君と私の友達
5
日曜日は、そのまま家に帰りました。自分がその後、何をしたのかはっきりと思いだせません。気づけば陽は沈み、気づけば私は学校の自分の席で、気が抜けたようにぼーっとしていました。
やがて、彼らがやってきます。気の弱い一人を中央に置き、その両側を、やんちゃそうな二人が逃がすまいとするように囲み、やんやと騒ぎながら教室に入ってきます。
私は反射的に席を立ち、目的の彼があとの二人と別れたのを見て、接触することにしました。
「お、おはよう……□□くん……」
寒さのせいでしょうか、声が震えています。教室の隅では、青い炎を放つブルーヒーターが、たった一人で燃えていました。
彼は、私がいきなり話しかけてきたことに肩を跳ねあがらせながらも、私が「ちょっといい?」と尋ねると無言で頷いてくれました。周りのひそひそ声を一身に浴びながら、私たちは教室を後にします。
朝の会が始まるまで、あと十五分もありません。何もしないと、彼は私の目を盗んで逃げだしてしまいそうで、そんな根拠のない不安のような感情を抱いて、知らぬ間に私は彼の左手を強く握っていました。彼は、私に引かれるがままとなってしまっています。一瞬だけ横目で彼を見ると、彼の瞳は様々な色に彩られていました。濃いものも薄いものも。映えるものも面白みのないものも。
私たちは、普段は生徒の立ち入りが禁止されている、屋上へと続く階段の踊り場へとやってきました。多くの奇異の視線を受けながら私たちは歩きました。色んな意味で、既に疲れてしまっています。
「ごめん、急にこんなことして」
汗ばんだ手を離すと、彼は不思議な物を見るような瞳で、自分の右手を見ました。頬がほんのりと紅く染まっています。
「……ううん、いいよ。気にしてない」
両手を後ろで組み、柔らかな笑顔を浮かべて彼は言いました。私の心臓が、トクンと踊りました。
「それで、どうしたの? 早く戻らないと、先生来ちゃうよ?」
こう話している間にも、時折、廊下を通る足音が聞こえてきます。私はうん、と頷き、彼をまっすぐに見て尋ねたかったことを問いかけます。
「昨日のこと、だよ。私の事……嫌いじゃないの?」
きっと彼も予想はしていたのでしょう。慌てることなく、同級生とは思えぬあどけなさを感じさせる瞳を揺らし、彼は口を開きます。
「うん。嫌ってなんかないよ。疑っちゃうかもしれないけど、嘘じゃない」
無風の空間で、彼の柔らかそうな前髪がふわりと波を打ちました。
聞こえる音が、とても大きく、そしてスローモーションに届きます。また一つ、鼓動が弾けました。
「そっか……ありがとう」
私の声は、俯きがちに発せられ、そして床にまっすぐ吸い込まれていきます。
「念のために訊くけど、あの二人に脅されたりしていない? 何か……罰ゲーム、とか……」
「どういうこと? 何で僕が罰ゲームなんて受けなくちゃいけないの」
くすくすと苦笑します。同級生とは思えぬあどけなさを感じさせます。
「確かにあの二人は……ちょっと強引なところもあったり、怖かったりするところもあるけど……。悪い子たちじゃないんだ。僕が二人と一緒にいるのもね……」
そこで彼は一旦話すのを止め、目を瞑りました。彼にしか見えない漆黒の世界は、時を刻むごとに色鮮やかになっていきます。
「僕が二人と一緒にいるのはね……昔、僕がいじめられてた時に助けてもらったからなんだ。それ以降、二人は僕に何かあった時の相談相手になってくれたりして……友達になってくれたんだ」
背後から差しこむ眩しい光が、彼の体を白く染めていきます。
「二人は××さんの事をよく思ってないみたいだけど……。でも、勘違いはしないでほしいんだ。別に僕が嫌々二人と付き合ってる、とかそんなことはないから」
彼の明るく清々しい表情に、とても嘘は感じられません。
「……私の事……避けてなかった?」
胸の痛みともやもやを抑えつけながら……私は問いかけます。
「それは……だって××さん、いつも近づきにくい雰囲気なんだもん。みんな遠巻きに見てるしかなかったんだよ」
いつも本ばかり読んでいて、自分の事を全く話そうとしない。頑張って話を振ってみても、生返事をするばかり。だからみんなは離れていった。そう、彼は話した。
