雨の街の一風景
梅雨。
言わずと知れた、六月上旬ごろから約一ヶ月~一ヶ月半にわたって続く気象現象だ。
前線を伴って北海道と小笠原諸島を除く日本列島を雨雲に閉ざし、夏季の水資源と経済利益をもたらす一方で精神的不快感を強いる。
元々は「黴雨」の表記だったのが、字面がよくないためこの時期に実をつける「梅」の字が当てられたんだとか。
気分だけでも爽やかにという、そんな古人の気遣いを無にするようで申し訳ないが、ボクの中のイメージではやはり「黴雨」の方がピッタリしてしまう。
もう空気がジメジメして生ぬるくて、どうにもこうにも気分が滅入る。
けれどそんな中、雨の街をボクと並んで歩く彩音ちゃんはことのほかご機嫌だった。
黒の縁取りとニャンコの足跡マークがデザインされた白い傘を時折クルクルと回し、鼻歌まじりで道の脇に立ち並ぶ店のウィンドウを覗き込んだりしている。
ボクの母方の従妹で、ボクの家に居候し、ボクと同じ水澤学園に通っているボク要素満載の女の子。現在、中等部の二年生。
まあ彼女がご機嫌な理由は何となく想像がつく。昨日、一学期最後の山場である期末試験の日程がすべて終了したからだ。
もちろん結果が良かったかはまた別問題なんだが、夕食の時にそれとなく水を向けたらそこそこ手応えはあったらしい。つまり後は実質、約四十日間に及ぶ楽しい夏休みを待つばかりというワケだった。
一方、高三の受験生であるボクにとっては、この夏休みは来年春の明暗を分ける大事な時期だ。彩音ちゃんのようにワクワクしてばかりというわけにはいかない。
だがそれでも、夏休みの到来は苦手な梅雨の終わりを告げる声であることに変わりはなかった。まあ、梅雨が明けたら明けたで、今度は殺人的な暑さに見舞われるんですけどね。
……ああ、もういや。暑いのとか寒いのとかジメジメしたのとか、ホントもういや。
お願いです神様、年間の気候を気温二十五度、湿度四十パーセントくらいで固定してして下さい。
「ねえ陽ニィ、ちょっとノド渇かない?」
彩音ちゃんがニャンコ傘をクリンと回転させながら、見慣れたおねだりスマイルを向けてくる。
仕草は非常にかわいらしいのだが、遠心力で傘の縁から弾けた水滴が何粒か、ボクの顔にパッと降りかかった。
こういう少女の稚拙さというものは、時として男の目には無垢な快活さの現れと映るから厄介だ。
「本来の目的の前に、もうお茶の時間なの?」
人差し指で顔の雨粒を払いながらちょっと目を細めて見せる。
しかも彩音ちゃん、ノドが渇いたと言いながらいつもパフェとか頼むんだよなぁ。ボクに言わせれば余計にノドが渇きそうな気がするんだけど……。
「そんなに急がなくても予約したBDは逃げないよ、陽ニィ」
「まあ、そりゃあそうだけどね。ていうか、逃げないように予約したワケだしね」
「え? 予約したのは初回予約特典が欲しかったからだよ?」
彩音ちゃんがキョトンとした顔で目をパチクリさせた。
ああ、そういうことだったんですねー。眠い目を擦りながら、午前零時のネット予約開始直後にボタンをクリックしたのはボクですけどねー。
彩音ちゃんがおねだり上手なのは昔からのことだが、ここ最近は女の子特有の仕草や表情を織り交ぜるスキルまで習得していた。おかげでボクの陥落率チャートも順調に上昇中だ。
今日も今日とて、期末試験をがんばったご褒美という名目のもと、予約済みのミュージックビデオの購入がてら千葉の街へと連れ出されているところだった。
「いいじゃんいいじゃん、陽ニィ。どうせ今日は邪魔者もいないんだし、ゆっくり遊ぼーよ!」
なんか、ことのついでみたいにとある人物が邪魔者扱いされていた。
その人物とは恐らくボクの一つ年上の彼女、大井川里美。
稀代の天然おバカ女子にして、無類の奔放さと凶暴性を併せ持つという色んな意味での危険人物だ。この春に高校を卒業し、今は一人暮らしをしながら近くの私立大学に通っている。
小さなころからボクの未来の花嫁を自称していた彩音ちゃんにしたら、里美はクワガタの前に立ちふさがるカブトムシみたいなものだ。つまりボクが樹液。……樹液かあ、ビミョー。
