2-3 よそ見してるとあぶねぇぞ
曽根崎翔の八百屋からの帰り道、ずいぶん日が伸びたなと、袋を下げる自分の影を見つめながら、トボトボと家路をたどっていた。平瀬の家の近くを通る際、ふいに去年の暮れの悶着から今日までの五か月間を思い出していた。
もう一人でいい。誰も構ってくれなくてもいい。人も霊も同じだ、自分のことしか考えてない。なら自分も自分のことだけ考えていればいいじゃないか。
朱莉はあの事件以来、腐りながら熟成していた。
器用にもなれないし、人と真剣に付き合う方法だって判らなかった。それを鞠に相談するのも癪で、一年生の三学期は心を閉じて、学生はすべからく勉学に励むものだと、自分を取り巻く根拠のない陰念を振り払い、誰とも接することなく大人しく過ごした。
そして、自分がそんな境遇になって初めて気づいたのだった。
誰とも会話せず、心を通わさず一日中机に突っ伏している大塚聡子という女子がクラスに居たことに。けしてクラスの中心に位置することはなく、誰よりも腰が重く、誰からも存在意義を認められていない、やもすれば、その理解不能な行動故避けられている。
そんな女子がいることに今更気づいた自分は、同じレベルに落ちたのだと実感した。
だがそれが何かの助けになる訳でも、励みになる訳でもない。新学年になれば変えられるというほど、楽観的にもなれなかった。
いきなり金髪になったせいだろう。下校途中で何人かの女子に呼び止められ、大丈夫? 何か悩んでる事があるなら相談にのるよ、などと言われたのを、なんでもないと振り切り。男子グループからは、オレ金髪好きだぜ、かわいいじゃん、などと囃し立てられたのを無視して通り過ぎ。戸田美玲からは、今からファミレスでみんなで試験勉強するんだけど一緒にどう? などと誘われたが、断った。母からお使いを頼まれたから、と言って。
これでまた一人になる。嫌われて孤立する。腫れ物に触れるような目で見られて、避けられて――――また、失敗した。
大通りの横断歩道にも事故で死んだ女性の霊がいる。朱莉は“彼女”にも認識されており、やはり干渉される。具体的に何をされるわけでもないのだが、だいたい何かを聞いてほしそうに、こっちをじっと見つめてくるので、やはり気分はよくない。
ところが今日はちらと見ただけで、すぐに目を逸らされた。おかしいと思ってわざわざ自ら"彼女"を見つめてみる。そうするとどうしたことか、向こうは意識して目を逸らすのだ。意識的に向こうが避けているようにすら見える。
首をひねり不審に思いつつも、横断歩道で信号が変わるのを待っていた。
すると向こう岸の歩道に、見慣れた学生服姿を見つけた。
焦って踵を返そうとするも、振り返ったその背後には“彼女”が佇立しており、さすがに霊体をモロにすり抜けるのを躊躇い、諦めて前進する。
正面の人間から声をかけられるのを拒むかのように、不自然な首の角度で顔を逸らして歩く。
「おっおい……」という声とともに逸らした顔の側面にどんと何かが当たった。いや、わかっている。当たったのは自分で、その相手は身長百八十超のテニス部エース、平瀬健二の胸だった。
「よそ見して歩いてるとあぶねぇぞ……っと――――よぉ周防、久しぶりじゃん。どうしたんだよそのアタマ、うちのクラスでも話題になってたぜ?」平瀬は朱莉の顔を覗き込むようにして笑いかけてきた。
「……あぶねぇと思ってるなら、あんたが避けなさいよ」
朱莉は体を横に避けて、平瀬の腕を取り、脇の下を強引にくぐり抜ける。
「ちょ、ま、お前が速足で突っ込んできたんだろーが」
「テニス部ならアタマのおかしい奴を、ひらりと躱すくらい造作もないでしょうに」
そうは言ってみたものの、仕事帰りのサラリーマンやOLが一斉に渡ってくる横断歩道上でそれほど自由度がないことは承知していた。
