1-3 つまんないんだよ、この世界が
「もう、朱莉。家の中では帽子脱ぎなさい。行儀の悪い、それに暑苦しい」ニット帽に金髪を押し込んで隠していたら、案の定母に言われた。
「ほっといてよ、そういうの古いよ。それに、これはあたしの守護結界なの!」
「なあに、また鞠さんから何か教わったの? ところであんた、最近鞠さんと上手くいってるみたいじゃない。良かったわって、お父さんとも話してたのよ」
朱莉の両親はともに霊感応力者である。鞠の姿も声も認識できないが、存在は認知されている。しかし、親子の縁故なのか、彼女の霊感応力故なのか、いつでも朱莉のことはお見通しである。
鞠のことなど直接話したこともないのに、まるで以前からわかっていたかのように知っている。おそらくはこの帽子の下に何が隠されているのかも、すでに気づかれているだろう。
「周防ぉ、教室では帽子を脱げ」
次の日、登校してクラスメートからも散々指摘されたが、頑として脱がなかった。だが朝のホームルームで担任に名指しされてしまえばそうもいくまい。
ええいままよと、帽子をとると、教室内がざわめいた。当然だろう。
「なんだ……その金髪は」担任北阪の刺すような視線に膝の関節が緩む。
だが、言い訳は考えている。
「あの先生ご存じでしょうか――――人はストレスの鬱積が極まった末、一夜にして髪の色が抜けるという不思議現象があるようでして、あたしも朝起きるとこの通り……」視線は教室の端から端を何度も元気に泳ぎ回っていた。
「周防、こっちへこい」朱莉はその場で北坂に呼ばれ、衆目に晒されながら首根っこを掴まれて教室を後にした。
一限目から生徒指導室に缶詰めにされ、肩幅の広い体育教師、駒沢と担任の北坂にこんこんと説教を食らい、反省文を書かされ、連休明けまでに戻して来いと厳命されて、昼にようやく解放された。
教室に戻った朱莉を待っていたのは、微妙な空気感を纏った愛想笑いである。朱莉はそれらの視線と目を合わさないように、自分の席へと一直線に向かう。
これは恥ずかしい。見た目はロックでパンクでアナーキーだが、皆の向ける哀れみにも似た視線は、不祥事で捕まった一発屋タレントの末路を見る目のようである。
耐え切れず朱莉は――今日は忘れなかった――弁当を携え教室を出て屋上へと向かった。
昼時に限り、四階建ての校舎の屋上が開放されているのはこんな時にありがたい。天気のいい日などはゴザを敷いたりして昼食を摂る者も少なくはないが、今の朱莉のように教室に居たくない時の逃げ場としてもちょうどいい。
一人になれるとは言えないが、屋上にいるそれぞれは常に一定の距離を保って、パーソナルスペースを確保している。
広い屋上の中でも、朱莉のお気に入りの場所が校舎の隅の階段室の裏手だ。そこを選んだのは、景色や環境がいいからではなく、“彼ら”のことが視界に入らないのはこの場所だけだったからだ。
"彼ら"というのは生徒のことではない。実は屋上には、ところどころに霊が立っているのだ。
とりわけ校庭に面するフェンス脇には、制服を着た男子学生の霊が立っていて、昼の決まった時間になると飛び降りるという行為を、延々毎日続けている。他にはフェンスの上に昇ってふざけている霊もいて、こいつもバランスを崩して必ず落ちる。悲壮な顔をして若い男性教師の霊も一人飛び降りている。あとは、飛び降りこそしないが、建物の角に立ち、不穏な顔でじっと屋上で戯れる生徒達を見ている女子生徒の霊が居て、かなり気分が悪い。
確認できるだけでも、三人も学校関係者が飛び降りているというのに、屋上を開放したままの学校の肝っ玉の太さは大したものだといえる。
しかし朱莉にしてみれば、知らぬが仏とはいえ、そんな霊たちの傍で楽し気に食事をしたり、駄弁ってる一般生徒は命知らずだなと思う。
屋上に限らず特定の場に居付く、彼らのような霊のことを地縛霊という。地面でなくとも地縛霊というのだ。
さらに言うと地縛と書くだけに場所や土地に居付くと思われがちだがそうとは限らない。霊能界の定義では、一定の場所や、位置、特定の建物や、特定の事情と思縁を結んで残念し、霊界に昇天できない、人の意識を残したまま完全な霊体になれない者達、いわゆる現世と常世の間の幽界をさまよう『幽霊』のことをいう。業界ではこれをより専門的に『乖離意識体』などと呼ぶ。
場所に憑りつくことが多いのは、彼らが物理身体の意識を捨てられないためで、認識しやすい、すなわち視認できて自身との相対座標を得やすいという理由があるからだろう。実体感がないからこそ、無意識に存在証明を場に求めるというわけだ。
地縛霊の居つく場所というのは、地縛霊が錨をおろした場所である。その場を『念力場』といい、霊自身の物理身体にあたる要素を形成している。したがって、念力場に触れるという事は、地縛霊に触れるのと同じで、そうなればおのずと実身体を持つ生者でも、地縛霊のマイナスの波動に晒されて、体の調子を悪くしたりする。最悪はその霊に引っ張られたりして同じ運命をたどったりもする。
よく、事件や事故などで、忌み場となった場所を、除霊もせずに壊したり、工事を行ったりすると呪われる、祟られる、と言われる事があるが、まったくの迷信でもない。
