小さな恋のお話(に辿り着くまでのお話)
あらためて思うけど、いいお店だ。
静かな店内は基本的に木調の内装で、イメージとしては軽井沢とかにある別荘なんかに近い。軽井沢の別荘に行ったことはないがきっと近い。実のところ軽井沢にすら行ったことはないんだが、多分近いと思う。
このお店には以前、里美の大学の先輩である大塚さんに連れてきてもらった。来たのはこれが三度目。いや、正確には四度目か。
「久しぶりねえ、陽輔クン」
このカフェのオーナーである女性が、穏やかに微笑みながらオーダーした品をテーブルに並べてくれる。
神谷由美子さん。大塚さんのお母さんの従姉妹だ。
「どうも。急にお邪魔しまして」
隣に座った彩音ちゃんが、ボクのそのセリフを聞いて盛大に吹いた。スプーンですくったバナナパフェをまだ口に含む前だったのが不幸中の幸い。
「ちょっと陽ニィ、やめてよもー!」
「え、どうして?」
彩音ちゃんの反応と抗議にキョトンとするボクを見て、由美子さんまでが声を上げて笑い始めた。
「ホントよね。陽輔クンたらおかしい」
「ですよねー。この顔、まだ何が変だったのか分かってないですよ」
和気あいあいとボクを肴に盛り上がる二人。今日初めて会ったはずなのに、まるで親子みたいに仲がいい。
まあボクをきっかけに打ち解けてくれたんなら何より。人間関係潤滑油こと棚橋陽輔の面目躍如だ。もしホームセンターに並んでたらきっとバカ売れするぞ。
「陽ニィ、コンビニとかファミレスでも顔見知りの店員さんにそんな挨拶しそう」
そう言われて腑に落ちた。
ボクと彩音ちゃんでは今日この店を訪ねた理由に関する温度差があるのだ。
彩音ちゃんはきっと、ボクがたまたま思い出した馴染みの店を選んだくらいに思っているんだろう。けれどボクがこの店に来たのにはもう一つ別な理由がある。
「神谷さん。今、お忙しいですか?」
その問いに、由美子さんがくいっと小首をかしげてみせる。
このやり取りを見た彩音ちゃんも、さっきまでの転げるような笑い声を引っこめた。ボクが単なる「馴染みの客」として来たわけではないことを感じ取ったに違いない。
「うーん」
ちょっとの間をおいて、由美子さんは人差し指を頬にあてながら考え込む素振りを見せた。
「陽輔クンが『ゆみたん』って呼んでくれたら忙しくなくなるかも……」
「お忙しいのに無理を言ってすいませんでした。日を改めます」
「ちょっとー、陽輔クン冷た~い!」
服の肩口をつまんで揺さぶられた。
だって、ハードルが予想外に高かったんですもん。
「じゃあ『ゆみちゃん』で我慢するから、ね?」
「もうちょっと我慢できませんか?」
「…………『ゆみさん』で……」
「『由美子さん』でお願いします」
「もう、陽輔クンのケチ~」
頬を膨らませた由美子さんがぷいっとソッポを向いてテーブルから離れていく。
何それ。ちょっとかわいい。
正確なところは分からないが、由美子さんの年齢はぱっと見で三十を超えたかどうかというところ。そんな大人の女性が子供みたいに拗ねる様子というのは、新鮮さも相まってちょっとアリだなと思ってしまった。
苦笑混じりにふと視線を戻すと、隣にもう一人頬を膨らませている人がいた。
「陽ニィ、イチゴのタルト追加」
ジト目の彩音ちゃんに低い声で命じられる。
何それ。ちょっとコワイ。
「でも、陽ニィが『あやたん』って呼んでくれたら我慢できるかも」
「うん、それは我慢した方がいいね。あやたん」
「分かった。じゃあ我慢するよ、よーたん」
……よーたんときた。端から見たらただのバカップルだよ、これ。
けれど何だね。女の人のかわいさと面倒くささって、常に表裏一体なんだね。
「それで、今日はどんなご用事なの? よーたん」
聞かれてた。彩音ちゃんとのやり取りをバッチリ聞かれてた。
向かいにはお店のエプロンを外し、自分用の紅茶とチーズケーキを前にした由美子さんが座っている。
「ごめんなさい。ホント許して下さい、ごめんなさい」
テーブルに両手をつき、額をこすり付ける。
もう泣きそうだった。
ていうか、半分ホントに泣いていた。
間違いなくキッチンに下がった後だったのにあれが聞こえてるとか、由美子さんいったいどんな地獄耳?
