七章
獣人兄弟の争いも、決着がつこうとしていた。
弟のトートが仰向けに倒れ、大きく息をしている。
それを見下ろす兄のアヌも息が荒い。
「殺せ」と弟が言う。
中途半端じゃ、一族の者たちにも雇い主にも、顔が立たないだろ?そう言って笑う。恨みも何もない。
きっと仲の良い兄弟なのだろう。
人間の女に対する獣人の気持ちが、どんな結末になるか。トートには分かっている。
だからこそ兄を止めたかったが、止まらないものがあるのも分かる。本能には逆らえない。
命を救ってもらったとあっちゃな。そら惚れちまうだろ。
「兄貴が勝ったんだ。気の済むようにすればいいさ」
励ましにも聞こえる言い様で別れを告げる。
アヌが天を仰ぎ、雄叫びを上げた。一気にとどめをさす。
そしてまた雄叫びを上げた。二度、三度と繰り返す。
心の中を何かが満ちる。
満ちて満ちて張り裂けさそうだ。
獣人が、ゆっくりとソリアの方へと歩き出した。
ロウジが息をのむ。
立ち竦んだ老騎士を庇うように、シャイトーが前に出る。
しかしソリアは、庇われるのを良しとしなかった。
そういう性質なのかもしれない。違う理由かもしれない。
ソリアがシャイトーの横を、すっと自然にすり抜けた。
獣人の足がぴたりと止まる。
それを見届けると、ソリアはロウジとシャイトーに、目で何かを伝えようとした。
待ってくれ、なのか任せてくれ、なのか。
彼女自身にすら、良く分からなかったに違いない。
分からないまま獣人と向かい合う。
二人の間を秋風が吹き抜けた。
言葉が出なかった。目の前の血塗れの獣人が恐ろしいのではない。恐怖とは違うとはっきりわかる。しかし、これが恋であるはずもない。
言葉が出なかった。獣と化した姿でも、しゃべれるはずなのに言葉が出なかった。喉の奥に、何かがつかえてるようだった。
その答えが相手の瞳から読み取れないか、とでも言うように、二人はじっと見つめあった。
長いような、短いような時が過ぎる。
やがて、ソリアの口からそっと「・・・ソロン」と、幼い時に彼女が名付けた、獣の子の名がこぼれた。
それを聞くとアヌは顔を手で覆い、苦し気に息を漏らした。何かに耐えていた。激しく震えている。
せめぎ合うのは愛情と殺意。本能と意思。
顔を覆う指の間から、チラリとロウジとシャイトーを見る。
ソリアを見るのは避けたようだ。
ロウジが痛ましいものを見るかのように頷いた。
アヌは彼らに背を向けると、山に向かって駆け去って行った。
「さて」シャイトーがソリアに向かって言う。
「それでは行きますか」そう問い掛ける。
そこは獣人の手が決して届かない場所だ。
「はい、お願いします」
問いの意味を正しく理解し、ソリアが答えた。
ロウジの両目からは涙が流れていた。
大切に守り育てた、自分の孫のような姫だというのに。
不憫であった。
確かに死なせずには済んだ。だがソリアの心は果たして生きているのかどうか。
先ほどの一時、獣人と向き合う姫は子供の頃に返ったようだった。捨てたはずの心が戻ってきていた。
その心をまたも捨てさせ、死なせてしまったのではないか。
家の都合と姫の立場は、ずっと昔から充分すぎる程承知していたが、こうなるとやはり口惜しい。
アヌ。最後の瞬間、奴は確かに自分にソリアを頼むと言っていた。
だが、どうする事がアヌの意に沿うのだろう。
ソリアの願いは何処にあるのか。
シャイトー、こやつに聞けば分かるのか。
分からん、まったくワシには分からん。
多分自分がやろうとしているのは、どれもこれも違うのだろう。
それでいい。
誰もが好きなようには出来ず、それでも好きなようにやるしかないのだから。
ガタガタと馬車が行く。
既に陽は落ちて、夜の闇の中だった。
そろそろ今夜の移動は切り上げるべきか。
遥か先には、微かに街の灯りが見える。
後ろには、彼らが抜けてきた黒々とした山々があった。
山々を照らすのは、白く輝く大きな月だ。
遠くで獣の遠吠えが聞こえた。
長く短く。大きく低く。夜空に哀しく響いた。
「まるで歌のようですね」
シャイトーが、そっと呟いた。
終わりです。ありがとうございました。