵あり)
「直人。黒川さんをちゃんと自分の部屋に案内してあげなさいね。黒川さん、後でケーキもっていきますからゆっくりしてね」
「はい、お気遣いありがとうございます」
機嫌がいい母親と礼儀正しい黒川ミズチとは対照的に、木徳直人は無言のままだった。
彼女を連れて自分の部屋に向かう。
「母さんには手を出すなよ……」
彼が告げて先に部屋へ入った後、続けてミズチも入ってきた。
「ここが木徳くんのお部屋なんだ。男子の部屋は初めて。結構綺麗だね」
言い表してからカーペットの上に正座する。座り姿も牡丹で姿勢がいい。
直人も対面で胡座を組んだ。
無言――
無言――
無言が続く。
宇宙空間で永遠に時間が止まった様な沈黙。
機先を制して攻勢に出たのは、彼女だった。
正座から上半身を前のめりにした動き。
彼との距離が一気に縮む。
唇に柔らかな重み――
直人の唇とミズチの唇が触れ合っていた。
すぐ彼女を突き放す。
「――ちょっ! な、何したお前!」
酷く慌てて唇を手で拭いながら後退る。
吐き気がして口をゆすぎたかった。
「バカかよッ! なんでこんな!」
ミズチも手で自分の唇を拭った。
真顔で答える。
「怒ってたんでしょう? 機嫌を直してほしくて」
「は……? 直るわけあるか! あんな事されて怒るとかの範囲はとっくに――」
「仲直りしたかったんです。仲直りにはキスが一番って聞いたから」
「誰がそんなバカバカしい!」
彼女は目を閉じて思い出す様な表情をしてから、目を開けた。
「テレビだったかな? 由美ちゃんから聞いたんだったかも。彼氏とって話だったかな。ディープキスの話だったかもしれない。忘れました」
「初めてのキスなんだぞ! こんな――」
嘆きの気持ちがつい口から出てしまった。
ピントの外れた発言の連続に堪えられなくなったのだ。
「私も初めて」
笑顔で返してきた。
彼は唖然として、もう言葉は出なかった。
ドアをノックする音がして、二人は何事もなかった様に取り繕った。
母親が入ってきて、先程のミズチのケーキと、直人もよく飲む紅茶が差し入れされる。
「ごゆっくり」
言葉の前には「後はお若い者同士で」とついても違和感がないニュアンス。
まるでお見合いの場から母親が立ち去ると、彼女がすぐに言葉を発した。
「もっと濃厚な方がよかったですか?」
「バカ言うな! 大体セクハラだからなそういうの」
「ああ。気をつけるね」
クスクスと笑う。
「キスは外国では挨拶なんだから。そんなに気にしなくても。減るもんじゃないんですから」
ミズチは更に「やっぱりかけた方が気楽」と呟いて、赤いフレームの眼鏡を取り出した。
眼鏡をかけて正座を崩す。
「これで話しやすい」
その言葉を聞き、再び姿を見た彼の脳裏に、あの夜の戦慄と苦痛が甦った。
拘束された感覚を思い出して身体が固まる。
「……クソッ。――もうキスとか、いいから、どうでも。そんなのより……本題に移ってくれ。何しに来た。何が目的なんだよ黒川さん」
力を込めてミズチを睨んだ。
「言ったでしょ、あなたと仲直りがしたい」
「本当にそれだけか? そうやって油断させて、次には油断した僕を殺す気じゃないのか」
「本当に和解がしたいの。勿論理由もあるよ。これから話すつもり」
直人は疑惑の目で見ていたが、話を聞く姿勢にはなっていた。
本人は認めないだろうが、接吻が効いたのかもしれない。
「――その前に、ちょっと待ってて」
言った彼女は急に立ち上がると、ドアを開けて部屋から出て行った。
「おば様! あの――」
部屋の外からミズチの声が聞こえた。
「……おば様だって」
母親の事を呼んでいるのだろうが、彼の母親はそう呼ばれるイメージの人物でもない。
そして忌々しくも黒川ミズチは美声の持ち主でもあった。彼も心の中でミズチの美声は認めていた。
