第四話「脱出」(表紙絵あり)
ミズチみたいな人間からでも「面白くない」と言われたら、木徳直人はそれなりに気落ちもするタイプだった。
「――けど、あんな話を聞いてたら不思議。なんだか楽しい気持ち。そもそも知り合いが考えた小説の話を聞くなんて初めて」
感覚優先で生きているタイプ、更には進歩した野生児みたいな女だと彼は感じた。
――大体これが知り合いと言えるのか……。
計画は好転した。けど助かるかどうかはまだだ。助けてくれるかどうか……そんなのを聞くより、生き延びる為の手を打つ。
「さっきのお話、文面で今読んでみたい。どこにある?」
彼女から問われる。
遂に待ちわびていた質問が来た。答えを用意していた直人は即答する。
「ケータイに入ってる」
「携帯電話はどこ?」
「ミズチに取られてないなら、ズボンのポケットの中にある」
「あたし知らない。じゃあポケット」
ミズチはナイフを床に置いてからスッと立ち上がった。
彼の方へと近寄ってくる。
グッと近づかれて、目の前に彼女の顔があった。
白く透き通った肌。きめも細かい。
ふと触れてみたい衝動にも駆られる。
「携帯電話、見せてもらう」
「ああ、どうぞ」
密着状態だった。こんな状況でもなければ下心が成就するのかもしれない。
しかしそれどころではない。ときめく相手でもなかった。
「横のポケット? 後ろ?」
「後ろの」
行動に備えて直人の思考が加速する。
――こうなるのは予期していた。
誘導して仕向けたから。
ストーリーを聞かせたら無罪放免になる結末。そのプランAにも僅かな期待はあった。
だがまずは興味を持たせるのがプランAの役割。
本命との二段構え。
ポケットの中にある携帯電話へ興味を向けさせる。これが本命のプランB。
ミズチが興味をもてば必ず携帯電話を取りに来る。
携帯電話はズボン後ろ側のポケットの中。
取るには互いに接近した距離になる。
そこまでいけば油断もするだろう。現にナイフを手放した。
後ろ手でポケットから携帯電話を取って差し出すつもりもなかった。
彼女みたいな人間なら自分の手で直接取りに来るはず――
かくして最接近を果たす時。
そこが最後のチャンスだった。
彼は数瞬、油断したミズチの胸が案外大きかった事に気づいた。
すぐに煩悩を振り解く。
直後――
頭の中で火花が散った。
身体を引く。
バネの様に全力で毒婦の腹部にタックルした。
肩が鳩尾に食い込む。
「うぐ……!」
低い呻き声がして、彼女が倒れた。
もって三十秒――
猶予は僅かだ。
次の目標は床畳の上に置かれたままの銀色のナイフ。
直人は飛びつく形で刃物の元へ滑り込む。
後ろ手でなんとかナイフを拾う。
彼がナイフの柄を掴んだ一瞬――妙な違和感があった。
そのナイフは刃や鍔の形状からしても変わっていた。
だがそんな違和感を気にしている時間は到底ない。
手に取った動きの流れのまま、足首を縛っている黒いケーブルの切断にかかる。
後ろ手では切り辛かった。
しかしとにかく急いだ。
刃を当てる。
ノコギリの要領で素早く動かす。
今までこんなに急いだ経験はないという必死さで後ろ手を動かしてケーブルを切る。
刃の摩擦が丈夫なケーブルに打ち勝つ刹那――
「ブチン」という音。
直人にはその音がゲームで流れる『勝利のファンファーレ』に感じられた。
やっと足が自由になったのだ。
――これで逃げられる!
思った途端、猶予の時間は案の定だったと判明する。
ミズチが立ち上がる姿が彼の視界に入った。
彼女の立ち姿は、まるで幽霊が燃えている雰囲気だ。
そこにはもう油断の“ゆ”の字も存在していないのが分かる。
「近寄るな! 来たら刺すぞ! 来るな!」
直人は威嚇と牽制を兼ねて必死に叫んでいた。
だが後ろ手ではナイフは上手く扱えない。
右を向けば、すぐ先にはドアがあった。
今すぐドアに向かって駆けるべきだと感じていた。
しかし直人は思い出した。
背を見せて逃げ出そうとした、あの時の痛手を。
追いつかれてまた後ろからやられたら――元の木阿弥だ!