朱莉が平瀬にこういった態度を取らざるを得ないのは、あの悶着の引き金が、この彼を中心とした痴情のもつれであるからに他ならない。完全に逆恨みではあるが、逆恨みくらいさせてもらわねば救われないと思う。
「じゃ、急ぐんで!」とにべもなく平瀬を振りきり、向こう岸の歩道へと歩いてゆく朱莉だったが、その背中に「ちょっとまてよ」と声が駆け寄ってくる。
横断歩道を渡り切ると、速足で家とはまるで逆方向を往く朱莉。それを追い、隣につけて平瀬は早口でまくしたてる。
「そりゃよ、いろいろあったけど避けることねぇだろ! なんだよその態度は!」
「別に避けてない。通学路を変えただけじゃん」ただ前だけを見据えて、同じく早口で言葉を返す。
「それが避けてるってことじゃないのかよ!」平瀬は朱莉の顔を覗き込むようにして声のトーンを上げる。
「うるさい!」
「んだ……っよ、俺だって随分なとばっちりなんだぜ! 二股かけてるだの、女たらしだの、あることないこと言われてよ!」
朱莉は歩みを止め、平瀬に向き直り、まっすぐにその目を見据える。
「だからうるさいって! だったら――もう、あたしに構わないで!」
両手に持った野菜の詰まった袋を振り回す、朱莉の気迫に平瀬は一瞬たじろいで身を引いた。その目は見開き、呆気にとられ二の句が継げないようだった。
朱莉の胸に細い針が突き刺さったような、わずかな痛みが走った。
他人の弄する醜悪な噂の被害者は、この平瀬も同じだ。そんなことくらいはわかっている。でも、だからといって、彼を救ってやることも弁護することもできない。そもそも通学路で彼との接触を拒まなかったのは、麻尋の件があったからだ。避けるとか避けないとか以前に、もともと縁のなかった話だ。鞠だってそう言っていた。
朱莉は胸が苦しくなる前に、踵を返し全速力で駆けだした。忘れろ、全部忘れてしまえと。何もなかったんだとばかりに。
このままの気持ちじゃ、わんさと霊が寄ってくるに違いないと思った。笑え笑え。出来るだけ楽しいことを考えてみたが、笑えなかった。だったらと、くだらない人間関係が清算できてせいせいしたと、勢いよく息を吐いて笑ってみたが、それは乾いてかすれた、ただのため息にしかならなかった。
瞳が潤んでくる。涙を零したら負けるような気がした。
息を切らし家の玄関をくぐった後でようやく落ち着きを取り戻し、「ただいまー」と言いながら、どたどたと廊下を歩いて部屋へと向かう。その途中で"兄"とすれ違うが、朱莉のひと睨みで(ひッ)と小さく悲鳴を上げ目を逸らし退散してしまう。
「ふざけんなっての、ちょっと顔見知りになったからって馴れ馴れしい。向井の件がなけりゃ、わざわざ口きいてないってぇの!」朱莉は涙を零すことなく、愚痴を零すことで復活した。これが自分だ、自分らしいやり方だと。
「誤解を解こうだなんて女々しいことは言わない。ああ、誤解されて結構、あたしはひどい女だよっ! どいつもこいつも金髪になったぐらいで、ご機嫌取りみたいにあたしの様子窺ってきやがって!」カバンをベッドに投げつけて、次いで自身の体も投げ出した。しかしその勢いで頭を壁に打ち付けて、しばらく頭を抱えて悶絶する。
「くっそ……壁まであたしの敵かよ……」
(朱莉ちゃんさぁ、霊視が半端なのは訓練してないから仕方ないけど、もうちょっと察するとかない訳?)鏡の中から鞠が頬杖をつきつつ話しかけてくる。
「なにがよ!」
(いやさ、こういうの私がどうこう言うと、反則だから言わないけどさぁ、すっごく残念なことになってるわけよ、いまのあなたって)
「むっぉおお! 鞠さんまでそういうこと言ってあたしを貶めるか?」
(――じゃあぁなくてぇえ!)
