第六話「雨上がりの訪問者」(ロゴあり)
脱出後の木徳直人は学校を数日休んでいた。
病欠として親に連絡してもらったが、身体は健康そのものだった。
彼は専ら二階にある自室に篭っていた。
読書をしたり、ゲームをしたり、映画を観たりした。
今日もテレビをつけたままインターネットの閲覧をしている。
身体は何ともなかったが、心の方は健康だと言えなかった。
直人はこれが正当な休みの理由になるとも考えていた。伝えていなくても。
伝えられるはずもなかった。
窓から外を眺めれば、夕方近くでもまだ雨が降っている。
鬱々とした気持ちに余計拍車がかかった。
忘れたくて色々な事をしていたが気分はなかなか晴れない。
あの夜の出来事、恐怖の体験を思い出してしまうのだ。
以前の様に心に引っかかるというレベルではなく、忘れたくても忘れられない。
もしかしたらこれがPTSD――『心的外傷後ストレス障害』の入り口なのかもしれないと彼は思った。
気になる原因はもう一つある。今の直人はその件を考えたくなかった。
もやもやした気持ちを抱えながらベッドの中へ潜り込む。
安全地帯に逃げ込んでも、彼の頭には次々と考えが浮かんでは消えた。
もしも学校に行けばそこには殺人者がいる。
同じクラス、すぐ身近に。
瞬間。
黒川ミズチの容姿がありありと浮かんでくる。
平気な顔をして毎日授業を受けているかもしれない。
今まで通りの優等生、あの綺麗な作り笑顔を周りに振りまく。
――警察に通報するべき? 証拠が何もない。いや一応アレがあるか。けど証拠には……今は考えたくない。
死体はどうだろう?
「既に隠されたんだろうか」
――見つかるなら放っといても見つかる。あいつが痕跡を残しているかは疑問だ。
もし真面目に学校へ出向いた僕なら、マヌケにも簡単に殺されてしまうかもしれない。
その後は死体も上手く処理されるか、変死体になって見つかる――
不吉な未来が直人の頭にしっかりよぎる。
いずれは登校しなくてはいけない、そう考えただけでも憂鬱になった。
風邪をこじらせたという理由もいつまで続けられるか不安になる。
「ああ! もう!」
堪らなくなって声が出た。
これも少しはストレス発散の役に立つ。
結局彼は現実逃避するしか手がなかった。
そうして直人の執筆への意欲やアイデアの泉もどんどん失われていた。
ドアをノックする音がする。
続けて声が聞こえてきた。
「直人、お母さんもうちょっとしたら買い物にいってくるからね」
「分かったよ!」
元気よく返事をした。
できるだけ心配はかけたくなかったからだ。
きっかけにベッドから起き上がる。
彼は自分の机の引き出しを見つめた。
憂鬱で苦々しく思いながら、気持ちを切り替えて机に向かう。
そして引き出しを開けた。
銀色のナイフ――
手のケーブルを切った時、無意識でナイフを腰に差したのだ。
そのまま走って逃げ帰った。
「なんでこんな物……」
先に立たないのが後悔だった。
簡単に捨てる事もできなかったから机の引き出しの中に隠していた。
直人がいちいち眺めたい代物でもない。
記憶が呼び覚まされるからだ。見えない所に保管しておきたかった。
しかし彼は勇気を振り絞って行動の糧にした。
銀色のナイフを手に持ってよく調べてみる。
刀身は両刃。刃渡りは約十五センチメートル。
目を凝らすと、刃の所々にギザギザが刻まれている。
鍔は片側が刃の方へと少し曲がり、もう片側も柄の方へ少し湾曲していた。
柄の部分も変わっている。細かな模様とは別にギザギザの跡が入っていた。
痕跡は総じて後から入った風に感じられる。
ナイフは全体が銀色を基調にしていた。素材が銀製かどうかまでは定かではない。