あれらは念力場を失った地縛霊が居場所を求めて手近な者に憑依したり、混乱して癇癪を起して暴れまわる現象が起きているのだ。古木や奇岩石などに依付く者に至っては特に霊障の規模が大きいことが多い。
「おー、今日は樋井台がよくみえるねぇ」
おにぎりを口にした時、右斜め上からぼんやり声がした。
見上げてみると、そこには一人の女子生徒がいた。霊ではなく実体だ。たしか一年の時に同じクラスだった「大塚……さとこ?」うろ覚えだった。
大塚聡子は一年のクラスの中では浮いていた。ロングの髪は入学当初から茶色がかっており、耳たぶにはピアス穴もある。ほとんど誰とも喋らず、動きが緩慢で、いつでも半眼で目つきが悪く、本人にそういう気がなくとも、気だるげな態度から素行の悪さをにじみ出していた。
いつも独りで登下校し、休み時間はずっと机に伏して寝ていた。どうやら今も、昼食時は教室ではなく屋上で摂っているらしく、これまでにも何度か見かけたことがある。
そんな彼女が口を開いたのは驚きだった。それも、おそらく朱莉に対して話しかけてきたものだ。
朱莉の通う高校は西側の笠鷺市と東側の与鶴市のちょうど市境の山上にあり、天気のいい日は屋上から隣町の笠鷺市が一望できた。朱莉が通う東関高校という校名は、昔の街道に設置された東側の関所、すなわち笠鷺市側に入るための関所が置かれていた場所であるため、それにちなんでと名付けられたという。
「ねえ、知ってた? 元はあそこ山だったんだって」ちらと振り向き加減で大塚が言うがコメントに困ったので、「へぇ、そうなんだ?」と相槌交じりの返事をする。特に今まで考えもしなかったことだが、なんとか台なんて名前がついているなら、大抵はもともと山だろうなと思う。
「戦争のとき。墜落した爆撃機があの山に激突して、上の方がなくなったらしいよ。その時までは頂上にすんごい大きな銀杏の木があったんだって。秋になるとここからでも黄葉した木が見えたって」
隣町の笠鷺市にある樋井台という、高台の高級住宅街の場所にあった樋井山は、標高百メートルほどの低山で、扇状地の笠鷺市の中心に不自然に屹立する様子から、かつて戦前までの地元民からは、祭事などで何かと引き合いに出されるシンボリックな山であった。
「へぇ……」物知りなんだな、と言外に目を向ける。だが、そんなトリビアを自分のことのように話されても困る。
大塚聡子はそれを受けてか、朱莉の隣に腰をおろし、コンビニ袋からパンを取り出した。
「いつもここで?」朱莉は彼女の横顔を見つめて訊いた。
「――うん、まあね」ほかに人が居ないからという以外に特に理由はない、と言いたげに、目を合わせることなくぼんやり応える。
大塚聡子とまともに会話したのはこれが初めてではないだろうか。そんなことを考えながら、朱莉もおにぎりを口に頬張る。
「あんたさ、おもいきりいいねぇ」突然彼女が愉快な声を出して言った。
「な、にが?」
「そのアタマ。ちらっと見かけて、やるなぁって、思った」
「なにそれ? やるなぁって……」
「いや、ニュアンスで言っただけ。挑戦的ってか、反体制ってか、前衛的ってか、そういう感じ」
まったくもって思想的な裏付けはないんですが――と朱莉は目を伏せる。
相変わらずぼんやりしたままの大塚聡子の表情にそれほど変わりはなかったが、どこか同志を得てウキウキしているといった風にも見えた。ちょうどいい機会だ、訊いてみようと朱莉は思った。
「そういう大塚ってさ、一年の時からあんまり人とも交わろうとしないしさ……あんたも充分――」
「――つまんないから」
「え、なに?」
「つまんないんだよ、この世界が」
でた、この世界がつまんない発言。
あたかも全てを知ったように世の中の行いに目を向けついばんで諦観し、自分だけがその蚊帳の外に出て俯瞰しているかのような物言い。朱莉も中学二年生、霊感応力に目覚める直前まではその思想の極みだった。
だが今はもう違う。
「――たしかにつまんないかもね。でも、普通の人にはこの世界しかないから。つまんないも何もないわけじゃん?」
「へぇ? なんだ――それ、周防は自分が特別みたいな言い方」
言える訳がない。自分は霊と感応することができて、この世界が一枚岩ではないということを知っているなどと。
誰もが常に守護霊を背負い、見守られながら生きているなどと。
「別にそういう意味じゃないよ。ただもっと、こう、世界は広いじゃん。あたしたちはまだまだ知らないことがあるじゃん?」朱莉は自身に鑑みることはひとまず置いておくことにした。
そして立ち上がると、屋上のフェンスに歩み寄り、青空を仰いでいかにも希望に満ちた声で言い放った。えてして若いときは、思考の袋小路に迷い込みがちなものだよ、と。
「ふ……ははは。なにそれ。優等生みたいなレス」
あの大塚聡子が笑った。彼女から笑顔を引き出せたことにささやかな充実感を得て、「そ、そうかな?」と彼女の方を振り返る。
「うん――反吐が出るね」
大塚聡子は蛇のような目でにらみつけ立ち上がると、呆然としておにぎりを地面に落とした朱莉に背を向けて、元のようにつまらなさそうな顔で去ってしまった。