プロローグ
周防朱莉の朝はベッドの上で極度の低血圧を引き上げ、平衡感覚を取り戻し、床に着地するところから始まる。
朝、ぼやっとした視界を頼りに、よたよたと洗面所に入ると顔を洗うと、すがるようにダイニングのいつもの席に座り込む。
四人掛けのダイニングテーブルの左側は両親の席。父親はすでに仕事に出ており、母親はシンクに向かって洗い物を始めている。今日も危うく“兄”が待ち構える席に座りそうになった。
朱莉の正面に座るニートの“兄”はじとっとした目つきで朱莉のことを見つめると、おはようの挨拶をしてくる。
こんななりでも兄は兄で、家族だと、母親から言われて仕方なく応える。この"兄"への寝起きの挨拶は――まだ生涯に経験したことはないが――土下座よりも苦痛だと朱莉は思う。
「さっさと食べてしまってよ。片付かないから」と母から急かされ、覚醒前の味覚のまま、トーストとコーヒーを作業的に流し込む。
第一に、寝起きの悪い朱莉にとって朝はけして優雅なひと時ではない。この段になっても制服の裏表を間違わないようしなければならない程、目が覚めない。時計の針が指す時刻を見て憂鬱な溜息を吐く。
(今朝は近道じゃなきゃ遅刻だな……)誰に宛てるでもなく心中に呟きながら家を出る。
家からしばらく行った先の三丁目の角の電信柱の陰には、いつものサラリーマン風のコートを着た男が立っている。毎朝、というかいつでも朱莉が通るのを待っているのだ。
朱莉は出来るだけそれを気にしないよう、遠くの景色を見据えながら、やや速足で通り抜けようとする。しかし男はそれに構うことなく朱莉の前に立ちはだかり、ロングコートの前を開いて全裸の下半身を露わにする。
見ない、見えてない、見なかった。そう念じつつ、素早く角を曲がり、通学に最短距離の堤防上の道を歩く。
朱莉の住む与鶴市内を貫く川の幅は十メートルといったところ、流れも緩やかで深さもそれほどはないが、小学生くらいの子なら溺れることもある。そんな川からバシャバシャと水しぶきが上がっている。大きな魚、ではない。
たすけて、たすけて、とランドセルを背負った小学生が溺れそうになって、もがいているのだ。無視して歩いていると、その水面を叩く音は次第に小さくなってゆき、やがてとっぷりと波紋だけを残して沈黙する。
聞こえない、聴いてない、見なかった。どんよりとした気持ちを抱えながら、朱莉はやはり前だけを向いて堤防を駆け、速足で橋を渡ると大通りを通り過ぎ、高台になった住宅街の中を通り抜ける道を歩く。
すると次に、前方から買い物かごを提げた老婆が歩いてくる。朱莉はその老婆と対面しないよう、やや左へと進路をよけるが、老婆もそれに従って近づいてくる。
腰が曲がっていていかにも不自由そうなのだが、異様に近づいてくるのが早い。
あっという間に目の前に立ちはだかった老婆は、突然朱莉の顔をのぞき込んできて、耳をつんざくような奇声をあげたかと思うと、醜悪な顔で罵声を浴びせ、唾を吐きかけて去ってゆくのだ。
見ないようにしようにも見せられ、聴かなかったことにはできないほど気分が悪い。朱莉は顔をうつむけながら、高台に建つ学校へとひたすら歩みを続ける。
(だから嫌なんだ……この道通るの……くそ)
心中で悪態をつきながらも、やや早足で坂を登ってきたせいもあり、すれ違う同級生の挨拶に、作った笑顔で応えるのが精いっぱいだ。スマホの時計を確認し、遅刻は免れたことに安堵する。
朱莉が通うのは与鶴市と笠鷺市のちょうど境目の、丘とも形容される低山のほぼ山頂に位置する、隣の校区に属する高校で、入学当初からあまりなじみの街ではなかったし、中学からの知り合いはほぼいなかった。地元の高校ならば朱莉の家から五分もあればたどり着く距離だったのだが、あえて朱莉は地元外の高校を選んで通っていた。
「周防さーん、おはよう! いそげー」教室の窓から気のいい友人が手を振って遅刻寸前の登校を迎えてくれている。それに対しはにかみながら、ちょいと手を挙げ校舎に駆け込んだ。
すれ違う人々が、こんな普通の朝の挨拶をしてくれるならなんの憂いもない。
だが、徒歩約三十分、自ら選んだ高校とその通学路。いくつかある道筋の最も距離の短い路上では、“彼ら”に遭遇しなければならなかった。
“彼ら”のような残念な連中とすれ違いながら始まる一日がどれほど憂鬱なものか、誰に言ったとて理解は得られない。
何故なら、彼らは朱莉の目にしか視えていないからだ。
そして、朱莉は予鈴の音を聞きながら鞄を机の上に置いたとき、気がついた。
「くそっ、最悪だ……弁当忘れた」