1-2 変わってやる、あたしだって
職員室では、またいつもの周防か、と周囲の教師から冷ややかな視線を浴びせられながら、担任で国語教師の北坂にしこたま絞られた。
北阪はまだ二十代で、色黒で短髪をいつもワックスで立てており、若々しい印象の教師だ。
意外に思えるかもしれないが、えてして若い教師というのは、自身もまだ若者であるという自負のせいもあり、その年齢差から仲間意識のような生易しい態度をとって墓穴を掘ることがままある。
生徒からしてみれば、教師は教師であり、大人に分類すべきものであるから、そのように半端に媚びるような笑顔を見せる若い教師は信頼が得られず、憂き目を見ることが多い。
しかし、北阪は堂々たる態度とはっきり的確とした物言い、そしてまるで背中に目が付いているかのような観察眼と対峙した相手を射殺してしまうような鋭い視線で、生徒たちから畏怖の念で捉えられていた。
「――ともかくだ、説教はこのくらいにしておくが、いつも視線が定まってない感じに見えるぞ、もっと集中しろ。何か悩みがあるなら俺にでも、言いにくけりゃ副担の松浦先生にでも相談しろ。明後日から連休に入るが、俺は休みの間も出勤しているからな」
口調は厳しくとも、その言は教師のものだ。
視線が定まっていない時というのはおそらく、その辺にいる霊に気を取られたり、ちょっかいを出されたり、鞠が話しかけてきている時だろうと思った。
ああそうだ、大いに悩んでる。だけどこんな事誰に話したところで一笑に付される。それどころか変人の烙印を押されて高校生活を台無しにすること請け合いである。そしてなにより、この殺し屋のような目を持つ男と一対一で対峙するのは何よりのストレスだ。
肩を落とし職員室を出ると、廊下の向こう側で手を振る女子が見えた。
「周防さーん!」
輝いて見える笑顔、高くも低くもない程良い身長に、女の子らしい華奢な四肢、その前面に据えられた、平均値よりおそらくはボリュウムのあるバストと、黒々とした絹の質感を持つ長い髪を揺らしながら駆けてくる美少女、戸田美玲である。
「平気だった?」
なにが平気なのか皆目わからなかったが、気遣ってくれたことに謝意を示し、右手を軽く挙げる。
「ぼおっとするなってさ。さっきはありがとね」
「仕方ないよ。おひる食べたら眠くなるし、それにこのお天気だもんね。寝るなっていう方が無理よ」
寝てねぇし、今日弁当忘れたし、おせっかいな女は苦手だし、当たり障りのない無難な言葉を臆面もなく垂れられるのは嫌いだ――と思いつつ、乾いた笑いを漏らす。
今のクラスで初めて一緒になって、朱莉の後ろの席というだけで、特に彼女と仲良くする理由はない。人種的にも特に癖のない普通種といっていい。いや、優良種だ。絵にかいたような美少女で、しかも成績は優秀。立ち居振る舞いも言葉遣いも含めて、随所に他者への思いやりが感じられる。それは処世術を支えるパフォーマンスかもしれないが、作ってでもできる器量というものは朱莉にはない。
美玲を見ていると気後れ感は半端なく襲い掛かってくる。
彼女こそ今ここで満開の花を咲かせている。
朱莉に手を振り、弾むような足取りで廊下を去って行く彼女は、花に嵐もものともせず、誇らしげで、高貴ですらあった。
「くそっ、変わってやる。あたしだって……」自宅に戻り部屋に入るなり、カバンを机に放り投げ、帰宅時に寄ったドラッグストアの袋をひっつかみ、乱暴に制服を脱ぎ捨てキャミソール姿のままずんずんと浴室へと向かう。
裸になり、浴室の鏡の前に座る。つんとくる刺激臭をこらえながら液剤を勢いよくシェイクし、ビニール手袋をはめてまんべんなく、胸まである長い頭髪へとなじませる。
頭皮に感じる刺激がひそやかな背徳への期待を湧き立たたせると同時に、垂れた髪によって容易に隠れてしまう双丘を恨めしく思う。
浴室の椅子に座り正面の鏡を睨みつけ、パッケージに書かれた効果時間を確認する。
スーパーハード・ブリーチ。髪に塗布すると、時間とともに黒髪が金色へと変化してゆく薬液で、色見本とともに図解がなされていた。さすがに金色はまずかろうと、調整して洗い流すつもりだった。
ブリーチは髪の色素を落としてしまうもので、カラーとは違うのだが、朱莉はそのあたりの知識に疎かった。他にもよい感じでお洒落なブラウンに染め上がるヘアカラーもあったようだが、値段が高かったのと、効果が出なかったら嫌なので、一番安くて強力そうなのを選んだのだ。
(どうしたのよ、急にそんなもの)
浴室の鏡に映った朱莉の背後のタイルがぐるっと歪み、人の形の影を成してゆく。朱莉の守護霊、鞠である。鏡やガラス、その他反射系の素材表面でのみ、その姿を確認できる。
「うーるーさーいぃ」
(もう、ちょっと先生に怒られたからっていきなり極端なのよ。それに髪染めるのとか校則違反じゃなかったっけ?)