二年前の不幸なバッティング以来ずっと里美に敵愾心を抱く彩音ちゃんは、ことあるごとに大顎を振りかざして戦いを挑んできた。
里美も里美でお子様レベルの意地っ張りなので、挑まれれば負けじとツノを突き出して応戦する。嬉々としてする。
一時期、この昆虫大決戦はボクを本気で辟易させた。ヘルクレス・リッキーVSタランドゥスとか、見ててガチで怖すぎる。
近頃はようやく雪解けの気配が感じられるようになったものの、やはり要所要所で互いに憎まれ口をきいたりする間柄なのだ。
「クスクス。土曜日にサークル活動が入るなんて、大井川さんも不幸だよね。大井川さんの不幸は私の幸せ。今日は陽ニィを独り占めだよー!」
フェス会場にいるくらいのテンションで腹黒いコメントが響き渡る。
里美は今日、所属しているビリヤードサークルの活動の一環として、とあるプールホールの店舗大会オフィシャル要員に駆り出されていた。
まあその時点で大会の成否はほぼ決したと思っていい。里美なら、対戦結果の転記ミスで大会成立自体を危険にさらすくらいはやってのける。
おそらくサークルの会長も、以後のオフィシャル派遣人員の選定からは里美を除外するだろう。もしかしたらサークルそのものから除外する可能性まである。
「というわけで時間はタップリあるんだし。陽ニィ、どこかいいお店知らない?」
彩音ちゃん、ここはどうしても引き下がらないつもりらしい。いや、どこでも引き下がったことはほとんどないんだけれども。
「時間があるっていってもなー。兄ちゃん、受験生なんだけどなー」
一縷の望みをかけて、ちょっとカワイイ感じでささやかな抵抗を試みた。
「やだなあ陽ニィ。私だって悪魔じゃないよ? ちょっとお茶して買い物して、映画を一本見てカラオケ二時間くらいできればそれだけで十分だよ? あとは陽ニィの貴重な時間を邪魔したりしないよ?」
悪魔だった。
ただし、どうにもかわいらしい小悪魔なので扱いに困るんだが。
そっと溜め息をついてみるものの、悪魔封じの秘術も知らない身では抗うこともかなわず、諦めて雨の街並みをグルリと見回す。
「そうだなあ。この辺でカフェっていってもなあ……」
里美みたいな平均値離れした彼女を持つビンボー高校生にオシャレなカフェなど縁があるはずがない。
しとしとと雨に煙る千葉中央駅付近を見渡しても、心当たりすらないのではいたずらに視線が泳ぐだけだ。
「スタバ……とかじゃダメ?」
「んー。なんか違うー」
唇を尖らせ、彩音ちゃんが不平をあらわにする。
まあ、確かに彩音ちゃんが求めてる雰囲気はああじゃないんだろうな。
「なんかもうちょっと家庭的でさ、暖かみのある感じの……」
「それってサイゼとか?」
「ゼンゼン家庭的じゃないよ!?」
ぷくーっと彩音ちゃんのほっぺが膨らんだ。
「え、何で? サイゼって家庭的じゃない? だって『ファミリーレストラン』だよ?」
「中高生にとっては『友達とマッタリするとこ』なの!」
いや彩音ちゃん、ボクもその中高生なんだけど。
こめかみをグリグリと指で揉みながら思案に暮れていると、ぷいとソッポを向いていた彩音ちゃんのほっぺが急激にしぼみ始めた。
その視線は歩道を行き交う傘の群れに吸い込まれていて、顔の表情も不満から軽い驚きにゆっくりと移り変わっていく。
「宗像センセ……?」
その呟きはともすれば、車が路面に溜まった水を巻き上げる音にすら掻き消されそうなほどだった。
彩音ちゃんが見つめる先に向かって目を凝らしてみるが、かなりの数に及ぶ通行人の誰が彼女の注意を引いているのか特定できない。
どうするべきか戸惑いながらそのまま立ち尽くしていると、やがて彩音ちゃんがボクらの目の前を通り過ぎようとする一人の男性にテテッと駆け寄った。
「やっぱり宗像センセーだ!!」
今度の声は、実に彩音ちゃんらしい明るさとボリュームだった。
声を掛けられた男性の方は、ホールドアップに出くわしたみたいに目を見開いて顔をのけ反らせている。
