第十七話「天雲に近く光りて鳴る神の」
読んでくださる方に、合う作品であることを祈りつつ。
三度笠と黒い外套を身に纏った小次郎と彦左衛門、そして蓑を着けた犬は、雨の中、薩た峠を歩いていた。
それというのも、ここ数日、駿河湾周辺は生憎の空模様で、ずっと晴れるのを待っていたのだが、四日経っても五日経っても一向に止みそうになく「このまま長居すれば、商談の日に間に合わない」と、彦左衛門の事情を受け、由比宿を後にしたのである。
本来であれば、東海道の本線である海岸沿いを歩く予定だったのだが、由比から興津は『東海道の親不知』と言われるほどの難所で、連日の雨で海岸沿いは土砂崩れの危険性があり、迂回するしかなかった。
「すまんね、この雨の中」
「気にしないでくださいよ、私の方こそ助かってるんですから」
そう、彦左衛門と一緒なら宿泊費・食費が浮く、雨だろうが嵐だろうが付いて行くつもりでいた。
「それに、私には宛てが無いのですから……」
無論、本当に宛てが無い訳ではない。
何処に居るかは判らないが、九尾と言う名の宛てが有る。
しかし、身の上話をすることには、躊躇いがあった。
その理由は、二つ。
一つは、相手が妖怪だけに信用されないこと。
もう一つは、思い出してしまうからだ、村の皆や、妹が喰われた瞬間を。
宛てが無いから大丈夫と言っても、まだ負い目を感じている様子だったので、小次郎は話題を変えることにした。
「しかし、このインバですか、良い物ですね」
「あぁ、英国は雨が多いから、こういう良い物が生まれたんじゃろうな」
小次郎がインバと呼んだ物、それは身に着けている黒い外套のことで、正式な名をインバネスコートと言い、他にも『二重廻し』や『とんび』と呼ばれることもあった。
「彦左衛門さんは、英国に行ったことがあるのですか?」
「否、儂は行っておらんよ、遣いの者の話じゃ」
そう言って、彦左衛門は呵呵と笑う。
「そのインバ、気に入ったのなら、小次郎君に差し上げよう」
「え! いいんですか? 売り物なんでしょ?」
「構わんよ。君の旅に、今後も雨は降るだろうからね」
気を遣って話を変えた筈が、逆に気を遣われたようで、苦笑いをしながらも、在り難く頂戴することにした。
「異国かぁ、いつか行ってみたいですね」
「そうだ、君の旅が一段落ついたら、一緒にどうかね?」
「良いですねぇ、ぜひ、お願いします」
小次郎たちが、峠の下りに差し掛かったところで、長く降り続いた雨が止んだ。
雨が止んだとはいえ、まだ雲は厚く、ゴロゴロと雷が鳴っている。
「またいつ降るとも判らんから、今の内に少し急ごうか」
小次郎が「はい」と返事をしたその時、視界を奪うような眩しい光と、耳が割れるかと思うほどの轟音を伴って、目の前に雷が落ちた。
不味い!
強い妖気を感じる!
「な、なんじゃ、あの化物は!」
「彦左衛門さん、逃げて!」
視力の回復した小次郎が其処に見たものは、樋熊ほどの身体に、獅子のような面構え……、
「鵺か!」
そう呼ばれた妖怪は、毛を逆立てて激しい光を放ち、怒りを露わにする。
「鵺だと? 雷獣であるこの儂を鵺と呼んだか! 小僧ーッ!」
その怒声は、地響きするほどに大きく低い。
また、その怒りに比例してか、雷獣の周囲をバチバチと音を立て、幾つもの火花が飛び散った。
妖気が高い……封じれるか?
だが、迷っている暇は無い!
「私が相手をしている間に、彦左衛門さんは逃げてください!」
彦左衛門の方を振り向かずに、再び逃げるよう促した。
小次郎は鞄から小刀を取り出すと、すぐさま左の手首を切り、流れ出た血を筆に取って、雷獣を描く。
しかし、顔を描いたところで、紙は四散する。
「小僧! 貴様、陰陽師か!」
矢張り駄目か……ならば!
