願いの旋律
2
ぽつぽつと彼女は話してくれました。ずっと前から決まっていたそうですが、私を不安にさせたくないためか、黙っていたそうです。きっと今日、私の言葉で、私の行動で、そのダムが決壊してしまったのでしょう。
「家の事情で遠くへ行かなくちゃならないんだ。ワタシのわがままでここに留まるわけにもいかないし……。正直に言って寂しいけど、ワタシたちが生きるためにはこうするしかないんだよ」
ここにいると、彼女たちは生活できない。何か深い事情があるのかもと思いましたが、深くは聞けませんでした。「これがワタシの人生なんだ」。彼女の笑顔が影に蝕まれていました。
「今はサユキにもワタシがいるから問題ないかもしれない。でも、ワタシがいなくなったら? サユキは一人ぼっちになっちゃうんだよ? 大丈夫? その中学校にはほとんどの人が進学するんでしょ? だったらサユキが変われるチャンスはもうなくなっちゃうよ!」
我がことのように彼女は言ってくれます。それだけ私の事を気にかけてくれているのでしょうか。唯一のトモダチにそう言ってもらえて、私はとても嬉しいです。でも、その心配は杞憂に終わります。
「……大丈夫だよ。私は一人でもやっていける。心配してもらう必要はないって」
笑って言います。彼女に安心してほしくて。うまく笑えている自信はありませんが。それでも、精一杯に笑みを張り付けて、振りまきました。
「……」
やっぱり彼女は不安そうに、私から目を逸らします。背中が少しむず痒くなる感覚を覚えました。どうも私は、彼女にこんな風にされると弱い。感情に任せてワンワン喚かれるだけなら何とでも言いくるめられるのですが、こうして無言で圧力をかけられるような場面は、どうも私は得意ではないようです。
「じゃあさ……こういうのはどう? ワタシからの提案……というほどのものでもないけど、考え方を変えてみるの」
彼女の声は沈んでいるわけでも、さりとて弾んでいるわけでもありません。敢えて言うのであれば、とても曖昧な声でした。色々な想いが入り混じって、自分でも何を一番伝えたいのか分かっていないような。そして、それは恐怖か不安の所為か、微かに震えていました。
「……ワタシのために、サユキは友達をつくって。もしサユキがワタシのことを友達と……大切な存在として認めてくれているのなら、ワタシの心の安寧のために、友達をつくってよ……」
きーこ。
また私の耳の近くで音が響きました。もう、崩れるほどの心を私は持ち合わせていません。どこで、何が崩れたのでしょう? ううん、もしかしたら、何かが修復された音なのかもしれませんね。
「アナタの……ために?」
「うん、ワタシのため。ワタシはサユキに、一人になってほしくないの。……まぁ、今も一人っちゃ一人かもしれないけどさ。でも、まだ間に合うと思うんだ。『本当の孤独』に陥る前に、ワタシ以外に心を許せる相手を見つけ出してほしいの。じゃないと、ワタシは安心してサユキの前から姿を消せない。もしサユキが自身のために友達をつくりたくはないのなら、ワタシのために友達をつくって。お願い」
そう言って、ぺこっと小さな頭を下げます。健気で可愛い。そんな場違いなことを思えるようになったということは、少しは私の頭も冷えてきたということでしょうか。一方的に話す彼女の声に耳を傾けているうちに、陽は既に沈みかけており、公園は暗澹たる雰囲気に呑みこまれそうになっています。そろそろ帰らないと、お母さんに怒られてしまうかも。
「どう……? サユキ……」
上目づかいに、そして涙目で彼女は私を見つめます。うぅ……そんな目で見ないで。家に帰れなくなるじゃない。もやもやする頭を強く振り、彼女の肩を一度つかみます。
「アナタの言いたいことは分かった。一晩だけ……一晩だけ待って。私もちょっと考えるから」
そう言うと、彼女はとても嬉しそうに笑いました。こういう、自分にはできないことをできる人って、すごいと思います。私は彼女の交友関係については全く知りませんが、きっと多くの友達や大切な存在がいるのでしょう。羨ましくは思いません。でも、それは私にはできなかったことです。
家の前で彼女と別れ、私は家に入ろうとします。がちゃがちゃ。開いてません。まだ誰も帰ってないのかな。
持っていた鍵でドアを開け、暗い屋内を電気で照らします。あぁ、明るい……。私にはお日様の光より、こっちの光の方が何となく落ち着きます。
「ただいまー」
誰かいるかな? と思いつつ、一応挨拶をしながら歩きます。帰ってくるのが遅い! と怒られる未来も想像していたので、内心、結構びくびくしていました。でも、返ってくる言葉はありません。シンクを打つ水滴の音が、背後から伸びる光の波の中で独り、時を刻んでいました。
誰もいないのなら、二人が帰ってくるまでは完全に私の自由時間です。とりあえず、さっさとお風呂に入ってしまうことにします。石鹸の泡で体を包み、頭から大量のお湯をかぶり、色々なものを洗い流します。嫌なことも、嫌なことも嫌なことも……。こびりついた、クラスの男子の下世話な笑い声も、水音に混じって聞こえなくなります。
そして、湯船に浸かって、先ほどの彼女の言葉をじっくりと考えます。いつもは、この時は適当な歌を歌ったり独り言をつぶやいたりするのですが、今日は別です。学校の漢字ドリルの書き取りよりも重要な宿題が、私にはあるのです。
「トモダチ、ねぇ……」
天井から落ちてきた水粒が、私の額を鋭く刺しました。まるで私に頷かせようとするように。お母さんが見ていた刑事ドラマで出てきた、悪い人が泣き叫ぶ人に向ける包丁のよう。
でも、いくら考えても私にそういった存在が必要とは思えない。死ぬわけでもないし、それが私の生き方なら、人生の主人公である私が、自身の道を創造するのは当たり前の事。本来なら、他人に動かされるなんてありえないことのはずなのに。
胸に手を当てると、とく、とく、と鼓動がいつもよりも少し激しいように感じました。目を瞑れば思いだせます。自然と目に映るのです。影に覆われた、悲しそうな、彼女の顔。どうしてでしょうか、私はそんな彼女の顔を見たくないと思うのです。トモダチなんていらないって主張する私は、あの子にだけは私の前で元気でいてほしいと思うのです。彼女に言わせれば、それが「大切な存在」であるということなのでしょう。それは私も分かっています。彼女は私の唯一のトモダチです。放課後を一緒に過ごすことができる、私の「大切な存在」です。
でも、私は分かっています。「大切な存在」である彼女は、ある意味では、私の「大切な存在」にはなりきれない。周りのみんなが思う「大切な存在」とは、彼女は異なるのです。いつか、そんな隔たりなんて関係なく、周りも認める「大切な存在」同士として笑い合える日々が来てほしいです。
時間って短いよね。早いよね。長いと感じる時間も、気づけば残りはあとちょっと。私がもう少しで身を浸す未来に、そんな一筋の光があれば、私は彼女との別れも真正面から受け止められることでしょう。