第十八話「亀の甲より年の劫」
読んでくださる方に、合う作品であることを祈りつつ
小次郎が持つ陰陽の筆は、自らの血を浸し描くことで、物の怪の類を紙へと封じる事が出来る。
血の赤一色である筈の絵が、実際の色へと変化すると、描いた部位の硬直が始まり、さらに全身を描けば、その姿は現実世界から消え、まるで紙へ転移したのかと錯覚するほどに、紙の中の絵は鮮明な姿へと変貌するのだが――。
今し方、小次郎が描き終えた霊の絵に、実際の色が着く事は無く、赤いままだった。
「矢張り、駄目のようですね」
それを聞いて、彦左衛門は自分の事のように落胆し、溜息と共に言葉を吐き出した。
「ハァー、他の血では補えんか……」
この実験の発端は、昨夜の夕食時での会話から始まる。
「君の戦い方は……絵を描いて退治するのかね?」
小次郎は、口の中に入れた物を茶で流してから、その質問に答えた。
「はい、そうなります」
そう返事して、後ろに置いて在った鞄から、ゴソゴソと一本の筆を取り出し、彦左衛門に見せた。
「此れ、師匠から戴いた物なんですが……この筆がですね、安倍晴明さまの骨と髪で出来てるんですよ」
掴んでいた刺身を箸から落とすほど、彦左衛門は驚いた。
「あ、安倍晴明!? あの陰陽師の?」
小次郎は悪戯っぽく笑い、彦左衛門を揶揄う。
「え? 他に居るんですか?」
「あぁ~済まん済まん、また、大物の名が出たもんだから、つい疑うような悪い癖が……」
一本取られたとばかりに頭を掻く彦左衛門を笑いながら、筆の説明を続ける。
「この筆で血を使って描くと、妖怪を紙へ封じれるんです」
「ほぉ、ほぉ」
「それで紙を燃やすと、描いた妖怪を黄泉へと送れるんです」
「ほぉ~それはまた凄い筆じゃね。しっかし、死して尚、その力を残すとは恐ろしい……否々、頼もしいじゃな」
そう言い直して、彦左衛門は呵呵と笑う。
「最初は、綺麗に描かないと封じれなかったんですが、修行して霊力が付いたことで、弱い相手なら、雑に描いても封じれるようになったんです」
「修行? 一体どんな?」
「同じですよ。霊や妖怪の絵を描いて燃やすんです。そうすることで、仕組みは解りませんが、私の霊力も上がるようです。だから、今までに数え切れないくらい墓を廻りましたよ」
そんな普通ではない会話に、何の関心も無い犬は、目の前にあるご馳走に夢中だった。
「なるほどな。ところで君が戦った中で、一番強かった妖怪は何かね?」
その質問に対して、小次郎は迷わず即答する。
「九尾ですね」
「否、そうでなくて、その筆を使うようになってからの話じゃよ」
「ですから、九尾です。実は、二度会ってるんですよ、九尾に」
「二度?」
そう彦左衛門が聞き返した時、犬が軽く吠えた。
「ん? どうした?」
小次郎は、何事かと犬の方に振り向いたが、彦左衛門の方が先に、犬の要求に気が付いたようで、
「あぁ、飲み物が無いんじゃな。桶にでも水を入れて貰って来ようか」
そう言って立ち上がろうとする彦左衛門を制して、小次郎は「私が行って来ます」と襖を開け、仲居の居るであろう厨房に。
暫くもしない内に、半分ほど水の入った桶を持って小次郎が帰って来た。
「この位で、足りるか?」
そう言ったが、無論、犬からの返事は無い。
畳に置いた桶の水を旨そうに、犬は飲み始め、小次郎は話を続ける。
「九尾とは二度会ったんですよ。会った時は、これで漸く仇が討てると思ったんですがね。二度目も、全く歯が立ちませんでした……」
「よく、生きていられたね」
「はい、あの時、師匠と会っていなければ、今頃、私も、富山の人たちも……」
「師匠? 君の師匠も、絵で妖怪を?」
「いえ、師匠は絵が苦手らしく、体術の使い手で……あぁ、あと法術も有るのかな?」
「絵が苦手?」
彦左衛門は、何かに引っ掛かったようで、小首を傾げる。
小次郎は、富山の単語で、或る事を思い出し、手を叩いた。
「あ、倒した中で一番強かったのは、飛騨に居た三匹の鎌鼬でしたね」
「飛騨のざ……」
異常に驚いた彦左衛門は、目を見開き、慌てるように左手で口を塞いだ。
「どうしたんです?」
そう言われ、右手で待って欲しいような合図をした後、そっと口から手を離し、深呼吸して語り始める。
「実はな、富山の薬を品として扱うために、何人か遣いをやったことがあったんじゃが、皆、帰らなかったんじゃ。てっきり、金を盗んで逃げたのかと思っていたが、今、話を聞いて、鎌鼬に殺されたんじゃないかと思ってな。疑った自分が恥ずかしい……今となっては、盗んで逃げた方を願いたいくらいじゃよ」