何を思ったのか、小次郎は雷獣の脚だけを描くと、火も点けずに紙を空へと投げ、心の中で数を数える。
1つ、2つ、3つ……
4つを数える前に、再び、紙は四散する。
「無駄だ!」
雷獣にとって小次郎の術は、人間の大人に脚を掴まれた程度のもので、少し強く振るだけで、その呪縛は簡単に解かれた。
しかし、小次郎は諦めることなく、黙々と脚だけを描いては投げるを繰り返した。
「無駄、無駄、無駄、無……」
一枚で止められる時間は僅かだが、重ねることによって余裕が生まれ、十二枚目にして全身を描ける時間を作り、小次郎は見事に雷獣を描き切った。
目の前から雷獣は消え、その姿が紙へと写ると、流れるように紙に火を着け、空へと放った。
「比良坂を越えて、冥府へ堕ちろ!」
空に舞った紙は、青白い炎に包まれ、燃え尽きる。
――筈だった。
それは、不運としか言いようがなかった。
まるで火を消す為かのように、止んでいた筈の雨が、再び降り出したのだ。
紙から炎が奪われるとすぐに紙は四散し、激しい息遣いと共に、再び、目の前に雷獣が現れた。
自分ほどの妖怪が封じられようとしたことに、自尊心を傷つけられた雷獣は、雷鳴のような咆哮しながら、小次郎へと突進する。
此処から逃げ出したいが、小次郎は逃げることが出来ない。
それは、雷獣が四本脚の大きな妖怪だったことで、九尾を連想させてしまったからだ。
逃げれば、逃げた先で暴れ、あの災厄が、起こってしまうかもしれない。
この雨の中では、描くことも出来ない。
最早、何も出来ないと覚悟を決めた時、背後から捉まれ、一緒に前へと転がり、辛うじて雷獣の突進を避けた。
「彦左衛門さん! どうして?」
「若いもんだけ残して、逃げれる訳なかろう!」
「でも、このままでは二人とも……」
過ぎ去った雷獣は、すぐさま方向を変え、小次郎を睨みつけると、再び突進すべく、前脚を踏み出そうとしたその瞬間、突然、動きが止まる。
それはまるで、小次郎に描かれたような、雷獣の時間だけが止まっている感じだった。
そして、再びその時間が動き出した時、
「なんで!?」
先程までの低い声と打って変わって、少年のような高い声を洩らした。
雷獣は、どうやら攻めあぐねているようで、その場を左へ行ったり、右へ行ったりするのだが、前には一歩も進まない。
暫くすると、雷獣は複雑な表情を見せ、空の彼方へと消えて行った。
「た、助かった……のか?」
緊張が解けた所為で、一気に疲れが押し寄せ、小次郎はその場に崩れるように座り込んだ。
すると、それを避けるように、犬が横に跳ねた。
「なんだ、お前も居たのか。鰻の時は逃げた癖に」
ホッとした所為もあって、地面が濡れているのも気にせず、小次郎は座り込んだまま笑う。
普段なら、釣られて笑う彦左衛門であったが、それよりも、気になることが口から出た。
「小次郎君……君は一体、何者なのかね?」
そう言って、座っている小次郎に手を差し出す。
小次郎は、その手を取り、ゆっくりと立ち上がり、言えなかった真実を話し始めた。
「すみません、実は私、退魔師なんです」
「退魔師?」
「訳あって、妖怪を退治しながら、旅をしています。その訳というのが……」
少し言葉を詰まらせながらも、話を続けようとする小次郎を彦左衛門は気遣い「言い難いことなら、無理せんでもいいよ」と返事した。
しかし、宿など色々世話になっていて、話さないのも心苦しく感じていた小次郎は、全てを話すことにした。
「いえ、話させてください。宛てが無いと言っていましたが、実は有るんです」
「もしや、公儀の隠密か、何かかね?」
「いえ、そんな大それたもんじゃないですよ。私の宛ては場所ではなく、九尾と言う名の妖怪なんです」
彦左衛門は、その名を聞いて、目を丸くするほど驚いた。
「九尾?」
「はい、私の住んでいた村が九尾に襲われ……私以外……九尾に喰われました」
「喰われた? 九尾に?」
余りの衝撃的な発言に、聞き返した。
「信じてもらえないかもしれませんが……私の妹も、私の目の前で……」
涙を浮かべる小次郎を見て、彦左衛門は慌てて否定する。
「いやいや、君の話を信じてない訳じゃないんじゃよ。現に今、妖怪を見たばかりで信じないのは、逆に可笑しい。九尾なんていう余りに大妖怪の名が出たもんで、つい疑うような言葉が出てしまった。申し訳ない」
声を出せば、涙が溢れ止まらなくなると感じた小次郎は、右手で口を押さえ、左手で謝らなくてもいいですよとばかりに、手を出し首を振った。
「そうか、仇を討つための旅という訳だったんじゃね」
小次郎は、黙って頷く。
彦左衛門は、天候のように曇った心を変えるべく、話を変える。
「小次郎君が腹を割って話してくれたんじゃから、儂も腹を割って話そうかの」
そう言うと、彦左衛門は微笑んで話を続ける。
「実はな……鬼の依頼を受けたことが有るんじゃよ」
え!?