恥ずかしいだけじゃない。これが大塚さん経由で里美の耳に入りでもしたらと思うと、恐ろしくて夜も眠れやしない。
「別にあやまることじゃないわよ。ただ、あやたんだけずるいなーってちょっとだけ思ったけど」
由美子さんが「ちょっと」の部分を不自然に強調しながらニッコリ笑う。
「ねえ、よーたん。ゆみたん怒ってないっていうし大丈夫だよ。それより何かご用事あったんでしょ?」
彩音ちゃん、それ助け舟になってないよ。
むしろ状況を悪化させかねないよ?
ゆみたんとかあやたんとかよーたんとか、たんたんたんたん……。なんなの? ここ仙台なの?
とはいえ由美子さんが仕事の合間を縫って時間を割いてくれているのは事実。あまりグズグズしてるのはまずい。
恐る恐る顔を上げて由美子さんの表情を窺う。
由美子さんはボクの視線に気づくと、微笑みながら促すように二、三度頷いた。
「あの。ゆ……由美子さん…」
話しかけた相手が言葉半ばで横を向き、ふうっと深いため息をつく。
「もう、ガード固いなあ」
何だろう。あんまり忙しいワケじゃないのかな、この人。
それでも怒っているというよりはどちらかと言えば拗ねているような感じだし、構わず話を続けることにした。
「実は、前に大塚さんと来た時のことなんですけれど」
そう話を振ると、チロリと横目に睨まれる。
「何? よーたんのSな彼女の話?」
言葉にトゲがある上に「よーたん」呼びを定着させようという執着が滲んでいた。
抵抗すると逆に嵩にかかられる危険がある。ここは敢えて流そう。
「いや、その話じゃなくてですね……」
「そう! そうなんですよ! 大井川さんって、ほんっっっっっとドSなんですよぉ!」
ボクの言葉を遮って、彩音ちゃんがテーブルの上に乗り出しながら訴えた。由美子さんも由美子さんで、ボクの話そっちのけで喰いつく。
「あら、やっぱりそうだったの!? あやたん、その話詳しく!」
まったくもう!
この調子じゃあ、いったいいつになったら本題に入れるのやら……。
「もう大井川さんって、ホントに陽ニィをイジメるのが生きがいみたいな人で……、ムグッ」
思わず人差し指を彩音ちゃんの唇に押しつけた。
ごめんね。肝心な質問できなくなっちゃうからね。彩音ちゃんと里美のイザコザが怖いからじゃないからね。
「聞きたかったのは大塚さんの話なんです。中学生の頃の」
「ああ。なるほど」
由美子さんはそう返事をしながらも、彩音ちゃんの話が中断されたのが不服そうだった。口をへの字にして、角砂糖を二つ落とした紅茶をゆっくりスプーンでかき混ぜる。
「恭也クンの話ね」
その言葉に、彩音ちゃんがピクンと反応したのを人差し指で感じた。
やっぱり記憶違いじゃなかった。
さっき宗像さんの自己紹介を聞いた時のモヤモヤした感じ。どこかで聞いた言葉が含まれているのに、それをはっきり思い出せないじれったさ。
やっぱりここだった。
ここで聞いたんだ。「恭也クン」という名を、由美子さんの口から。
もちろん偶然の一致ということだってある。
「きょうや」が日本人男性の名前ランキング何位なのかは知らないが、その名を持つ男の人が複数いるのは当然だ。
ただ、ありふれた名前だとも思わない。
少なくともごく短期間に、自分の周囲に二人も現れるほどには。
「ねえ陽ニィ」
彩音ちゃんの唇が震える感触がくすぐったくて、思わずそっと指を離した。
さっきとは打って変わって、彩音ちゃんが神妙な目つきでボクを見上げる。
「何? 何の話?」
「うん? ……里美の先輩の話」
そう言葉にしてみて、初めて当たり前のことに実感がわいた。
大塚さんにも、今の彩音ちゃんみたいな頃があったんだなあって。
「その人が中学生だった頃の、小さな恋の話だよ」