第二話「鏡の向こうに映るもの」
読んでくださる方に、合う作品であることを祈りつつ。
2017/08/21 誤字修正、ルビを振りました。
鉛筆がこの世に現れたのは、一五六〇年のイギリス。
それが日本に入って来た正確な年月は、未だ不明であるものの、かの独眼流も使用していたらしく、さらに徳川家康の遺品として見つかったことから、鉄砲と同じ時期なのではないかといわれている。
時はそれよりも流れ、明治という名に変わった現在。
それでもまだ鉛筆は珍しく、庶民の手に入らないほどの貴重品ではなかったが、それを二本買うだけのお金があれば、"その日の食事に困る"ようなことだけにはならかった。
「腹減った……仕方ない、やるか」
今後のことを考えた青年は、絵がお金になるだろうと、残りのお金を全て絵の道具に注ぎ込んでいた。中でも鉛筆はチト高かったのだが、消しゴムを使えば何度も絵を描き直せて、経済的だと考えたからだ。しかし、そのお陰で"その日の食事に困っている"のである。
小次郎は、飯の種になる予定の風景画を何枚か木に貼り、客引きを始める。
「絵は如何ですかぁ~。どうだい、そこの綺麗なお嬢さん! なんなら似顔絵も、お描きしますよ」
どう見ても、"お嬢さん"と呼ばれるには、最低二十年の時を戻らなければならない女性であったが、まんまと青年の"綺麗な"という形容詞に乗せられ、飯の種となる。
筆入れから鉛筆を取り出し、軽く下書きをしたあと、絵筆に持ち替えて色を着けていく。あっという間に絵は仕上がり、出来たその絵を女性に手渡した。
上手く描けていたのだが、女性はその絵を気に入ってはいないようだった。それもその筈で、青年が描いた絵は、二十年の時を戻れておらず、シワやシミなども描いてしまったからである。
お代は辛うじて戴けたものの、握り飯三つが精一杯だと思われた。
早速、近くにあった飯屋に飛び込むように入り、店主に「これで食えるだけ!」といって、お金を手渡した。予想はしていたが、やはり出て来たのは、握り飯が三つに沢庵が二切れ添えられているだけだった。
昨日の朝から何も食べていなかっただけに、具のない握り飯でも旨かったのだが、やはり全く足りない。手っ取り早いところで店主に「似顔絵でも……」と声を掛けてみたのだが、忙しい昼時だったこともあって、軽く手を振られアッサリと断られた。
「こんなことなら、遠慮せずにお爺さんからお礼を戴いておくんだった」
既に客としての役目を終えていた青年に、店の主人は冷たかった。せめて置かれていた無料のお茶で腹を膨らませようとしている青年から、その生命線を奪ったのである。
仕方なく小次郎は、店から出ざるを得なくなった。
「あぁ、どっかに医者でも治らなかったって、病気の人とか居ないかなぁ」
普段ならそんなことを口に出さないのだが、空腹のせいでつい口走ってしまった。
「貴方、医師なの?」
独り言を聞かれてしまった恥ずかしさを感じながら、ゆっくりと振り向けば、そこには年の頃なら二十歳前、高そうな着物姿の女性が立っていた。
「まぁ、そんな感じです」
「感じ?」
「はぁ……」
着物の女性は、答えに困りながら頭を掻く青年に頼りなさを感じたが「まぁいいわ」といって、自分に付いて来るように指示した。
あまりの高慢さに、苦手な部類の女性だと感じつつも、その分お金の匂いもしたので、背に腹は替えられない自称医者の青年は、何が在るとも知らないまま付いて行くのだった。
案内された屋敷は、見るからに"お金在ります"といった感じの西洋風で、さらなる期待を膨らませた。あとは、患者が"普通の病気でない"ことを祈るだけだった。
いくつもの部屋を通り過ぎ、さらに広い庭園の奥に在る離れへと向かった。部屋に入ると、そこには白髪の老婆が鏡台の前に座って泣いている。
「姉さん……」