「そんな事が……」
「すまんすまん、暗くさせてしもうて、折角の飯が不味くなるのう」
再び、呵呵と笑って、話を戻す。
「ところで、雷獣の時に何枚も描いていたのは、何故かね?」
「あぁ、あれは……強い相手だと、紙が破れてしまうんですよ。で、紙が破れてしまうと、封じれない訳でして。でも、あの時、破れるまでの猶予が在ったんです」
「あぁ、それで全身を描く時間を作ったと?」
「そうです。雨で火が消されるとは思いませんでしたがね……」
そう言って、小次郎は頭を掻いた。
筆の説明が終わったところで、彦左衛門は、一つの疑問を口にする。
「それに使う血は、小次郎君の血じゃないと駄目なんかね? 他の人の血とか、動物の血とか……」
「それは無理だと思います……師匠が自分の血でと言っていたので……」
「憶測かもしれんが、君の師匠は苦手ではなくて、その筆で描いた事が無いのだと思うぞ」
「え? どうして、そう思うのですか?」
「霊力が高くなれば、雑に描いても封印できるのだろ? 君の師匠は、霊力が無いのかね?」
師匠に教えられるがままにやってきて、それが当たり前だと思っていたが、言われてみれば、確かにその通りだった。
「あ、確かに……でも、そんな嘘をついても、師匠に何の得も……」
「否々《いやいや》、君の師匠を嘘吐き呼ばわりしとる訳じゃないんじゃよ。何か他に、言い難いような理由が在るのかも知れんし」
「他に理由?」
頭を抱え深く考えようとする小次郎に、彦左衛門は「まぁ、真偽の程は良いじゃないか。試してみても、罰は当たらんじゃろ?」と言って呵呵と笑い、小次郎も「それもそうですね」と考えるのを止め、一緒に笑う。
「儂が言いたかったのは、君の術の真偽よりも、今後、君が数体の妖怪と対峙しないとも限らんし、先日の雷獣のように、何枚も描かなければならない状況も、起こり得るかも知れん。そうなれば、いつか貧血で描くどころでは無くなるかも知れないからなんじゃよ」
宿の世話は疎か、先日の雷獣では自分を助け、更には心配して、ここまで考えてくれる彦左衛門に、感謝するだけでは足らない気持ちを抱く小次郎であった。
翌朝、泊まっている宿の厨房で徳利を借り、その場で魚と鳥と牛と豚の血を得ると、次に人血を求めて病院へ。
しかし、残念ながら血を得られるような怪我をした人や亡くなった方は居らず、仕方なく血気盛んな若者から、金を払って血を戴いた。
こうして、一通りの血が揃ったところで墓、否、霊の居る寺へと向かい、現在に至る。
筆に血を浸して描き、そして、水で綺麗に筆に着いた血を洗い流すを血の種類だけ繰り返したのだが、魚や動物、頼みの綱だった他の人の血でさえも、赤以外の色で染まることは無かった。
「矢張り、駄目のようですね」
「ハァー、他の血では補えんか……」
結果としては、残念ながら『小次郎の術は、小次郎の血でのみ発動される』であった。
だが、彦左衛門は他にも試す価値の在る提案をしてくれていた。
血を水などの液体で薄めても、封印は出来ないのか?
血を乾かし粉状にして、使用する際に溶かして使えないのか?
「水も余ってますし、薄める実験を試しましょうか?」
「否、それはまた今度にしよう。さっき医者から聞いた話なんじゃが、湯呑み程度の出血量で、完全に回復するのは二十日ほど掛かるそうじゃ」
「え! そんなに!」
「この前の雷獣との戦いで、その位は失ってそうじゃったからのう。血の巡りが悪ければ、疲れだけでなく、考えも回らなくなるらしい。今は無理せず、ゆっくり試そう」
「はい」
実験の帰り道、小次郎は今までの旅を振り返り反省する。
今まで、長旅で蓄積された疲労だと思ってた。
今思えば、色々な戦いで疲れを感じてはいたんだ。
特に、箱根の芦ノ湖では、酷く疲れを感じていた筈なのに、二年も経っていた依頼の遅れを取り戻そうと考えるなんて……。
老爺の助言を聞かず、安易に箱根を越えようと考えたのも、その所為だったのかも知れない。
今後、気力や若さで何とかなるなんて、思わないようにしないと。
宿に帰ると、彦左衛門宛に手紙が届いていた。
「ふむふむ、どうやら、商談相手も雨で遅れているようじゃ。もう急ぐ必要が無くなったから、名物を喰いながら、ゆっくり旅をしようか? 勿論、実験もな」
「そうですね」
読んでくれて、ありがとう。
箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川。
次回「越すに越されぬ大井川」