前に触れた際に感じた違和感の原因。それが何なのか、直人は確信を得た。
あの時、ケーブルを切ろうとしたナイフは空気を持つかの様な軽さだった。
今はずっしりした重量が感じられる。これで違和感の正体に気づいた。
刀身も柄も真っ直ぐなのにどことなく歪んで曲がって見える。
目の錯覚を利用しているからか、全体的には炎のデザインとして感じられた。
それにしても、こんな切れの悪そうな刃でよく切断できたと感心する。
不思議といつのまにかナイフへの嫌悪感は薄れてきていた。
どこかの誰かがナイフで殺されたかもしれないのに、彼は銀色の輝きに奇妙な魅力さえ感じている。
「直人ぉ」
ドアの向こうから母親の上擦った声がして、直人の身体がビクンと跳ねた。
彼は驚いている。母さんはまだ買い物に行っていなかったのかと。
急いでナイフを中へ戻して引き出しを閉じた。
そして返事をする。
「何?」
「開けるわね直人」
ドアを半分程度開けた母親が顔を覗かせた。
企みを秘めている、妙にニヤニヤした顔つきだ。
「お客さんがきてるわよ。雨もふってたから玄関まで入ってきてもらってるの」
直人は母親の言っている意味が理解できなかった。
――お客さんって一体何だ。
「直人あんた、彼女でもできたの? 隠れてなかなかやってんのね」
「……は?」
突然冗談めかして冷やかしてきたのは伝わったが、彼には恋人だとかいるはずもない。
「クラスメイトの子だって。あんたのお見舞いだってきてるから」
直人は言われている話がまだ頭で把握できなかった。
耳では聞こえているのに内容の理解が追いつかない。
湯田黄一が来たというのならまだ分かる。
そもそも湯田もお見舞いにくるなんていう柄ではない。一体何なんだと彼は記憶から人物を探し始めた。
クラスで仲が良い女子はいない。女子と頻繁に話す方でもない。
最近話した人物を思い出せば嫌悪感が甦る。
「えらく美人さんがきてるから私びっくりしたわよ。ほんとびっくりよ。玄関でお待ちかねだから、あんたも一緒に出迎えなさいな」
膨らんでいく不安を一旦胸で押し殺す。部屋を出る。
焦燥感に駆られながら階段を降りて玄関に向かった。
玄関にいる人物を目にした瞬間、直人は心臓が止まりそうになる。
確かに制服姿のクラスメイト、飾り気のない女子生徒が立っている。
――ミズチ
「改めて、こんにちは。木徳くんのお見舞いにきました。黒川といいます」
一礼と笑顔で挨拶してくる。
学校での姿と同じで眼鏡もかけていない。
彼は絶句していた。
「あらあら、礼儀正しい娘さんねぇ。ありがとうねぇ」
「木徳くんに渡したい物と貸した物もあって。はい、これ。学校に忘れてたよね」
ぎこちなく受け取る。
それは直人のバッグだった。
確かにミズチを尾行しようとして、邪魔になりそうなバッグを学校に置いていた。
帰り道に取りに寄るか、そのまま翌日まで置いておけばいいと思っていたからだ。
情緒不安定だった彼はそれを今日まですっかり忘れていた。
「お見舞いの品としてケーキも持ってきたんです」
「あらぁ! そんな気をつかわなくていいのにー!」
母親は嬉しそうにケーキが入った袋を遠慮なく受け取る。
黒川は慎ましやかに左手で右側の髪を掻き上げた。その耳は綺麗な形をしている。
「木徳くん、思ったより元気そうでよかったです」
「ありがとうね。それにこんな所で立ち話もなんだから、あがっていって」
「いいんですか?」
「雨がまだふってるといけないし、さあさあ、どうぞどうぞ」
「ありがとうございます。ではお邪魔します」
彼女が靴を脱ぐ。
雨はもう上がっている。
直人は吐きそうになった。
PTSDの解釈は劇中の人物の考えに基づき、本来の症状とは別です。