その掛けられた言葉に、思わず驚いて声を出したら、自分を連れて来た妹から睨まれた。申し訳なさそうに無言で謝る青年を無視して、妹は姉へと近づき、もう鏡は見ない方がいいと慰めていた。
「姉さん、新しい医師を……」と言ったところで、姉はさらに泣き崩れ、妹を非難する。
「何人連れて来ても同じよ、私の病は治らないんだわ!」
そう言って振り返った娘は、髪だけでなく肌まで老化していた。
妹の話によると、この老婆は双子の姉で、六年前に突然、姉だけが老化したのだという。
「どうやら、生気を吸われたようですね。ですが、貴方も、この部屋にも、物の怪は憑いてはいないようです。何か怨まれるような事をした覚えはありませんか? 実は私、医者というより、祈祷師に近いんですよ」
小次郎が今まで、自分の職業を"祈祷師"と言わずに"医者"と言ったのは、明らかに祈祷師という職業が怪しく感じられ、余計に相手にされないと思ったからであった。しかし、今回の場合は、祈祷師という職業こそ有効に思えたのだが……、
「なんですって! 騙したのね!」
それに対して、激怒したのは妹の方だった。
「貴方みたいな人間、山ほど居たわ! 何もできない癖にお金だけしっかり取って、説教だけ一人前。もう、うんざりなのよ! ごめんなさい姉さん、変なの連れて来ちゃって、すぐに追い出しますから」
「待ってください。もし、治らなかったら、お代を戴くつもりはありません!」
その言葉に、姉の心が少し開いた。
「待って……」
今まで、自分の前に現れ金を貪った者たちは、数え切れないほど居た。散々祈祷を行った挙句「自分の手には負えない」と、あきらめて帰る者はまだ良い方で、家のあらゆる場所に貼らないと効果がないと言い、お札やお守りなどを大量に買わせた者や、時間が掛かりそうだと言って、長期に渡って滞在し、贅沢の限りを尽くした者まで居た。だが、姉にはこの青年がその者たちと違うように見えた。
「私の病を治せる?」
「それは今のところ判りません――ですが、その病の原因が物の怪であったなら、なんとか出来るかも知れません」
判らないと言ったことが、返って姉の信頼を得た。
「その病となる前に、怨まれてしまうかも知れないと思うような出来事は在りませんでしたか?」
「いいえ」
「逆恨みという場合もありますよ」
「ちょっと! 逆恨みなんて見に覚えがないんだから、思い出すもなにもないじゃない!」
妹の言うことも最もだった。そこで小次郎は質問を変えてみる。
「それもそうですね。では、貴方のお父さまのお仕事で怨まれそうな事ってありませんでしたか?」
「失礼ね! 汚いやり方で成り上がったとでも言いたいの!」
なにかと噛み付く妹に面倒臭さも感じたが、ここは我慢して納得させる理由をつけて続けた。
「そんなつもりじゃないですよ。成功を妬む人も少なからず居ますからね」
「父の仕事相手は異国人だけですので、仮に怨まれるような事があったとしても、私ではなく父か母になるでしょう」
「では、その病となる前、どこかへ行きませんでしたか?」
姉は暫く考えてから、
「遠足で山に……でも、それは病にかかる一週間も前のこと」
「他に、どこかへ行った記憶は?」
「ありません」
「その山で、何かしてしまったような覚えは?」
「覚えていないだけに、無いとは言い切れません」
「では、何か思い出すかもしれませんから、その山へ行ってみませんか?」
姉は素直に受け入れ、妹は怪しい青年を見張るために、同行することになった。
そして、いざ山へ向かおうとしたその時、小次郎の腹が鳴る。
「お食事にしましょうか?」
この部屋に入って、初めて姉が笑顔を見せた。
「い、いえ、お代は治さなければ戴かない約束ですから……」
「いいわよそれくらい! 騙されるのが嫌なだけで、ケチだと思われたくないわ!」
「では、代わりに肖像――治ったら肖像画を描かせてくださいね」