「ふん、あたしは決めたんだ。花の命は短しなら、せいぜいこの期間に盛大に咲いて咲いて咲き誇ってやる。残り二年の、花の女子高生生活を謳歌するのよ」
(おこられるわよぉ?)
「校則が怖くて女子高生がやってられますかっての。スカートは膝上二十センチにしてだ、それからピアスもあけちゃおうかな、でもって眉剃って、アイラインにツケマにグロスリップで男どもを悩殺なのよっ」
(やめときなさいってば、似合わないから。それに今時流行らないわよ)
「うるさい! 鞠さんはなんでそうあたしのやることなすこといちいち否定するのよ。あたしにはあたしの人生があるの! ほっといてよ。だいたいさ、鞠さんなんていつも地味な和服でさ、髪アップにしていかにも美人女流作家みたいななりで、おほほ、とかうふふ、とか貞淑ぶってるけど、実は行かずの後家さんじゃないの?」
(――いっかず、ゴケっ……!)一瞬鞠の顔が歪んだが、先の“美人女流作家”という文言が効いており、首を絞められずに済んだ。それで調子に乗った。
「あれっ、もしかして図星っちゃいましたかぁ、いやあ、メンゴメンゴ! あっ、でも勘違いしないでね、童貞どもは自身の不甲斐なさゆえに、高嶺の花を摘み取ることが罪に思えるものよ。鞠さんが悪いわけじゃないわ」
(高嶺の……私は別にそういう訳じゃ……)頬に掌をあて、照れたように顔を背ける鞠。
「いーのいーの、美人薄命っていうでしょ。鞠さんは花を散らせるまでもなく、ぎりぎり美しいままあの世へ召されてしまったのね。老いさらばえて醜く死んでゆくよりはよっぽど良かったんじゃないの?」
(いや、だから、霊体としては自分の好きな姿になれるわけで、別にこの姿で死んだとかそういうんじゃなくてね……)
「まっ、シワシワババアが背後についてたら、あたしショックで毎日鬱だわぁ、そんなのもうマジ最悪じゃん? なんていうの、あたしは運が良かったって感じよね」
(前にも言ったと思うけど、そういう風に守護霊って決めてあなたに憑くものじゃないからね?)
鞠の制御の仕方がこの三年の間に解ってきて、彼女を怒らせるギリギリの線を狡猾に責めることが、性格の悪い朱莉のストレス解消の一つになっていた。
「だからさぁ、あたしが鞠さんの分まで女を堪能してあげるからさ、期待してて! これからは鞠さんが経験できなかった、あんなことやこんなことや、うっふん、あっはん、の世界を切り開くけど、特別にそばで見せてあげるからさ」
(うっふんとか、あっはんとか、何をどう想像してるのかわかんないわ。つーか朱莉ちゃんまだ開通もしてないでしょうに)
「――っ! ……やだねぇ。ああ、やだやだ。なによ開通って。あんなものはね、天井のシミを数えてりゃ済んじゃうくらい造作もないことなのよ。そのうちその辺の野良犬にでも食わせてやるわよ」
(その過剰に貞操を貶めるところが、マックスイケてない処女的発言よね)
(は? ――――なにそれ……)
その後互いに貯めに貯めたダムが決壊し、散々罵り合うことになる。
この浴室内の音を外部から聴くことが出来たならば、単に女が怒って、下品な独り言を弄しているだけにしか聞こえないが、全裸の朱莉は洗面器を手にして、グネグネと蛇のように動くシャワーホースと格闘していた。
鞠のような力のある霊だけが持ちうる『念動力』という、物理体を動かす超常の力でシャワーホースは蛇のように鎌首を上げ、飛び掛かり、朱莉の身体を締め上げるのである。
(どぉおりゃあ、秘術! 処女緊縛っ!)
