第十九話「越すに越されぬ大井川」
読んでくださる方に、合う作品であることを祈りつつ。
2018/01/18 次回予告追記。
「これ美味いぞ、お前も喰うか?」
その言葉を待ってましたとばかりに、犬は小次郎が手にした餅に飛び付いた。
「おいおい、そんな慌てなくても、餅は逃げないんだからさ……」
急に口へ入れたものだから、餅の周りに付いていた黄な粉が咽喉に貼り付き、苦しそうに咳き込み始める。
小次郎は「ほら言わんこっちゃない」と呟くと、傍に在った湯呑みを取り、犬の口へ、ゆっくりと茶を注いだ。
余程苦しかったのだろう、まるで走った後のように息を荒くしている。
そんな犬を見て、この安倍川餅を買って来た彦左衛門は「幾ら名物で美味くとも、それではもう喰えんの」と言って、呵呵と笑った。
その言葉に、もう貰えないと思ったのか、犬は未だ開けてない餅の袋を一つ銜え、一目散に走り去った。
「おい、コラ!」
大きく溜息をついた後、餅を買ってきてくれた彦左衛門に謝罪する。
「すみません」
「構わんよ、あれはあの子に遣るつもりだったんじゃから」
「そうだとしても……私は、あいつに盗み癖をつけて欲しくないんですよ。他人の物を盗まないようにと注意して、あいつも理解しているように見えたんですが……矢張り、犬に人の言葉は通じませんね……」
そう言って肩を落とす小次郎に、彦左衛門は違う答えを導き出した。
「それは違うよ、小次郎君。きっとあの子は、君の気持ちを解っておるよ」
「そう言われましても、今、盗って行ったばかりですし……」
「君は、あの子に言ったんだろ? 他人の物を盗むなって」
「はい……」
「まだ解らんかね? 最近、漸く儂は、あの子に吠えられんようになったよ」
「あ!」
「そう、家族なのか、はたまた仲間なのか、あの子がどう思ってるかは解らんが、あの子にとって儂は、もう敵でも他人でも無くなったということじゃよ」
「だと良いのですが……」
「賭けても良い。あの子は他人の物は盗まんよ。身内の物は、盗むかもしれんがな」
そう言って、彦左衛門は呵呵と笑う。
なんだか言葉巧みに、上手く騙されたような気分にもなったが、盗まれた本人がそう言ってるのだからと、納得することにした。
しかし、だからと言って、許すのも違う気がしたので、帰ってきたら叱ろうと思う小次郎であった。
「ところで、気分はどうかね?」
「まだ、頭がクラクラします」
「今日は一日、安静にしとった方が良いの」
雷獣に襲われてから、すでに十日が過ぎていたこともあり、少し早いが『血を粉にする』実験を行おうと、湯呑み二杯分の血を抜いたところで、小次郎が貧血で倒れたのである。
「すみません」
「君が謝ることじゃないよ。そもそも、儂が言い出した事なんじゃから」
「でも、私自身の問題ですし、それに商談も……」
「それは、気にせんで良いって。喩え今、島田に着いたとしても、相手も儂らも川を渡れんのだから」
駿河湾を覆う雲は、一向に無くなる気配を見せず、降っては止み、降っては止みを繰り返していた。
その為、雨が止んでも増水した川の流れは速く「大井川を渡れないので、待って欲しい」と、連絡を受けていたのである。
――箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川。
大井川は、東海道最大の難所と呼ばれていた。
それは、箱根のような自然的な難所ではなく、人為的な難所で、幕府の命により、橋を架けることも、更に船で渡ることさえも、禁止されていたのだ。
「大井川は、駿府城の外堀の役目を担っておってな。つまり、城を守る為に、橋を架けなかったと言われておる。一般庶民はおろか、大名ですら船を使うことは出来なかったらしい」
「へぇ~」
彦左衛門と一緒に居ると、色々な話が聞ける。
学校に行かず、働く選択をした小次郎は、彦左衛門に会ってから、学ぶ楽しさを感じていた。
「最長で、慶応四年に二十八日間も渡れんかったという記述があったそうじゃ」
「そ、そんなに!」
「ああ。だからそれを知っとる者は、どんなに辛くとも、大井川を渡ってから、宿を取ったもんじゃよ」
「あれ? でも、もう幕府じゃないのに、まだ禁止されてるんですか?」
「実はな、島田も金谷も、大きな問題を抱えておるんじゃよ」
明治に入った今、その禁止令は既に解かれているのだが、船で渡す商売を始める者や、橋を架けようとする者は現れなかった。
何故なら、島田宿及び、対岸の金谷宿は、それを生業としている者が多かった……否、多過ぎた。
船が禁止されている川をどう渡るのか?