だから彼は決断した。
もう一度勇気を振り絞って体当たりを仕掛けるべきだと。
後ろ手に持っていたナイフをその場に放り出す。
「うおおおお!」
雄叫びを上げて突進した。
なりふり構わない助走をつけた体当たり。
威力は先程のタックルよりも増している。そのはずだった。
ぶつかった時の感触が浅い。
ガードされたのではないか――
直人は強い不安に駆られた。
それでも力なら男が勝っている。
ミズチの身を壁際まで押し込んだ。
これで一旦離れて――
彼女の右膝が跳ね上がる。
硬い膝が胸を強打した。
膝蹴りを受けた彼の身体はミズチから離れる。
上半身のバランスが崩れてよろめく。
彼女が右足を軽く上げた。
瞬間的に下着も見える。
更に素早く繰り出された動作はまるで鞭――
放たれたしなやかな足が直人の側頭部に直撃した。
勢いで一瞬身体が浮く。
空中で一回転して床畳の上に落ちた。
頭へのダメージと床に叩きつけられたダメージ。
二重の衝撃。
一瞬気が遠くなって気絶しそうになる。
「――殺してやるッ!」
ミズチの怒声が聞こえた。
彼は気力をふり絞って意識を呼び起こす。
段々と視野が戻ってくる。
気づくと、彼女は直人の身体の上に跨がって馬乗りになっていた。
「殺す! 今すぐにッ――」
こちらの胸ぐらを掴んで息巻いている。
――早く立ち上がらないと……。
頭ではそう思っていたが、まだ身体に力が入らない。
彼女は凄まじい形相で直人を睨んで罵倒した。
「――死ねマヌケが! くたばれッ」
発せられた強い殺気の様な何かを彼も肌で感じた。
それよりも更に部屋の中にある空気自体が重苦しく感じられる。
ミズチの体重以外に、何かプレッシャーめいた空気が全身を押し潰してくる感覚。
「僕は……こんな……とこで……もっと書く……生きるんだ……もっと……」
生きたいと願う口から、無意識に未来への切望が溢れ出る。
だが直人にはそれ以上声を出す気力はなかった。
その時――
突然、彼女が叫びだした。
「――なんっ……で! ダメッ、だ……!」
その相貌がみるみる歪む。
「こっ、のッ――!」
口走ったミズチは苦しんでいる様子だった。
息苦しそうに胸を押さえながら彼から離れていく。
次には頭を押さえていた。
艶のある髪をぐしゃぐしゃにしている。
果てには天を仰いだ。
起こったのは声のない咆哮だった。
天を衝く慟哭めいた姿。
彼女は口を開けて叫んでいた。
その口から音は出ていない。
直人は叫び声が聞こえた気がした。
立ち上がる。
痛みを抱えながら、よろよろと歩き出した。
彼は落ちているナイフで手のケーブルを切って、完全に束縛を解く。
見ると、ミズチは横向きで倒れていた。
何が起こったのか分からない。
自分の掌を彼女の口に当ててみる。
――息はある……。
均整のとれた顔と艶のあるスタイルのまま気絶した女。
――死んではいない……。
直人はこの女にいっそ唾を吐きかけてやりたかった。
しかし自分の性には合わない行為だとやめにする。
バカの様に気絶している悪女をそのまま置き去りにして、忌まわしい死の部屋から飛びだす。
彼は駆け出した。
走る。
とにかく走った。
一心不乱。
息が上がる。
胸も苦しい。
それでも走り続けた。
どこをどう走ったのか。
必死で走った直人の記憶は定かではなかった。
彼はいつの間にか自分の家に辿り着いた。