「もう随分と前じゃがな。父親の形見を探してくれと頼まれた」
少し、落ち着きを取り戻した小次郎は、手を口から外し質問をする。
「見つかったんですか?」
「あぁ、見つけるのは簡単だったんじゃが……手に入れるのに、苦労したよ」
彦左衛門は、その時の事を思い出したようで、苦笑した。
「でな、その苦労して手に入れた物をその鬼に渡して、お代を戴いたんじゃよ」
「そんな事が……」
「まぁ、長く生きてりゃ、色々な体験をするもんじゃよ。お、晴れてきたな」
話している内に雨は止み、雲の隙間から陽が顔を覗かせた。
「あの妖怪が、雨を降らせておったんかな?」
「かもしれませんね」
立ち止まって話したことで、良い休憩にもなった。
「興津まで、あともう少し、そろそろ行こうか?」
「はい」
次の宿場、興津を目指し、再び、歩き出した。
残りの道程は下りだけなので、歩くのは楽だったのだが、色々有り過ぎて疲れ切ったその歩幅は狭かった。
あぁ、早く宿に入って寝たい。
否、その前に風呂だな。
あ、風呂の後は、飯か……飯だな。
腹いっぱいにしてから、ゆっくり眠ろう。
そんな着いた時の事を考えながら歩いていると、小動物がひょっこりと山道に現れた。
「なんだあれ? 猫? 否、狸ですかね?」
「ん? おぉ、珍しい! あれは白鼻芯じゃな」
「はくびしん?」
「ほら、鼻の筋が白いじゃろ? それでそう呼ばれとる。この辺りで……多いのかの?」
現れた白鼻芯は、近づくでもなく、逃げるでもなく、ジッとその場に居て、まるで自分達が来るのを待っているようだった。
そして、ちょうど横を通り過ぎた際、白鼻芯はトコトコと犬に近づいてきた。
「お? なんだ? お前に用があるみたいだぞ」
しかし、犬はそんな白鼻芯を気にも留めず、其処に何も居ないように歩き続ける。
それを見て彦左衛門は、呵呵と笑った。
「どうやら、振られたようじゃの」
「まさか、違う生き物なのに」
と、小次郎も笑ったのだが、まるで彦左衛門の言葉が当たっているかのように、その後、白鼻芯は項垂れながら、トボトボと山道を外れて行く、森の中へと消えて行くその姿は、夕陽と相俟って、哀愁が漂っていた。
「もう夕方かぁ」と陽を目で追って行けば、その先に宿場が見えた。
「あ、興津ですよ! 興津!」
宿場が見えたことで、元気を取り戻した小次郎が、目的地を指差す。
「まずは、宿に行って風呂じゃの」
「ですね!」
読んでくださって、ありがとう。
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それに使う血は、小次郎君の血じゃないと駄目なんかね?
他の人の血とか、動物の血とか……
次回「亀の甲より年の劫」