「ありがとう」
姉は、絵を描いてもらうことよりも、老婆である今を描かれても嬉しくはないだろうと、自分を気遣ってくれた青年の気持ちの方が嬉しかった。
この洋館には、姉の百合子、妹の千佳子と数人の召し使いが住んでいる。この姉妹の両親はというと、取り引きのために現在は西欧に行っているとのことだった。
テーブルに並んでいく料理は、見たことないようなものばかりで、さらに道具も解らないものばかりだった。眼を丸くして戸惑っている田舎者の小次郎に、千佳子は得意気に道具の説明をし始めた。
「これはナイフ、肉などを切るのに使う小刀ね。で、これがフォーク、これで刺して食べるんだけど、先ほどのナイフで切るために、こうやって押さえたりもする道具なの。スプーン――匙は、説明しなくても解るわね?」
小次郎は無言で頷き、初めて手にする道具に戸惑いながらも、使ってみることにしたのだが、これが矢張りというか巧くはいかず、
「あの~、箸はないのでしょうか?」
小次郎がそういうと、千佳子は呆れかえり、百合子はそれを見て笑いながら、手を叩いて召し使いを呼んで箸を用意させた。しかし、箸に合わせて作られた料理でもないので、流石に使い慣れている箸でさえ、苦労させられる品も少なくはなかった。
既に十分に恥を掻いて開き直ったのか、それとも食欲に我を忘れたのか、手を使うことも躊躇わず、遠慮という言葉を知らない獣のように、胃の中へ詰め込めるだけ詰めていった。お陰で、服の汚れは酷いものだった。
フゥ~ッと大きく息をついたところで、その獣の食事は終了した。すると一人の召し使いが小次郎へと近づいて「よろしければ、お召し物を洗いましょうか?」と小声で話し掛ける。
「着る物、これ一枚しかないんで……」
そう小次郎が言うと、千佳子は汚い物を見るような眼差しを向けてきたが、百合子は、
「今日、山へ行くのは止めにしておきましょう。どうぞ貴方もご自分の汚れを落としてきてください」
そう言って、召し使いに父の寝巻きを出すよう促した。
まるで温泉宿のような露天風呂にも驚いたが、牢名主のような高い寝床にも驚いた。弾む敷き布団は心地よく、ちょっと横になったつもりが満腹感も手伝って、いつの間にか夢の中へと迷い込んだ。
夢の中で、小次郎は走っていた。
遠くで、炎が揺れているのが見える。
「早く、一刻も早く」
近づくたびに炎は大きくなり、その中には――。
小次郎は、自分の絶叫する声で目を覚ました。まるで、本当に走っていたかのように汗を掻き、息も荒かった。
その叫び声を聞いた召し使いたちは、何事かと覗きに来たのだが、まるで別人のような小次郎の殺気に満ち溢れた表情に、声を掛けられないでいた。
誰かに見られていることにようやく気付いた小次郎は、我に返り、怖い夢を見ただけだと告げると、再び風呂に入ることによって、落ち着きを取り戻した。
もう眠る気になれなかった小次郎は、夜風にあたりながら、夜が明けるのをじっと待った。
日が昇ってから暫くすると、朝食の準備ができたと呼ばれ、席に着くや否や、千佳子に非難される。
「全く、怖い夢なんかで眠れないなんて……大丈夫かしらねぇ、姉さん?」
「千佳子さん!」
「面目ありません」
朝食を済ませると、早々に目的地である山へと向かった。
二十分ほどでその山道の入口に着いた三人は、遠足で歩いた道を一歩一歩確認するように登って行った。途中、何度か老女である姉の体を気遣って、休憩を挟みながらも、なんとか中腹までやって来たのだが、まだなにも思い出せないようだった。
「確か、この先に神社があるから、そこでお昼にしましょう」
と、山の中腹に位置するこの神社に入ったとき、小次郎は怪しげ気配を感じ取る。
「此処で、何かした記憶はありませんか?」
だが、百合子は何も思い出せないようだった。
居るな?
何処だ……あそこか!