眼鏡をかけなおしながら彼女が部屋に戻ってきた。
手には新聞紙を携えている。
「あなたの母親から借りてきた。今から買い物に行くから暫く留守にすると伝えてって。これで気がねなく話せる」
直人はまだ警戒していた。
家や部屋でミズチと二人きりでいるのは不安を覚える。
座った彼女は新聞の記事を彼に見せてきた。
「これ読んで。ここと、ここと、ここも」
記事はどれも変死や行方不明に関する事件の概要。
年齢や性別はバラバラ。男が多く、子供はいなかった。
「これは全部ミズチがやった」
一概には信じられない言い分だったが、直人は嘘だとも思えなかった。
嘘をつくメリットもない。
「信じられない。それとも、僕に通報でもさせたいのか?」
「何も証拠はないから、あたしは警察に捕まらない。これからも捕まる事はない。木徳くん、あたしがその気になればあなたもこうなる。まずはそれを信じてほしい。脅し」
「ふざけるなよ……。それで和解のつもりとか」
「その上でこれから話したいの。ミズチ達の今後を」
彼女の顔は真剣そのものだった。
きっとこのまま押し切られると彼は感じていた。
「あたしね、木徳くんのお話が凄く気にいったみたいなの。面白いとは思わなかったのに。だからあなたを殺すのもやめにしたい。今はそう思ってる。でね――」
――ミズチの身勝手な言い分には腹がたつ。面白いとは思わなかったのにという部分が特に……。
なのに直人は嬉しくて複雑な心境だった。
「――ほんとは他にも理由があるんだけど、後で話すから。とりあえず決めてほしい」
「決めるって何を」
「今後、ミズチの為にお話を作ったり聞かせてほしいの。そうしてくれたら、あたしは木徳くんを殺そうとはしない。気分的にも絶対できなくなるだろうから」
複雑な心境になりすぎて彼は言葉が浮かばない。
――こんなの頭がおかしくなる。
だが選択の余地もない気はした。
「返事……待ってくれよ。クソッ。頭の中がぐちゃぐちゃだ。これも黒川ミズチ、あんたのせいだからな。それに質問もさせてほしい。答えてくれるならちゃんと返事はする」
「なんでも質問して。答えるから。それが終わったら、またミズチから話がある」
――自分はストックホルム症候群にかかっていて、彼女はリマ症候群にかかったのかもしれない。
それともだ。
頭のおかしい女がいて、僕も頭がおかしくなってしまったのかもしれない。
「本当に殺したのなら、どうやって殺した?」
彼女はすらすらと答える。
「あたしが死んでほしいと思ったから。あたしが殺したいと思った相手はね、それですぐ死ぬの」
「そんなのって……ありえない。だけどあるのか、あの時の……」
ミズチはベッドの上に腰かけてリラックスしていた。
二人ともケーキや紅茶にはまだ手をつけていない。
彼が彼女の様子を一瞥し、一考する。
いきなりならとても信じがたい話だった。重度の中二病女だとか思うかもしれない。
現状でもそう見える所はあるが、直人は己の目で見た何かを信じた。
「……あの鉛筆の現象、その話は関係してる?」
「直接ではないけど関係はある。ちゃんと説明するね」
一拍おいてミズチが聞いてきた。
「木徳くんは魔術って分かる?」
「魔術……? ああ、知識としてある程度なら。僕は小説を書いてるから」
「じゃあ、魔術師って存在も分かるね。別の言い方だと魔法使いかな。けど魔術師が近い。もっと近いのは魔女――」
彼女がハッキリと言い放つ。
「――ミズチはね、魔女なの」
『ファニー』は「おかしい、おかしな」「不正直な、欺くような、不審な、怪しい」という意味があります。
『ストックホルム症候群』は被害者が監禁者に情を持つ心理状態で、『リマ症候群』は監禁者が被害者に情を持つ心理状態です。