「中には、そんな××さんを気に入っていない人もいるみたいだけど……でも、女子は話したがってるよ。××さんが休みの時とか、昼休みとかにひそひそ話しているのを見たことがあるし」
あっさりと彼は言いました。私はしばらく何と答えればよいのか分からず、口をパクパクさせるだけでした。彼の言葉はとても意外で……そして、私の愚かさは完全に証明されてしまいました。
「だからさ……あ、いや、無理にとは言わないけど、もうちょっと心を開いてみなよ」
黙ったままの私に追い打ちを掛けるように彼は続けます。
「もし××さんが一人で寂しいって思ってるんなら……そうじゃないから。友達がいないわけじゃないよ。多分……多分だけど、僕も××さんと同じなんだと思う。待ってればみんなの方からこっちに来てくれる、って……ずっと思ってた。でも、やってきたのはいつも一人の僕をからかって面白がる嫌な子たちだった。……待ってるだけじゃ、友達も楽しいこともやってこないんだよ。何か動かないと。みーんなどこかに飛んで行っちゃう」
トモダチにすらも言えなかったであろう、今までの本音を晴らすように、とても饒舌に彼は話しました。長い時間が経過しており、辺りは既に静寂に包まれています。緩やかで聞き慣れた音が、校内に響き渡ります。
「あっ、ヤバい、遅刻しちゃう!」
唐突に彼は叫びます。急いで戻ろうとする彼の手を、私は再び咄嗟に握りしめました。えっ、と彼は短い悲鳴を上げ、こちらを振り返ります。
「最後に一つだけ。いい?」
「うん……」
なだらかに彼の首が動きます。軽く深呼吸し、せかす鼓動を耳に感じつつ、私は叫ぶように言います。
「私と……トモダチに、なってくれる……?」
「うん」
迷うことなく、彼は頷いてくれました。
朝の会では、二人揃って怒られました。さらに終わりの会では、あの場所に行っていたこともばれて、よりひどく叱られました。私は彼に陳謝しつづけましたが、彼は「いいよ」と笑って水に流してくれました。
帰り道、私と彼は二人並んで歩きます。仲間は、今日は習い事があるとかで途中で別れたそうです。
「××さんって、これまでどんな人と付き合ってきたの?」
黙ったまま彼の横を歩いていると、そんな質問が飛んできました。
「私のこれまでのトモダチ、ってこと? 一人だけいるよ」
「へぇー、どんな人?」
「えっとね、私よりも背は小さくて、とってもかわいくて……」
漠然と……曖昧な気持ちですが、とても楽しいって思えました。長らく私が忘れていたものです。ようやく正しい方向に、素直な思いを感じることができました。
「……僕も会ってみたいなぁ」
「今度会わせてあげるよ。今週末、空いてる?」
「うん! 予定、入れないようにしておくね!」
心の底から嬉しいと思っているのでしょう。見ている私が目を逸らしてしまうほどに、彼は無邪気に笑います。
「クラスのみんなの反応はどうだった?」
話が終わり、再び静けさに囲まれかけた空気を、彼が破ります。
「うーん、まだまだ時間はかかりそう、って感じかな」
今日、私は休み時間になる度に、視界に入った女子に話しかけてみました。快く受け入れてくれたり驚かれたりと反応は三者三様でしたが、私があのクラスに完全に馴染むためには、もう少しの時間を要するでしょう。
「ま、今日明日で卒業する、ってわけじゃないんだからさ。気長にやっていけばいいと思うよ。あと数か月あるわけだし」
数か月……言葉で聞けば長く感じるけど、実際はとても短い時間です。でも、大半の人は中学校も同じだろうし、まだまだ私たちの学校生活は続くのです。あまり深く考える物ではありません。
「……それじゃ、僕の家こっちだから」
分かれ道で彼は手を振り、私も手を振り返します。
「週末、約束だよー」
遠くから彼が叫びました。うーん! と私も叫び、今度こそ互いに背中を向けました。
私と彼の「約束」。
曖昧だった言葉が、ようやく形を為しました。
でも、まだ先は長い。私はこの世界の事を、知らなさすぎるのでしょう。
少し軽く感じるランドセルを揺らしつつ、私は今日も、一人で道を歩いていくのです。