「センセー、私、私、わ、た、し!!!」
彩音ちゃんがクイクイと自分の顔を指し示しながらまくし立てた。電話越しなら間違いなくオレオレ詐欺と判断されて通話終了のレベル。
男性の方は相変わらずまごついたような表情のまま、彩音ちゃんをもの問いたげな目で窺っている。その様子を見る限り、彼にワタシちゃんという少女の知り合いがいないことだけは間違いない。逆に言えばそれしか分からない。
さらにさっき彩音ちゃんが発した「センセー」という言葉。
声を掛けられた男性は一見ボクと同じくらいの年頃、少なくとも二つ三つより上ということはないだろう。彩音ちゃんの先生というにはちょっと若すぎるように見える。
「ねえ、彩音ちゃん」
さすがに人違いを懸念し、ためらいながらも二人に歩み寄って口を挟んだ。
だが、意外なことにその呼びかけに男性の方が反応した。
「彩音ちゃん?」
彼はチラッとボクに視線を走らせながら目を丸くする。
どうやらワタシちゃんに心当たりはないが、彩音ちゃんにはあるらしい。
男性は彩音ちゃんに向き直ると、戸惑いの表情を浮かべてその姿に見入った。
「キミ、廣沢彩音ちゃんなの?」
「えへへ。センセ、久しぶり」
彩音ちゃんがとびきりの笑顔で男性の問いを肯定する。
ほう、よかった。どうやら人違いではなかったみたいだ。
「そうか。すっかり大きくなったから、彩音ちゃんだって分からなかったよ」
クリクリと丸い目に柔和な笑みをたたえ、しきりに頷く男性。涙滴型のぽちゃっとしたシルエットの体型も相まって、ホノボノとした雰囲気を纏っている。
なんか木の葉で包んだおみやげくれたり、ネコバス呼んでくれたりしそう。傘さしてるところ見るとよけいに。
「あ、陽ニィ。この人ね、宗像センセー。五年生の時に家庭教師してくれてたんだ」
「ああ、あなたが陽輔お兄ちゃんですか。彩音ちゃんからよくお話を聞いてました。宗像恭也と申します」
彩音ちゃんの紹介を受けて、宗像さんがペコリと頭を下げる。
「あ、始めまして。棚橋陽輔です」
今の宗像さんの言葉に引っかかりを感じつつ、慌てて挨拶を返した。
何だろう。何か気になる。同年代の男の人に「陽輔お兄ちゃん」とか呼ばれたことじゃなくて。いやそれもすごく違和感あるんだけど、そういうことじゃなくて何か聞き覚えのある言葉を聞いた気が……。
「センセー。私、水澤中うかったんだよ。センセーのお陰! 六年生の時は教えてもらえなかったから報告できなかったけど」
「ごめんね。彩音ちゃんが六年生の時は、自分も大学受験だったから……。でも無事に合格できたんだね。おめでとう」
「センセーは大学どうだった? ちゃんと第一志望受かった?」
「うん、受かったよ。無事現役で」
「よかった、おめでとー!」
二人の会話が弾む傍ら、ボクはさっき感じた違和感の正体をあれこれ探っていた。何かちょっとしたイメージを伴う記憶が、ギリギリのところでもどかしくも蘇ってこない。
「それじゃあ、ボクはこれで」
その声ではっと我に返った。
「彩音ちゃん、またね」
「うん。センセーも元気でね」
ニコニコと手を振る彩音ちゃんに手を振り返すと、宗像さんはボクに軽く会釈をしてみせる。
ボクもペコリと頭を下げ、JR方面へ歩き去る宗像さんの背中を見送った。その姿が人の流れに溶けて消えた瞬間、彩音ちゃんにあるお題を出されていたことを思い出す。
家庭的で暖かい雰囲気のお店を探すべし。
宗像さんの挨拶の違和感より前に、こっちのステータスがまだ未達だった。
家庭的で暖かい雰囲気っていってもなあ。前に彩音ちゃんを連れて行ったB・Dogとかなら合格なんだろうけど、ここからは駅二つあってちょっと遠い。
この近くに似た雰囲気の店なんて……。
「あ……」
ある。一つだけ心当たりが。
しかもビックリすることに、その心当たりの記憶は偶然さっきの違和感の正体に結びついていた。
そうだよ、あの場所だよ。
「陽ニィ、どうしたの?」
ヒョコッと彩音ちゃんが顔を覗き込んでくる。
「彩音ちゃん。あったよ、いいお店が」