運ぶ人を馬に乗せ、それを引いて渡ったり、御輿に乗せて運んだり、肩車をして運んだりと、川越し人足という職が在ったのだ。
藩直属の安定した職だったというのもあるが、客や自らの安全を守る為、厳しい訓練を長年に渡って行い、晴れて川越し人足と成った者たちは、腰に褌を締め、相撲の関取が如く『川越取』と呼ばれ呼び合う、自他共に認める、誇り高い職でもあった。
そんな川越し人足は、島田と金谷、合わせて700人が常時居て、最盛期には1300人を超えていたのである。
「そっかー、橋が架かれば、職を失うのですね」
「そうなんじゃよ。駿府城を守る為というのが定説なんじゃが、実は、増えすぎた職を守る為という説もあるんじゃよ」
「難しい問題ですね、利便性も大切だけど、そんなに多くの人が失業するのは……」
「人足だけでなく。長期滞在が多かったのもあって、旅籠も多いんじゃ。となると、旅籠で働く者や旅籠へ納入する業者も居るからの、そこまで行くと、仕事を失う者の数は、二千や三千の話では無くなるんじゃよ」
「そうなると、宿場自体の存亡にまで関わりそうですね」
「そうなんじゃよ」
すると、いつも明るい彦左衛門が肩を落とし、大きく溜息をついた。
「だがね、もう既に、橋を架けることが決まっておるんじゃよ」
「え! 政府が職を失うかもしれない人たちに、何か対応を考えてくれていれば良いのですが……」
「今のところは、何も考えておらんみたいでの」
この問題に、正しい答えってあるのだろうか?と考えてみたが、余りにも規模が大き過ぎて、何も見えてこないと思っていたら、別の疑問が出てきた。
「それにしても、何で知ってるんです?」
「実は、そういう話も込みの商談なんじゃよ」
「そうだったんですか、何か良い案でも在るんですか?」
「今の所、不十分ではあるんじゃが……まぁ、相手次第かの」
自信は無さそうだったが、本陣の取り壊しを防いだ彦左衛門なら、何か出来そうな気がした。
話が一段落したところで、いっぱいの黄な粉を口の周りに付けた犬が戻ってきた。
「あ~あぁ~、もう! こっち来なさい!」
叱られそうな雰囲気を感じとったのか、警戒しながらも、ゆっくりと小次郎へ近寄る。
小次郎は、犬の口に付いた黄な粉を手拭いで落としてやった。
怒りも手伝って、顔を拭くのに少し力が入り、犬は不機嫌な表情を見せたが、最後まで大人しくしていた。
「今度また、他人の物盗んだら、置いてくからな。全くもぅ……」
そうは言ってみたものの、犬が勝手に付いて来ているだけだし、保土ヶ谷の時も鎌倉の時も、預けたのに逃げて付いて来た。
コイツを置いていくことなんて、出来るのだろうか?
しかし、他に叱り方が思いつかない。
そもそも、飼い主でも無いのに、躾けで叩くのは違うし、次やったら「メシ抜き」なんて言ったら、逆に盗むだろうし、言葉が通じているのかも不安になってきているが、彦左衛門の言った「きっとあの子は、君の気持ちを解っておるよ」を信じることにしたと言うより、それしか無かった。
そんな所へ、仲居が現れた。
「鈴木さま、準備が整いました。こちらでなさいますか?」
「そうじゃの、そこの縁側でやろうかの」
「では、取って参ります」
そう言うと、仲居は七厘と瓦を持って現れた。
「何をするんです?」
「君も、血を粉にする製法を知っておいた方が良いと思っての」
「あぁ~」
「本当は、塩のように天日干しがしたかったのじゃが、生憎この天気ではのう」
仲居は、七厘の上に瓦を載せ、刷毛で血を薄く塗って広げると、炭に火を着けた。
「焦がさんように、気をつけておくれ」
「畏まりました」
仲居は、端の血を爪で削り、粘り気が取れたのを確認すると、先程とは違う竹の刷毛を出し、血を削り始めた。
「包丁で削っては、瓦まで削りかねんからの。竹の刷毛を作ってもらったんじゃよ」
「すみません、お手数お掛けします」
「いいえ、お世話になってる鈴木さまの頼みですもの、喜んでさせてもらっております」
この作業を繰り返すこと数度、その後、小次郎も今後の為に練習し、湯呑み一杯分が終わったところで中止する。
「粉にするのは、この辺にして、残り一杯分は、水で薄める実験に使おうか」
「では、今から墓にでも」
「いやいや、今日は一日安静に」
「あ、そうでしたね」
読んでくれて、ありがとう。
血を水で薄めたとしても、術は成立するのではないか?
次回「血で紡がれた紅い糸」




