四章
夜が明けた。
辺りには朝靄が流れる。
シャイトーとアヌは、周囲に気配を感じていた。
野営の場所から離れ、二人で様子を窺いに行く。
アヌは残した姫と老騎士の心配はしていない。
気配の主は呼びかけこそしなかったものの、こちらを誘う意思があからさまだったからだ。
話がある、そういう事だろう。
「もしかして知合いですか?」
シャイトーが問いかけてくる。
「そうだ」野人が答えた。
自分にしか分からないはずの気配。
ごく当たり前のように察知するこの男は何者なのか。
疑問が解ける間もなく、意識は目の前に現れた男に移る。
「何をやっている兄貴」
その男が問いかけた。
霧の中から現れた、アヌを兄貴と呼ぶ男。
兄というからには二人は兄弟なのだろう。
確かに顔はアヌとよく似ていた。
しかし明らかに違う物がある。
首まで体を覆う灰色の剛毛
毛深いなどという話ではない。
どうみても獣の体毛であった。
そして、人には有るはずのないフサフサとした長い尻尾が、裂けたズボンから伸びている。
男は獣人であった。アヌもまた獣人で、その一族の長であるらしい。
二人の男が向き合った。
「兄貴、分かっているのか。奴らの邪魔をしても、俺らの仕事になるだけなんだぞ」
「見てたのか、トート」
トートというのが男の名前のようだ。
「そりゃな、兄貴が村から消えた後に追っかけてきたからな」
「トート」
「なんだ」
「族長にはお前が就け、俺は群れを抜ける」
「はぁ?なんだそれ。群れを抜けるってなんだ」
「俺は好きにやらせてもらう。群れとは無関係にだ」
「好きにやるって、あれか。あの女か?あの女を守るつもりか」
いったい何の義理があるんだよ、まさか惚れたとか言わないよな?
まくし立てるトートに、アヌが乾いた笑みを浮かべた。
「惚れたなんてあるはずがない。昔あの人が命をくれた。それだけだ」
「命か」
トートはそれを聞くと考え込んだ。
一旦引くぜ、兄貴。俺が族長だってんなら、俺の一存じゃ決められないしな。
そういうと、トートは風のように森の奥へと消えた。
「聞いた通りだ。昔、俺は姫に命を助けて貰った」
弟の立ち去った方を見つめたまま、アヌが語りだす。
今のような半分獣のような姿ではなく、完全に獣だった時期の話だ。
獣人は獣として生まれ、歳を経て人の姿に近づいていく。
その頃はまだ子供だったから、人の姿にはなれなかった。それでも人の言葉は解かる。
人のように考える事も出来る。ただ人の言葉は喋れない。意思を伝える手段はない。
身体だけでなく、身のこなしもまだ未熟で崖から落ちた。
動けなかった。死ぬんだろうと思った。
そこに幼い姫が通りかかった。あの老騎士に連れられて、散歩か何かの途中だった。
死にかけた俺を見つけて大泣きしてたよ。助けるんだと言って聞かなかった。
ロウジは良い顔をしなかったな。当たり前だ。
弱っていて子供とは言え、相手は野生の獣だ。危険極まりない。
多分姫にも、それは分かっていただろう。
助けたいという気持ちも本当だろうが、きっと恐ろしかったに違いない。
それでも彼女は毎日来て、水と食料を与えてくれた。
丁度月が満ちていく時だったから、ほんの数日で動ける位に回復したよ。
その時には、姫は笑顔を見せてくれるようになっていた。ソリアと言う名前も覚えた。
懐かしむようなアヌの表情に翳がさす。
「獣人と人間の混血ってのは居ないんだ。決して生れる事はない。なぜだか知ってるか?」
その答えをシャイトーは知っていた。頷くと先を促す。
「そうだ、愛した者を食っちまうからさ」
自分達の血を残すための本能だと聞いた。決して例外はない。
姫の笑顔を見た時、何か暖かな物を感じた。これは大事な物だと思った。
だけど同時に、猛烈な飢えが巻き起こったんだ。目の前のこいつを食っちまいたい、と。
理屈も何もない。恐ろしかったよ。
山の上に月が昇る。真ん丸の月を見上げていると、叫び出さずにはいられない。それと同じなんだ。
語り終えた獣人の男に、シャイトーが静かに問うた。
「決して手に入らないと知ってて、あの人を助ける意味があるんですか?」