小次郎が見上げた先――神社の屋根には、怪しげな老婆が立っていた。老婆は屋根から飛び降りると、小次郎たちにゆっくりと近づいてきた。その背は腰が曲がっていることもあり四尺ほどで、髪は白くざんばら、爪は異様な歪みを見せながらも、その先は鋭く尖っていた。
禍々《まがまが》しい妖気を感じさせる老婆に、確信を持って小次郎が問いかける。
「お前が呪いを掛けたのか?」
「やはり、あの時の娘か? もうその姿では、鏡なんぞなくてもいいだろう?」
「何のこと?」
「何のことか……その身となって、儂と会うても、未だに思い出せないとは、つくづく腹立たしい! ならば思い出させてやろう」
それは六年前、姉妹の通う学校がこの山へ遠足に訪れた日のこと。
この神社の境内で昼休憩を取ることになり、弁当を食べ終えた数人の生徒たちとこの姉妹は、隠れんぼをして遊ぶことにした。
いざ隠れようとした時、鬼の方を気にしながら走って来た一人の娘が、そこに偶然居合わせた老婆とぶつかり、老婆の手からこぼれ落ちた手鏡が割れてしまう。
「儂の、儂の大切な鏡が! どうしてくれるんじゃ!」
「何よ、いいじゃない鏡ぐらいまた買えば。それに貴方みたいな婆さんには、もう必要ないでしょ! 急いでるんだから、邪魔しないでよね!」
「待て!」
老婆は必死に追いかけたが、その子供の足に追いつくことができず、その場に泣き崩れるしかなかった。しかし、その悲しみが怒りに、そして殺意へと変貌を遂げた時、その魂も人から、人ならざるものへと変えていった。
山姥と化した老婆は、娘をその場で殺すことよりも、娘が蔑んだ老婆にしてやろうと考え、娘の友達に金を渡して娘の髪を盗ませ、その娘を呪ったのであった。
「怨みたい気持ちは解るが、六年も苦しめたんだ、もういいだろう? どうすれば元に戻る?」
「あれは、亡くなった主人から戴いた大切な鏡だった! 許すことなど未来永劫できぬわ!」
「私……私じゃない……」
その時、百合子はあることに気付いて振り返えれば、妹の顔が真っ青になっていた。そして、その"未来永劫"という言葉に、百合子の感情は噴き溢れ、自分でないことを叫ばずにはいられなかった。
「貴方の相手は、私ではなく妹だったのよ! 私の若さを返して!」
そう言って、後ろに居る妹を指差した。
「オイ!」
小次郎は遮ろうとしたが既に遅く、それを見た山姥は、その指の先に居る娘に飛びつき噛み付くと、その生気を奪い始める。悲鳴と共に、千佳子は見る見る内に白髪となり、その姿は段々と姉へと近づいて行く。
小次郎は、山姥に体当たりして千佳子から離すと、右手の包帯を解き、その手首を切り裂いて、腕から滴る血に筆を直に浸け、山姥の首だけを残すように描いて動けなくした。
「もう一度聞く! どうすれば元に戻る!」
「間違えた娘には、すまないことをしたと思っている。解けば教えてやる!」
それを信じて、小次郎は紙を破いて封印を解いた。しかし、その瞬間、山姥は小次郎へと襲いかかった。
「ワシが死なぬ限り、呪いは解けぬわ!」
辛うじて山姥の攻撃をかわした小次郎は、その足を描いてその動きを止めた。
「おのれ!」
「すまんな、成仏しろよ」
そう言って山姥を描き切ると、火を着けて空へと投げた。絵は蒼白い炎に包まれ、一瞬にして燃え尽きた。
――だが、少女たちに生気が還ることはなかった。
読んでくださって、ありがとう。
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その妖怪は、日本書紀や古事記などで記されている伝説の魔龍ヤマタノオロチの息子で、
身の丈が二十尺、角が五本、眼が十五個もあり、
数多くの鬼を配下に持つ、三大妖怪の一人と呼ばれていた。
次回「虎の威」