「なんの効かぬわ! 秘技泡踊り!」
そんな感じでひとしきり攻防を続けた後、息も切れて、互いに馬鹿らしくなり、決着もつかないまま戦いは有耶無耶になって終わる。
「はぁっ、はぁっ、全く、もう……何が処女緊縛よ! 念動力解いてよ、頭流すから!」
(ぜぃ、ぜぃ……朱莉ちゃんこそ、泡踊りとか、余所で口にしてないでしょうね!)
腹立ちまぎれに、首に巻きついたシャワーホースを解くと、乱暴に髪の薬剤と、身体に付いたボディソープを洗い流した。
ぷりぷり起こりながら、浴室を出て洗面台の前で髪を乾かした。薬剤の独特のにおいが鼻について、眉をしかめる。
しかし、洗面所の窓から差し込む光に、ドライヤーの熱風でなびく髪がキラキラと光るのを見て朱莉は呆然と立ち尽くしていた。
(ほら、いったじゃない)
鞠に指摘されるまでもない。
朱莉の髪はブラウンもミディアムブラウンもライトブラウンもとっくに超えて、粗っぽいゴールドに輝いていた。
「ふ、ふふ……こ、このくらいが、目立ってちょうどいいのよ……」すっと顎を引き上げ、斜めアオリの顔を鏡に映して不敵に笑ってみる。
「ふふ、突き抜けてるわ、突き抜けすぎてるわ……」
(なにそれ? 明日学校どうするの? それにまず、お父さんとお母さんにも言われるわよ)
「――む、それよか鞠さん。洗面所の結界大丈夫? また表にお兄ちゃんがいるみたいだけど」
(大丈夫よ、抜かりないわよ。私の作った守護結界よ? 伊知朗さんは通過もできなければ覗き見もできないわよ)
朱莉の兄、周防伊知朗は霊体である。物理身体があったわけではなく、単に生まれた時から霊体の身であり、朱莉よりも先にこの家にいたから兄と名乗っているだけで、本当は兄だなんて認めたくはない。ただ、両親はともに霊感応力者であり、彼のことを息子として認めているため、朱莉も渋々それに従って付き合っているだけだ。
地縛霊ならまだしも、単に霊体の存在だから、意識は現世に生きる若者とそう変わるところはない。しかし家族以外誰からも認識されないため、日がな一日何もすることはなく、十数年にわたりこの家から出ることもなく過ごしている。
しかし、どこでどう間違えたのか漫画とアニメとゲームに興味津々で、ネットが導入されてからは自分の部屋に引きこもりっきりで、本人は成仏するだとか、広く世界を見つめようなどという気は全くないらしい。
その兄である伊知朗が部屋を出てくる少ない機会がある。
それが、朱莉の部屋を訪れ、着替えを覗き見、風呂に入ってきては覗き見することである。そのため朱莉は鞠に、部屋と風呂に伊知朗が通り抜けられない特殊な結界を張ってもらっていた。
鞠は女子高生の朱莉と、本気で言い合いをするような守護霊ではあるが、どうやら能力は高いらしく、霊の中でもそこそこ上の位置に居るという話を自慢げに話していたのを思い出す。
それはそれで有り難いことだが、それほどデキると豪語するなら、守護対象が直面している諸問題の一切合切を解決してくれたらいいのにと思う。ついでに貯金の額と胸もでっかくしてくれと。