「もういい! わけわからん!」と、背後の鞠のことを鏡越しににらみつける。
(あらぁまあ、そんな顔しないの、ガラ悪い)
背後から覗き込んできた鞠が言うように、育ちが悪そうな感じに見える。
金髪の、一昔前の不良少女がそこにいる。
目をさらに座らせてみる。
「けッ、なんだよ……髪の色が金色だからって人間の中身が変わる訳じゃないじゃん。ま、北坂も学校の先生様だからさぁ、外見で判断するしかないんだろうけどさぁ、ちっせー男だよっ! クラスの奴らも変なら変って言ヤァいいじゃんか! そんで異物だって無視すりゃいいじゃんか! 関わるなって! クラスの女子が突然不良になりましたー、道踏み外しちゃいましたー、積み木崩しって奴ぅ? みんなでなんとかしようよ、更生させようよー、とか今頃ファミレスで噂してんだろ、どーせ!」
(まぁ、自意識過剰にも程があるわねぇ)
「普段やらないことをやるからだよ、何だあれ、気持ち悪い」と言いつつ、それに比べると、どうも今日は霊が寄ってくる数が少ない。とても歓迎すべきことではあるが、思い当たるフシはない。
階下から母親の声が聞こえたが、降りてゆく気になれず、ベッドの上でふて寝をしているうちに、本当に眠ってしまっていた。
夜半過ぎ、空腹で目が覚めてしまい、よろよろと階下に降りてゆくと、ダイニングに朱莉が食べなかった晩御飯がラップをかけた状態で残されていた。両親はすでに寝てしまっているようだ。寂しいのでテレビをつける。
深夜枠で、去年ロードショウされた邦画が放映されていた。タイトルくらいは聞いたことがある、という程度の作品だ。
親の都合で転校した学校が県下最悪の不良校で、成績優秀で大人しく優しい主人公の少年は自らの容姿を自衛のために不良へと仕立て上げ、周囲に溶け込み、やがて不良グループのリーダーとして立身してゆく青春ドラマだった。
「成績優秀なら、そもそもこんな頭悪そうな学校に転校しなくてもいいじゃんかよ、なんだこれクッソくだらねぇ。設定のツメも甘い甘い」レンジで温めたお好み焼きをほおばりながら、テレビに向かって容赦なく罵る朱莉。
(最近この子よく見るわよねぇ、かわいいわねぇ)鞠の"この子"というのは主人公を演じる俳優の事だろう。
「神月樹って奴でしょ」
(へぇ、朱莉ちゃん知ってるんだ?)
「向井の奴がファンだって言ってたよ。キメぇ、こんなオカマみたいな奴の事いいって言ってるから、あんな性格ねじ曲がってるんだよ」
(陰念深いわねぇ……)
神月樹演じる主人公は、もしも自分が不良でないことが知られたら、標的にされることは必至だと、自ら不本意な姿に身をやつした。
しかし、やがて築きかけている不良達との友情を裏切り、壊してしまう事に抵抗を感じるようにもなっていた。主人公は病気の母をいたわる傍ら、かつて仲の良かった人々が自分を避けてゆくことに心を痛めながらも、周囲の人間を威嚇しながら、日常生活を送らねばならなかった。
ところがある日、そんな彼に事件が降りかかる――。
残り三十分のところで結末が見え始めた朱莉は、興味を失いテレビ画面から目をそらした。
「むぅ…………。ねえ、鞠さん。もしかしてさ、霊も元々は人じゃん? 関わりあいたくない人間には寄ってこないとか、もしかしてさ――そういうことってある訳?」夕方、八百屋の曽根崎翔が言っていた話を思い出していた。赤いトサカ頭の――危ない奴には近づくな、という話。
(ん……まあ、あるよね。霊にも好き嫌いってのは。なにもさ、好き好んで苦手な人種には関わることはしないわよね)
「――ええ? 結局霊も見た目?」
(見た目というか、雰囲気というか……)
学校からの帰り道、罵声を浴びせる老婆にスルーされ。八百屋から大通り、平瀬と遭遇して振り切り、川のほとりを駆けたが溺れる少年の霊は干渉してこず、そして、最も嫌な三丁目の変態霊もその姿を現さなかった。駆けながら、あの盤石の霊障三セットが起動しないのは何かが変だと思ってはいた。
(でもね、逆にそんななりでも関わってくれる人ってのは――――ん? どうしたの?)
朱莉はテレビ画面を見据えたまま、肩を震わせていた。
「あっはは…………なにそれ? このなりが怖いってぇ? 近付き難いってぇ? 何でも許してくれそうな黒髪の処女ならお話してくれそうだってぇ? 純真無垢で世間知らずで、悪いおじさんの言うことなんでも聞いちゃうお利口お嬢ちゃんだけが、ボクチャンの恋人にはふさわしいんでしゅー、ってか!」
(……朱莉ちゃんが何を想定して言っているのか解かんないんだけど、とりあえず世間知らずで処女なのは朱莉ちゃんも同じよ)
「ふっ、あたしはこの女子高生というブランド期間中に大人になるのよ。花を咲かせるわっ!」
(ハァ……それは構わないけど、実はつけないようにしなさいよ?)
朱莉は食器をシンクに持ってゆくと、二階の自室に上がり、そしてマガジンラックに押し込んでいたアルバイト情報誌を引っ張り出してページをめくり始めた。